小説部屋の仮説

創設小説を並べたブログだったもの。
今は怠惰に明け暮れる若者の脳みそプレパラートです。

<帝国の灯> 第15話  渡峰旅団の秋水

2011年04月29日 | 小説

彼が階段の下で手を差し出した先にいたのは、自分と同い年くらいで健康的な肌と
さらりとした流砂のように流れる黒髪をもつ少女だった。彼は手を差し出した後に、
悟り、そして目を見張る。まるで彼女は静観としたエメラルドグリーン色の海の
世界で、冷冽の童話を唄う吟遊クラゲのようだったのだ。
「c…Cam on(あ、ありがとう…)」彼女はそう言いながら甲の手を取り、立ちあがった。
何語かは彼には分からないが、とりあえず英語圏の言葉ではないようである。
イントネーションは東アジアの方だった。

背丈は少し彼より低いくらい、目立たない新緑色の柄が織り込まれてるワンピースを
着る彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど真っ黒なのに、透き通るような透明感を持つ
不思議な感覚を持たせた。すらっとした体は健康的な褐色の肌によく似合い、ひと
なつっこいような眼は見るものを引きこませるようである。
彼女が「ぅーっ」と呻きながら立つ時、さらりとした髪の毛からは仄かな花の香りが甲の
鼻孔を優しく撫でる。

彼は立ちあがった彼女をじいと見つめた。不思議な感覚が、懐疑と不安の胸を包み込む。
川霧に包みこまれるように、体にのしかかるような感覚はなく、されど奥底から放たれる
温かみがそこには確実に存在するのみであった。
彼女も甲の事を見つめる。深く吸い込まれそうなクリリとした瞳は、見つめられると
そこへまっさかさまに落ちてしまいそうな、不思議な浮遊感をもっていた。

言葉に表現できない感情を胸に抱きながら、甲はゆっくりと言葉を選ぶ。そして英語で
ジェスチャーを交えつつ語りかけた。なるべく綺麗な発音で、聞き取り易く。
「大丈夫?怪我してない?」
「ぁ…あ、あの…ごめんなさい…」
彼女はか細い声で、答えた。少し堅い英語であった。彼女が最初に発した言葉も、甲には
理解ができない言葉であり何処から出身かよく分からない。彼女は続ける。

「あなたが急に振り向いて…驚いて…だから…」
「そういう事だったの、ごめんね驚かせて。……怪我はしてないみたいだし、よかった。」
彼はそう言いながら彼女の安否を確かめる。どうやら膝や肘は特にすりむいた様子は
見られないし、この家の歩くと軋む板張りは人に優しいようだ。インドネシアの美しく
優美なエメラルドグリーンの海にひっそりと存在する地殻変動による大空洞、その中
にいる事を感じさせない普通の家のような造りは、ここにつぎ込まれた資金の潤沢さを
物語っているのだろうか。

「あっ」彼女は何かを思い出したかのように目をパァっと輝かせる。
「あなたに渡すものが……えっと……クラからです。」
「クラ……蔵助さんから?」
蔵助、その名前だけで甲にはおそらく昨夜、この目で見てしまった過去の埋もれた記憶が
悲愴を伴い脳裏を電流のように疾走していく。彼が自分の両親、過去にいったいどのように
関わっていたのか、未だに分からない。まだ彼とは目が覚めてから会ってはいなかったからだ。
対面したら、いったい自分はまず何を聞いてしまうのだろうか。
両親との関係?この組織との関係?日本帝国との関係?いや、そもそもなんでそれを
だまっていたか?全てが捕らぬ狸の皮算用と分かっていても、甲はひしひしとつのる彼に
対しての疑問が嫌悪に変わってしまうまでの時を内に考えるしかなかった。

彼女はワンピースのポケットから何かを取り出そうと手を入れる、それとほぼ同時くらい
だっただろうか。

2人のいる階が急に騒がしくなり始めたのだ。がやがやとした声。
会話、罵声。様々な声が混じりあっている。何か取り立てるような焦るような声、
どなり散らす声、冷静に物事を観察する声。

「おい、あんた!ヴィヴァーには許可とってんだろうなぁ!」テドラデが声を張り、それは
家の廊下をガンガンと揺らすほどの振動を持つ。凄みの入った声は思わず、身をびくりと
震わすほどだった。
「黙りなさい、軍人崩れのコイドッグが。君の主君とは関係ない。これは我が
 峰渡旅団の管轄の話だ。通してもらう」
テドラデの荒々しい声とは対照的で物静かな、されど身が冷たくなるような
深い冷気を纏う、聞いたこともない男の声だった。言葉の端々に冷たく嘲り笑うような台詞を
つけるような語りは、人の事を芯から冷たくさせるようにも思える。
そして、わたりみね、と彼はまるで日本語のように流暢に発音し、甲はそれに対して「ん?」
と思わず突っかかりを持った。英語ばかりが通るこの基地の中では蔵助以外では聞いた事のない、
日本人のように綺麗な発音だったからだった。

「チィッ、お前らまた蔵助のことで来たわけじゃないよな。容赦はしねぇぞ。
 ケツの横に弾丸ぶち込んで道を十字路にしてやってもいいんだかんなぁ!」
「アンナトコロを赤く染める気はないけど、仲間内、手は出したくないのよ。
 あんた達のした事、忘れたわけじゃないわ」
ベリーの声も聞こえた。容易に彼女がブロンドのショートヘアーを振り乱しながら、
厳しい形相で男にも勝るように責め立てるところが想像できた。
「黙れと言っている、バーナード諸君。君達には関係ない」

その激しい対立を思わせる、戦場の猛者を喪に付かせさせないような荒々しい会話は
だんだんと近づく。荒涼とした大地に立つ2人は、古戦場から失せた覇気がまた朽ちた
鉄屑と化している戦車から昇り立つことに、本能的な畏怖を覚えていた。

気が付くと少女は甲の影に入っていた。背中を軽くつまむその手は小刻みに震え、
背中にかかる息は落ち付いているようには見えない。ふわりとした重みが乗っかる。
それだけで甲は、この子を護ってあげたい、という酷く明快であり単純な騎士道精神が
芽生えている事に気が付いた。背中に軽く手をかけ、震える彼女の手を、ギリシャへ来た
イタリア兵のように取る事はできないが、きっちり身を呈して盾となり、己も震えながら
もその場に立ち続けたのだ。過去のように、その脚は後ろへまわれ右をしない。後ろは
ただ護る者のためにだけそこに立ち続け、主にとりつく古代ローマのゲニウスと化した
その瞳はしっかりと声のする方へ向ける。

そしてとうとう、階段の階下に立つ2人の目の前に、今まで罵声を飛ばし合い口論する
古戦場の商人達は姿を現した。声はぴたりとやみ、沈黙が訪れる。そして、その地雷原を
包み込む外見からは分からない、内に入ってから初めて分かる異質な空気を破ったのは
厳しい顔をしたベリーだった。

「コウ、あんたは戻んなさい。」
「いいや、そんな必要はない(No,Nothing this needs)君が甲君だね」
目の前に現れた男は流暢な日本語で甲に話しかけたのだ。目を丸くして驚く甲は今まで
の冷たい堅くなな口調を放つ人物が彼だったとは到底信じることが出来なかった。
テドラデすら見下げる長身でやや頬こけるほど痩せた男は、そつなくロングコートと
スーツを着こなしていてまるでレジスタンスの戦闘員や、今までの氷のような言葉を
吐いていた人間には見えなかった。細い目と小ぶりな口元は日本人的な顔つきを想起
させ、髪型もきっちりとしてバラけてだらしなくなっているわけではない。どちらか
というとサラリーマン、勤続10年余の勤務態度良の人間と言われれば信じてしまうほど
である。

「おい、身内言葉を内緒話で使うなよ!英語かエスペラント語を使いやがれこの野郎!」
「黙れと言っている、私はこの子と話さなきゃいけない。それが道理というものだろう?
 あまり騒ぎ立てると、私の部下がセーフティーを開ける手間が増えてしまう。」
そう言いながら怒るテドラデを冷徹なまなざしで見つめた。テドラデも顔を微妙に
紅潮させながら息を吐き、そして甲の方を見るとぶるぶると震える腕をガッとつかんで
何かのポーズでアピールする。きっと、怪しい事があったら俺が叩きのめす、という
合図なのだろう。彼の目は憤怒によって闘将のような影の入った眼光をし、瞳孔が
今にも開いてしまうのではないかというほどだ。もし本気を出しててしまえば一瞬に
して焦土、少なくともブラッドバスは避けられまいだろうと勝手に考えてしまい、
甲は急いで首を横に振った。

「リャム、あなたはこっちよ」ベリーが甲の居る階段の方へ言う。誰かいるのかな?と、
彼が後ろを振り向こうとすると背中を軽くつまんで震えていた女の子は、ぱっと離れて
ベリーの方へ向かっていった。ベリーはそのまま女の子の肩に手を置いて、長身の日本人を
キッと睨みながら踵を返し、その場から離れていった。
女の子が通る瞬間、髪の毛がふわっと揺れ仄かな花の香りが鼻孔を優しく撫でていった。
そうか、彼女はリャムというのか。

「認めるが俺はここに残っている、立ち話だけにしてく…」「勝手にするがよい」
テドラデの言葉を遮って、男は面倒くさそうな顔をしてぴしゃりと言い放つ。男は
視線をこちらに向けた。日本人的な顔つきがひどく久しく感じた。あの蔵助さえも今の
甲にとっては、遠く水平線に浮かぶ歪な錘状の城、薄氷と化したのだ。つかめない存在
だけが遠くにある、そんなもどかしさを彼は内に覚えていた。

「さぁて、君が……そうか、相田さんのご子息か。」
男はしゃがみ、目線を甲に合わせてた。黒い水彩絵の具が少々の水で淡くパレットの上で
溶かされたような色の湖、その湖上に浮かぶワルツを踊る白い白鳥は瞳の輝きとなり、
現況を見つめる事をしようとする幼き瞳に微かな慄きと希望を与える。
男は安心したかのようにすぅと体を上げる。長身の身長が階段の梁をかすめた。

「私は日本に本拠地を置く反帝国体制組織、渡峰旅団。その統率者の者です。
 秋水と呼ばれていますし、そう呼んでくれると、嬉しい。
 本名はとうの昔に故郷に捨ててきました。

 甲さん、あなたの事は本当によく昔から伺っておりました。この目で見れる
 ことを、この秋水、至恭至順の想いから待ち望んでおりました……」
秋水、そう名乗った彼は最後の言葉を濁しながらぐっと頭を下げたのだった。長身の彼が
頭を下げると甲の目鼻先まで短髪がかすめる。突然の行動に今まで警戒するように口を
きゅっとしめていたが、思わずポカンとしてしまう。そして驚く甲を脇目に彼はまた頭を
上げて、今度は厳しい表情となった。

目は淡い黒から燃え盛る業火の中にほおり込まれた黒炭のように燃えあがり、普遍的な
顔は獅子の顔となった、その豹変ぶり、グルジア特殊軍元兵士のテドラデさえも一瞬身
構えるほどであった。

「単刀直入に警告します、そして、そのためにこの地に赴きました。
 金剛蔵助、あの男に心を許してはいけない。あの男は危険だ。」

彼の眼はただ燃えあがっていたようには見えない。絡み合う炎の蛇は各々鋭い咆哮を上げる。
それはただの半鐘を上げる咆哮ではなく、復讐に燃える咆哮のようにも思われた。


<帝国の灯> 第14話 影が付いてきた

2011年04月08日 | 小説

『そうだろう、金剛蔵助君よ?君は実に…実に不信だが優秀だ。』

その言葉で甲は瞼を開き、うっすらとした光を感じた。
「うっ……。」うめき声を漏らし、まどろむ目をこすりつつ、甲は重い上半身をやっと
起こし上げる。体を伸ばし、首をまわす。微かになる関節音が自分の体がきちんとある
ことを思い知らせてくれた。頭の中で残る、夢の微かな残像。あの世界に体を
置いてきてはいないか、彼にとってはそれが酷く恐ろしかったのだが、同時に今まで
辿りつけなかった深層に辿り付く事ができたこの体に、ひどく感謝の想いを寄せる。

関節は鳴り、自分の体も彼は感じる事が出来た。けれども体の輪郭が消え入りそうな、
溶けてしまいそうな、そんな感覚はいまだに残っていることも彼は理解している。
気持ち悪いほど不可視感。胃の中から何かが戻るような感覚と同時に、自分の不安定さ
を思うと気持ち悪さが増大するのだった。
彼はベッドの上でえづいた。何度も何度も、何かを吐きだそうとする。けれども
吐き出せない。由来の分からない体の揺らぎはひどく内臓を酔わせる。
涙がにじむほど空の胃を流動させ、涙がにじむほど自分の肌に爪を立て、涙がにじむ
ほど腹を抱えた。そして数分後、ようやく周りに視線を向ける事が出来た。
「うぇっ……ここは?」

そうだった。ここはレジスタンス達の秘密に造られた基地の中……。
無愛想な叔父叔母夫婦の家でもなければ、虐げられ居場所のない学校の旅行の一団に
いるわけでもない……。
彼はそう、心の中で再認識をした。しかし、ひどく自分でも驚くほどに心は平穏を
保っている。突然の拉致、昏睡、船旅、秘密の洞窟。全てが目まぐるしい速度で
目の前を駆け抜けていった。事情は彼に理解をする暇を一寸程度しか与える事を
許さずに、翻弄していく。
そして、夢の中で明らかになった夢の続き。途端に今までの夢のことなんてどうでも
よくなった。顔立ちがはっきりしないボンヤリとした存在だけの母親や姿すら
覚えてない父親の存在がどうでもよくはないが、塗りつぶされた記憶と古き
ながらも新しい事実が幾層もの断面を覗かした。

蔵助……。あのぴっちりとした日本軍の軍服を身に纏う威風を持った中年は名前を
しっかりと呼んだ。横でおびえたように目を泳がす若い男。彼が蔵助。
意味が分からない……。甲は顔を苦渋に歪ませ、頭を手で覆う。
帝国鋭進党の躍進……。手の隙間から困窮の熱い吐息を漏らす。
昔、蔵助さんは父さんや母さんににいったい何をしたんだ……。
分からない、どういうことだ、なんでそうなったの。
手で覆う頭を疑問だけが飛び交っていった。

……ああ、でもこんなことばっかりじゃしょうがない。
彼は苦渋の口を閉じ、不幸の色の目を開け、ゆっくりと手の網からほどき、
顔を上げた。彼の疑問は最初から、この基地に辿りつく前から山ほどあった。
テドラデの態度と過去、蔵助の素性、多分これからももっと出てくるであろう。
悩んでいてはしょうがない、彼は自分にそう言い聞かせて部屋を見回す。

殺風景な一人部屋だった。灰色の内装の部屋にあるのは、彼が横たわっていた白いが
カビ臭いシーツが被さった簡素なアルミ製のベッド、小さな木箱、木製の机のみ。
壁には木枠で囲まれた不透明なガラスの小窓が一つあり、そこから洞窟の様子が見て
取れる。どうやらここは2階のようであり、この洞窟の全貌が町の中央部に位置して
いながらも首を少し傾けるだけで見れる。

真下には広場のようなものが広がり、数人の男たちが座り込んで談笑している。皆、
風貌は様々でスーツを着ている者、ラフなジャケットを着込んでいる者、顔立ちも
北欧系やアジア系も混じっている。
真下から左の方に目を移すとダミーなのか本物なのか分からないが、倉庫街。右の方に
うつすと一様の形容をした木箱が沢山並べられ、その間には様々な資材、軍用のジープ
までもが点在している。よく見ると2人の人間が荷の中を確かめたり薄いメモ帳を片手に
物資の山の間をウロウロとしており、彼らはこの洞窟に来た時にあった人達だ。

そして、右の方を見たことによって彼が初めて理解することがあった。もう既にここは
この洞窟の端に位置していたのだ。右手の積荷の木箱や何名かのレジスタンスが確認を
とる作業をしている区画にはコンクリートで補強されたような洞窟の壁が隣接しており、
ここが洞窟の最奥部なのだろう。
とすると陸地はほとんどごく一部で大部分が海水で満たされた空間、ちょうど入江の
ような形でこのレジスタンス達の街は港町としてあるのだ。しかし、彼にはまだまだ
疑問が残る。多数のダミーの建物、膨大な武器、高速艇、多数の人員、整理された
洞窟内の循環システム、区画。全てにおいて膨大で一つの要塞のようなこの地を建造する
に至る時の投資には膨大な財源があるはずだが、こんな一つのレジスタンスのために
ここまでの投資を行う団体があるのだろうか。

不意に、甲の脳裏にグルジアからやってきたテドラデの話が浮かび上がる。
彼の話によると帝国主義国に対立的なグルジアの特殊軍に所属している自分は、国の
命令でレジスタンスに潜入、そこで間接的な帝国への無差別テロ行為を画作していた。
だが、それはヴィヴァロフ、あの貫録を持つタカのようなロシア人の手によって
止められたという。

何故、国家がレジスタンスに介入したのだろうか。一つの疑問が浮かび上がった。それは
風船のようにふわふわと空を舞い、数ある雲のように既知の存在として浮遊する疑問の塊
の一つにふわりと、それもパズルのピースのように的確な感覚ではなく、まるで綿のように
一体となる。
多大な資本がバックについている事は間違いなかったのだ。彼は認識する。それが
個人の資本家か、強大な軍事企業か、はたまた国家か。それはここのリーダー、
ヴィヴァロフくらいにしか聞くしかないだろう。

彼は一人でに納得し、手入れの届いてない曇りの入ったガラス越しにぼーっと外を
見つめることに従事し始めた、その時だった。

ギイイッという扉の古い蝶つがいが開くような音が不意に背後で鳴る。
甲はハッとなって振り向いた。
「ひ、あっ」小さな悲鳴が聞こえ、同時に不安定なベッドが振り向く瞬間にギシっと鳴く。
半開きの扉の向こうで廊下をパタパタと走って行くような音が、耳に届いたその瞬間、彼は
何も考えずにベッドから飛び降りた。

飛び降りると、床の板は長年使われてなかったような埃をせき込むようにして舞いあがらせ
靴下を若干茶色くさせる。

そうだ……ここは日本じゃないんだ……。
彼はそう再認識しながら靴を見つけ出し、いそいそと履くと部屋の外に飛び出した。
足音は左の方へ消えていった。彼が左を見るとちょうど廊下の角で服の裾が、ヒラリッ
と風に揺れるシランの葉のように踊り、そしてまた引っ込む。
彼は早足で追いかけた。先の方からパタパタと階段を降りるような音がやってくる、
おそらく角を曲がると階下への階段になっているのだろう。

何故、彼が小さな悲鳴の声の主を追いかけているのだろうか。おそらく彼も自分で明確な
答えを導く事は出来ないであろう。ただ、初めての接触、それだけを心の内に持つ無意識の
ほしがる感覚は持っていたのだった。

彼が階段への角を曲がろうとした、丁度その時。階下で「キャァ」という小さな女の子の
悲鳴が短く聞こえ、その後にドサッという嫌な音が彼の耳に届く。
思わず足が角を曲がる瞬間、とまってしまった。つま先だけが階段に飛び出て、そこから
足が一瞬動かなかったのだ。顔からさぁっと血の気が引くのを覚える。

まさか、自分が。自分が追いかけたから……。そう思うだけで足が止まる。前にも
こんな事があった……。まるで走馬灯のように景色が頭の中で流れていき、埋もれかけていた
負の記憶がまるで化石のように過去の記憶の層から発掘された。確実に会った事実、見たもの、
感触、感覚。視覚ですらない感情や感覚までもがフラッシュバックのように層から映像
として現れる。

昔、中等学校1年生のころだったか。その頃から彼は孤立していた。クラスの皆からは、その
内気な性格、それに加えて何処からか自分の出生がばれていたのだった。彼は後に、それが
自らの担任からだと知る。
非国民と酷く虐げられ、教室の中では海中に揺らめくカツオノエボシのような毎日。相手にも
されず自らも話そうとはせず、ただ揺らめき、相手が来ても傷つけてしまう。そんな毎日だった
が彼は不本意なのか本意なのか知らないがその存在となる事に慣れてしまった。

そんな毎日が登校当日から続くある日、道で多くの荷物を背負った一人の老人が目の前で
「うわぁっ」という短い悲鳴で転倒をした。大荷物で道端にあったアスファルトの出っ張りに
気が付かなかったのだろう。彼はいてもたってもいられず善意の意で、駆けより手を差し出す。

「あ、ありが…」老人はその手を取り、礼を述べようとするが甲の顔を見て、言葉を途中で
切った。その表情は困惑から次第に変わっていく。眉はつり上がり、困っていたような眼は
相手を蔑むような睨みの眼光へ、皺の彫りは深く刻まれまるでその一つ一つに憎しみと、
嫌悪がまるで形となって現れた。そして彼の手をパシリっとはじいて、スタっと立つ。
そして、言い放った。
「お前らのような非国民が……低能無知な逆賊が……この帝国に邪淫を持ち込むのだ……。
 触るな下朗。汚らしい手、この私の事を取るでない。」

老人がよぼよぼと背を向け、立ち去る姿を甲はただ呆然として見ていた。悔しさすら浮かばない、
涙さえ出ない、心には何も残らない。けれども足だけはわなわなと震え、アスファルトには
震える足の影だけがくっきりと表れていた。本体は感じず、投射された影だけが躍る。
一人歩きする感情は本人の意を置いてけぼりにし、縦横無尽に、自暴自棄に走りだす。

震えは次第に足から腰へ、腰から肩へ肩から首へ、首から顔へ……。
その瞬間、意識もしてなかったのに彼は顔を腕にうずめ、その場でしゃがんだ。
吐き気がおそってくる、気持ち悪い。顔に噴き出る冷たい汗、目にこもる熱い空気、体は震え
感情は付いていけぬまま、今度は体が一人でに走り出す。

記憶の底から感情が映像となって掘り出された。胸が酷く痛む。

しかし、足は震えてなかった。
そう、今の彼には変わろうする遺志があった。あの頃の自分は死んだのだ。自分の骸は日本へ
置き去りにした。このレジスタンスに入って、支配と権力だけが横行するこの世界を変えたい、
そして、両親を奪った帝国への報復。
昨日、あったバキーニさん。彼女は「亡き息子の骸を祖国へ置いてきた」と言っていた。
同じように亡き自分の骸を甲は置いてきたのだった。

こんなことで、ためらってどうする?そうだ、自分は死んだ。今はワルツを踊り続ける生きる
死体。そうだ、全然、怖くなんかないじゃないか。僕はここにはいない、そうだ、今は違うんだ。

気が付くと甲は、階段を下って手を差し出して、こう口を開いていた。
「大丈夫ですか?」
ほのかな明かりしか発しない電燈の中でも、影はしっかりと足についてきていた。