辺りは雨雲が立ち込めているというのに、不自然なほど乾いた風がからかいながら走っ
ていった。薄く大地を覆っている雲はゆったりとした動きで、風に踊らされながらも
聖地イェルサレム北東部のスコープスの山々へ流れていく。スコープスの山々は
少しばかりの草原が、ほずれたカーペットの毛玉程度にあるばかり。他は絹のように
さらさらとなびく乾いた砂でおおわれた広大な大地だ。その稜線の起伏もあまり
激しくなく、まるで無限の地平まで続いていきそうな平らで神秘的な山地。雲が
その上を走っていく姿はなんとも形容しがたい神々しさを生み出していた。
イェルサレム東方には小高い丘のようなオリーブ山がゆったりと足を延ばしていた。
その名の如く小高い丘のような山は香りのいい翠色のオリーブの木々で覆われて
おり、それはここに地を築いた賢明なるギリシアの先人たちにより受け継がれてきた。
今もなお搾取のしすぎは街の掟で厳しく定められている。
されど度重なる聖戦でそのオリーブの木々からは数度、香ばしく上品な匂いは途絶え
る危機を被ったこともあった。何人をも魅了する上質なオイルを持つ木々は見事に
焼き打ちの対象となり、無慈悲な炎が放たれる。十字軍の時には逃げ惑う異教徒達を
追撃しようと多くの馬馬がその山を、轟音と共に、そして無作法に駆け抜けていった。
だが、そんな事があっても幾度となくオリーブ山はスコープスの山々の息吹を受け、
昔のように清々しい青葉をその葉に宿してきたのである。
小雨がぱらぱらと片顔を弾いていく。テンプル騎士団の戦士達が聖戦へ赴く
その道のりは今や、このけったいな空気と雨で一様に表情に曇りがかかっている
ように見えた。小雨はただ戦士達の顔をハーブの弦を弾く演奏者のように繊細
かつか細い動作を生みつづけるが、そこから生まれるのは耳に心地よい
宮廷音楽師ではなく踊りながら民衆を、国を、そして人を煽る皮肉屋で風刺家の
道化師だ。
彼らはオリーブ山とスコープスの山々の丁度真ん中にある、ときたま白塗りの土壁で
できた家が散々と立つ道を行進していた。道は馬車の車輪などで適度に踏み固められ
、きちんとしたイェルサレムへの交通網が整備されている事が伺われる。そして同時に
ここらに異教徒達が侵攻をしていない、すなわちこのテンプル騎士団ら十字軍の
置き土産達がまだまだイェルサレムにおける砦の戦力という事を示唆していたのだ。
ここらはドレクール家、すなわちギャストン卿の領有地となっていた。同時に没落
したパイアン家、シルヴェストルの僅かな領有地にもなっているがこれは若き騎士の
諸侯には任せておけぬ、とギャストンが同時に領主を務め管轄しているのだ。それは
イェルサレム周辺の諸侯の領地のおよそ4割を占めており、ドレクール家の支配が
凄まじい壁だという事が垣間見ることが出来た。ここに従軍している十数名のギャストン
の従士達も、普段はこの領地かイェルサレムの市街地に住み農業や職人などに気を
傾けている。
軍団の先頭をいくギャストンは自分の領地を抜ける際、懐かしき視線をやり従士達も
また先ゆく不安な世界の光を避ける事が出来ずに、暗い目線と僅かな涙を頬にため
ながら戦いへ赴いていった。その光景を見て、テンプル騎士団達全ての戦士達は
帰るべき自らの故郷を想い、尊い自分の命を聖戦という名の天秤に架けて、測りを
よみとる。たったその読み取りのだけに彼らは俯き、同時に値をいうだけなのに
歯を食いしばったりして、目からでる遥かな故郷の想いを小雨のせいにしたのだった。
小雨に打たれる軍団の真ん中あたり、シルヴェストルは無口にただひたすらに馬を
ひいて歩いていた。重い騎士の格好は昔からの修行でこのまま後ろに一回転できる
くらいには慣れており、歩く事には全く持って違和感すら覚えなかった。むしろ背中に
十字の紋章が入った盾を背負い、腰のベルトに剣を差す事には一種の心地よささえ感じた
のである。
右手には四角い鉄兜を持ち、左手にはアハルテケであるウォーチャントの手綱を握って
いた。彼はときたま美しくたくましい栗色の毛並みをもつウォーチャントの方を振り
返り、その賢そうな鼻梁に軽く息を吹きかけてやったりして、楽しみながら行軍を
続けていた。周りの他の諸侯たちの従士達は何処か不思議そうな目で彼の事を
みている、いや、不思議というよりこの若々しい青い騎士がいる事に少々の新鮮さを
感じていたのだろう。
だが、ドレクール家の領地を超える辺りになると皆一様に故郷の事を想い初めてか、
感慨深そうな表情をしはじめていた。シルヴェストルもイェルサレムの母の言葉を、
心の内に反芻させた。自らの信じる道をお生きなさい。そうすれば必ずや、自分の
答えを見つけられるでしょう
母上はまるで、父上の行く末を知っているかのような素振りで話していたっけ……。
そして父上も選択をした、自分の道を往った、という上から全てを眺めていたかの
ような事も話していた。そう、シルヴェストルはふと、母の言葉につっかかりを
覚え始めていたのだ。その深慮深くて、深すぎてもはや空洞の瞳は何色の光を
みているのだろうか、何を見てきたのだろうか、父の事を知っているのだろうか。
いやそんな深い疑問と母の言葉を胸に雨と共に刻みながら、足を踏みこんでいったが
彼はその踏みこみ方にすら疑問を抱きはじめていたのだった。
手綱をとるウォーチャントが、首に鎌を下ろされたかのようにうなだれ考え込み
始めた彼を深慮してか、ブルルルウと低く鼻を鳴らす。その声ではっと一瞬我に
帰った彼はよしよしと手綱を持った手で眉間を撫でてやり、目の前にある聖戦への
光だけを見つめようと大きく息を吸い込んだ。
こんなのではだめだ、これから待ち受けるのは戦い。半端な心じゃすぐに馬から
槍で突き落とされ、身ぐるみを剥がされ、異教徒の残虐な仕打ちをうけることと
なってしまう。いつも言い聞かされてきた事だ。だが大きく意気込んで目にぐっと
力を入れたものの、彼には入ってきた小雨が酷く痛いように感じた。
その日は何事もなく、地中海地方からふきぬける乾いた風に助けられ雨雲は乾いた
温暖な空気に変わり、雨もあがった。夕日が地平に沈むときには美しい斜陽の輝きが
ちょうど聖地と重なる、その時には一同、思わず感嘆の声を漏らすほどであった。
夕方のミサを小うるさい雨の中でやる事を免れた彼らはほっと息をつきながら、
夕日の聖地へ神父を兼ねるギャストン卿が背を向け、皆が顔を聖地へ向けてミサを
執り行った。ちょうど彼らがズィリハの地まで来たところである。
ミサの後、ギャストンの号令によってこのイェルサレム東方の地にあるズィリハで
野営を取ることが取り決められた。ズィリハはよく羊飼いが訪れた土地として知られ、
至る所には馬達が食むことのできる草原がごろごろと大きく転がる岩岩の間に広がり、
見晴らしもよく野営には丁度いい場所だったのである。
幾人かの諸侯たちの命令によっててきぱきと、ペルシュオン種の馬が引く大きな荷台
から革で張られた丈夫なテントが従士達によって、下ろされただちに組み立てが始まった。
テントはゲルマン地方由来の丈夫なものであり、野営では信用が高いという。
シルヴェストルがぼぉと馬飼いのようにウォーチャントの馬草を食んでいる姿を見ていると、
いつのまにやらテントは立ち、辺りでは数は制限されながらも、たき火も始まっていた。
夕闇に取り残されたようにここだけ光が灯っていた。辺りを見渡せば光も何も無い、夜。
暗闇。辺りは人家もなく、ここらはかつて今より荒んでいた、辺りを治めるアラビアの
諸侯たちの古戦場だったという。今にもこの草原の土を掘り返してみれば多くの帰り
どころを失った骸が、何も見つめない深い眼窩を光らせる事であろう。
シルヴェストルはギャストンがいるたき火に招かれた。
ここらはギャストンがもつ領土が出身の16名の従士達が薄暗い闇の中、領主ギャストンを
中心にしてたき火を囲んでいた。各々この時だけは武具を野営のテントに中に置き、
まず神への感謝への祈りから始まった。その後には談笑したり、こくりこくりとカップを
もったまま眠る者もいる。皆、騎士や従士であるが前に修道士なので全て穀物などの粗食で
済ましていた。勿論、アルコール類の摂取はこの節制のために控えられている。
シルヴェストルもギャストンの近くに居座り、周りの従士達と談笑していた。
久々のこのような機会に彼自身も笑みを絶やす事は無かったのであった。少し頬こけた
大人びた顔にときたま少年のような明るく快活な表情すらやどしたのである。
「ああ、あのいつもギャストン様に、まるでウシアブの様ついて回っていた騎士見習いの
少年が……今やシルヴェストル様も立派になりおった、ハハハ。
愛馬のアハルテケの相応しいパートナー、あんな飛び回っていた頃も懐かしい」
顔にいくつもの古傷をおった年配の従士は乾いた声で笑いながら、懐かしそうな表情をする。
その言葉にシルヴェストルは若干、口に含んだバターミルクを吹きだしそうになって、
なんとか堪えた。口に少し苦みの入ったミルクの味が隅々まで行きわたっていることを
感じる。
「そんな時もありましたっけなぁ……」とぼけたような表情をして、また口にバターミルク
の入ったカップをもってって誤魔化す。しかし従士はいたずらっぽく笑った。
「ありましたよ、ハハハ。いつの日かなんて家畜小屋の柵を壊してしまい、豚や鶏達が
街中を走り抜けていった時なんて、泣き泣き真っ暗なお仕置き部屋で一晩を過ごしてた
じゃないですか」
「あ!俺もそれは知ってるぞ、あの時のギャストン様の顔といったら!
俺達もそぉぉおら怖かった」
向こうで炒ったエンバクの実を口に運んでいた従士も陽気な笑い声を出しながら、会話に
混ざってきた。周りの従士達も、ああ、そうだな、と懐かしげな吐息を漏らしながらまた
話を続けていた。
「や、やめてください、そんな昔のことなんて……」
顔を赤面させながら彼は俯く。そんな彼の方にギャストンは振り向き、勢いよく
いつもの通り突然、シルヴェストルの肩をバンッと叩いて少々周りをどよめかせた。
だが相変わらず彼にとってはいつもの事なので、その程度ではびくりともしない。
するとギャストン少し笑みを浮かべながらからかうように。
「シルヴェストル卿、君が昔騎士見習いだったころは、へまばっかりだったものな」と言う。
「ええ、まぁ……まぁ。
でも、あの時はへまするよりも、騎士道修練のためと街中の女性に騎士として接する。
今思えば。いいや、今もですがあの時が一番私にとっては苦痛でしたよ」その言葉で
周りの従士達が一同に笑いながら、俺は羨ましかったがな、いいよなぁ俺達は全然だぜ、
だの愚痴をこぼす。気付けばシルヴェストルはこのたき火のグループの中で、真ん中に
いたのだ。その事実に心の内で驚きながらも、彼はなかば本当に体がここにあるのか、
不必要な疑問を覚える。よく言えば意識があるか分からないこの浮遊感が気持ち
良かったし、悪くいうと安定しない心がどうしようもない不安を生みだした。
小さな会話がぽんぽんと周りで生まれすぐに消え、少しずつ、皆は口数を少なくして
いく。気付けば火の中にくべられた枝木が火に手を取られ、パチパキッと爆ぜる音だけ
夜の楽譜の中に刻まれていった。周りの諸侯たちのたき火も薄明かりになりかけ、
白い煙が小さく立ち昇り始めている。
「ギャストン卿、もうそろそろですね」
「……ああ、そうだな。他の領主にも全ての確認事項を伝えといてくれないか?」
「……と、申しますと?」
「このズィリハの地に陣地を置くとする」
「はっ、わかりました」ギャストンと、彼の右腕らしき従士が眉間にしわを寄せながら
会話をし、その後従士はいつも通りといった様子で立ちあがり他の諸侯たちが囲む
たき火の方へ歩いていった。従士を見届けると彼は間を少し開けて、空の金属カップを
もち立ちあがる。
「さぁ、皆明日への戦いへ備えもう休もう。
すまないが、ブーグローとあー…ダンドリグ。2人は少しの間見張りをしてくれ。
その次はファビウス、エストレ。クロックル、ブイヨンと順に頼む。
火をあまり弱めないでくれたまえ」
「わかりました」「はい」
次々と事務的な指示をくだしていき、一通り終わると夜のお祈りを済ませ、体を休める
者と見張りをする者に分かれ始めた。皆体を伸ばしたりしてリラックスした後、眠そうな
顔をしながら張られた白革のテントの中に入って行き、くたびれたような顔をした見張りの
従士はまた座りなおす。
シルヴェストルも自分の使う共同のテントに入ろうとしたとき、ギャストンがふっと
こちらに歩み寄ってきた。鎧も外しているので音もなく歩み寄って行く彼は、その身の
巨大さと夜の静けさから感覚を緩めていた者にとってはどきりときたのだ。
「あ、ギャストン卿。おやすみなさいませ」シルヴェストルは目をぱちくりとさせながらも
挨拶をする。しかし、彼は蓄えた黒い髭を少し口角をあげて奇妙に震わせる。憂いた瞳を
たき火のほうに向けながら、口を開いた。
「過去とは史実の賢人たちも利用してきた万能な、いわば定規だ。それにすがって一生を
生きていくこともできれば、それを捨ててまた違う過去を生む事もできる。
私は、私の定規は歪んでいたかもしれない。いつから誤っていたんだろうか。
ただし今、この戦いに身を置く事ができてとても幸福だと思っている。神は未来を創造
し、過去を裁いていく。だから過去にしか携われない人間のような私が関わる事が出来て、
とても幸せなのだよ。
ああ、シルヴェストル。神はこんな私も許してくれるだろうか。いいや、必ずとも
許してくれるであろう。ユーク、ああ、すまない。」
彼は笑みを浮かべているが、薄明かりではよく分からなかった。一瞬、暗闇の荒れ地の
向こうでカーテンが翻していくような、揺らぎが見えた。シルヴェストルはそっちに
気を取られ光もない所へ目を凝らす。だが、そこにあるのは広がる広大なズィリハの大地
であった。月も、星も出ない古代ギリシアの神々の時代かららも見はなされた古戦場の呼吸は、
時に人にカビ臭い考えと言動を与えるのだろうか。
気付くと、ギャストンがまたしっかりと足取りでテントへ入って行った。