彼が階段の下で手を差し出した先にいたのは、自分と同い年くらいで健康的な肌と
さらりとした流砂のように流れる黒髪をもつ少女だった。彼は手を差し出した後に、
悟り、そして目を見張る。まるで彼女は静観としたエメラルドグリーン色の海の
世界で、冷冽の童話を唄う吟遊クラゲのようだったのだ。
「c…Cam on(あ、ありがとう…)」彼女はそう言いながら甲の手を取り、立ちあがった。
何語かは彼には分からないが、とりあえず英語圏の言葉ではないようである。
イントネーションは東アジアの方だった。
背丈は少し彼より低いくらい、目立たない新緑色の柄が織り込まれてるワンピースを
着る彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど真っ黒なのに、透き通るような透明感を持つ
不思議な感覚を持たせた。すらっとした体は健康的な褐色の肌によく似合い、ひと
なつっこいような眼は見るものを引きこませるようである。
彼女が「ぅーっ」と呻きながら立つ時、さらりとした髪の毛からは仄かな花の香りが甲の
鼻孔を優しく撫でる。
彼は立ちあがった彼女をじいと見つめた。不思議な感覚が、懐疑と不安の胸を包み込む。
川霧に包みこまれるように、体にのしかかるような感覚はなく、されど奥底から放たれる
温かみがそこには確実に存在するのみであった。
彼女も甲の事を見つめる。深く吸い込まれそうなクリリとした瞳は、見つめられると
そこへまっさかさまに落ちてしまいそうな、不思議な浮遊感をもっていた。
言葉に表現できない感情を胸に抱きながら、甲はゆっくりと言葉を選ぶ。そして英語で
ジェスチャーを交えつつ語りかけた。なるべく綺麗な発音で、聞き取り易く。
「大丈夫?怪我してない?」
「ぁ…あ、あの…ごめんなさい…」
彼女はか細い声で、答えた。少し堅い英語であった。彼女が最初に発した言葉も、甲には
理解ができない言葉であり何処から出身かよく分からない。彼女は続ける。
「あなたが急に振り向いて…驚いて…だから…」
「そういう事だったの、ごめんね驚かせて。……怪我はしてないみたいだし、よかった。」
彼はそう言いながら彼女の安否を確かめる。どうやら膝や肘は特にすりむいた様子は
見られないし、この家の歩くと軋む板張りは人に優しいようだ。インドネシアの美しく
優美なエメラルドグリーンの海にひっそりと存在する地殻変動による大空洞、その中
にいる事を感じさせない普通の家のような造りは、ここにつぎ込まれた資金の潤沢さを
物語っているのだろうか。
「あっ」彼女は何かを思い出したかのように目をパァっと輝かせる。
「あなたに渡すものが……えっと……クラからです。」
「クラ……蔵助さんから?」
蔵助、その名前だけで甲にはおそらく昨夜、この目で見てしまった過去の埋もれた記憶が
悲愴を伴い脳裏を電流のように疾走していく。彼が自分の両親、過去にいったいどのように
関わっていたのか、未だに分からない。まだ彼とは目が覚めてから会ってはいなかったからだ。
対面したら、いったい自分はまず何を聞いてしまうのだろうか。
両親との関係?この組織との関係?日本帝国との関係?いや、そもそもなんでそれを
だまっていたか?全てが捕らぬ狸の皮算用と分かっていても、甲はひしひしとつのる彼に
対しての疑問が嫌悪に変わってしまうまでの時を内に考えるしかなかった。
彼女はワンピースのポケットから何かを取り出そうと手を入れる、それとほぼ同時くらい
だっただろうか。
2人のいる階が急に騒がしくなり始めたのだ。がやがやとした声。
会話、罵声。様々な声が混じりあっている。何か取り立てるような焦るような声、
どなり散らす声、冷静に物事を観察する声。
「おい、あんた!ヴィヴァーには許可とってんだろうなぁ!」テドラデが声を張り、それは
家の廊下をガンガンと揺らすほどの振動を持つ。凄みの入った声は思わず、身をびくりと
震わすほどだった。
「黙りなさい、軍人崩れのコイドッグが。君の主君とは関係ない。これは我が
峰渡旅団の管轄の話だ。通してもらう」
テドラデの荒々しい声とは対照的で物静かな、されど身が冷たくなるような
深い冷気を纏う、聞いたこともない男の声だった。言葉の端々に冷たく嘲り笑うような台詞を
つけるような語りは、人の事を芯から冷たくさせるようにも思える。
そして、わたりみね、と彼はまるで日本語のように流暢に発音し、甲はそれに対して「ん?」
と思わず突っかかりを持った。英語ばかりが通るこの基地の中では蔵助以外では聞いた事のない、
日本人のように綺麗な発音だったからだった。
「チィッ、お前らまた蔵助のことで来たわけじゃないよな。容赦はしねぇぞ。
ケツの横に弾丸ぶち込んで道を十字路にしてやってもいいんだかんなぁ!」
「アンナトコロを赤く染める気はないけど、仲間内、手は出したくないのよ。
あんた達のした事、忘れたわけじゃないわ」
ベリーの声も聞こえた。容易に彼女がブロンドのショートヘアーを振り乱しながら、
厳しい形相で男にも勝るように責め立てるところが想像できた。
「黙れと言っている、バーナード諸君。君達には関係ない」
その激しい対立を思わせる、戦場の猛者を喪に付かせさせないような荒々しい会話は
だんだんと近づく。荒涼とした大地に立つ2人は、古戦場から失せた覇気がまた朽ちた
鉄屑と化している戦車から昇り立つことに、本能的な畏怖を覚えていた。
気が付くと少女は甲の影に入っていた。背中を軽くつまむその手は小刻みに震え、
背中にかかる息は落ち付いているようには見えない。ふわりとした重みが乗っかる。
それだけで甲は、この子を護ってあげたい、という酷く明快であり単純な騎士道精神が
芽生えている事に気が付いた。背中に軽く手をかけ、震える彼女の手を、ギリシャへ来た
イタリア兵のように取る事はできないが、きっちり身を呈して盾となり、己も震えながら
もその場に立ち続けたのだ。過去のように、その脚は後ろへまわれ右をしない。後ろは
ただ護る者のためにだけそこに立ち続け、主にとりつく古代ローマのゲニウスと化した
その瞳はしっかりと声のする方へ向ける。
そしてとうとう、階段の階下に立つ2人の目の前に、今まで罵声を飛ばし合い口論する
古戦場の商人達は姿を現した。声はぴたりとやみ、沈黙が訪れる。そして、その地雷原を
包み込む外見からは分からない、内に入ってから初めて分かる異質な空気を破ったのは
厳しい顔をしたベリーだった。
「コウ、あんたは戻んなさい。」
「いいや、そんな必要はない(No,Nothing this needs)君が甲君だね」
目の前に現れた男は流暢な日本語で甲に話しかけたのだ。目を丸くして驚く甲は今まで
の冷たい堅くなな口調を放つ人物が彼だったとは到底信じることが出来なかった。
テドラデすら見下げる長身でやや頬こけるほど痩せた男は、そつなくロングコートと
スーツを着こなしていてまるでレジスタンスの戦闘員や、今までの氷のような言葉を
吐いていた人間には見えなかった。細い目と小ぶりな口元は日本人的な顔つきを想起
させ、髪型もきっちりとしてバラけてだらしなくなっているわけではない。どちらか
というとサラリーマン、勤続10年余の勤務態度良の人間と言われれば信じてしまうほど
である。
「おい、身内言葉を内緒話で使うなよ!英語かエスペラント語を使いやがれこの野郎!」
「黙れと言っている、私はこの子と話さなきゃいけない。それが道理というものだろう?
あまり騒ぎ立てると、私の部下がセーフティーを開ける手間が増えてしまう。」
そう言いながら怒るテドラデを冷徹なまなざしで見つめた。テドラデも顔を微妙に
紅潮させながら息を吐き、そして甲の方を見るとぶるぶると震える腕をガッとつかんで
何かのポーズでアピールする。きっと、怪しい事があったら俺が叩きのめす、という
合図なのだろう。彼の目は憤怒によって闘将のような影の入った眼光をし、瞳孔が
今にも開いてしまうのではないかというほどだ。もし本気を出しててしまえば一瞬に
して焦土、少なくともブラッドバスは避けられまいだろうと勝手に考えてしまい、
甲は急いで首を横に振った。
「リャム、あなたはこっちよ」ベリーが甲の居る階段の方へ言う。誰かいるのかな?と、
彼が後ろを振り向こうとすると背中を軽くつまんで震えていた女の子は、ぱっと離れて
ベリーの方へ向かっていった。ベリーはそのまま女の子の肩に手を置いて、長身の日本人を
キッと睨みながら踵を返し、その場から離れていった。
女の子が通る瞬間、髪の毛がふわっと揺れ仄かな花の香りが鼻孔を優しく撫でていった。
そうか、彼女はリャムというのか。
「認めるが俺はここに残っている、立ち話だけにしてく…」「勝手にするがよい」
テドラデの言葉を遮って、男は面倒くさそうな顔をしてぴしゃりと言い放つ。男は
視線をこちらに向けた。日本人的な顔つきがひどく久しく感じた。あの蔵助さえも今の
甲にとっては、遠く水平線に浮かぶ歪な錘状の城、薄氷と化したのだ。つかめない存在
だけが遠くにある、そんなもどかしさを彼は内に覚えていた。
「さぁて、君が……そうか、相田さんのご子息か。」
男はしゃがみ、目線を甲に合わせてた。黒い水彩絵の具が少々の水で淡くパレットの上で
溶かされたような色の湖、その湖上に浮かぶワルツを踊る白い白鳥は瞳の輝きとなり、
現況を見つめる事をしようとする幼き瞳に微かな慄きと希望を与える。
男は安心したかのようにすぅと体を上げる。長身の身長が階段の梁をかすめた。
「私は日本に本拠地を置く反帝国体制組織、渡峰旅団。その統率者の者です。
秋水と呼ばれていますし、そう呼んでくれると、嬉しい。
本名はとうの昔に故郷に捨ててきました。
甲さん、あなたの事は本当によく昔から伺っておりました。この目で見れる
ことを、この秋水、至恭至順の想いから待ち望んでおりました……」
秋水、そう名乗った彼は最後の言葉を濁しながらぐっと頭を下げたのだった。長身の彼が
頭を下げると甲の目鼻先まで短髪がかすめる。突然の行動に今まで警戒するように口を
きゅっとしめていたが、思わずポカンとしてしまう。そして驚く甲を脇目に彼はまた頭を
上げて、今度は厳しい表情となった。
目は淡い黒から燃え盛る業火の中にほおり込まれた黒炭のように燃えあがり、普遍的な
顔は獅子の顔となった、その豹変ぶり、グルジア特殊軍元兵士のテドラデさえも一瞬身
構えるほどであった。
「単刀直入に警告します、そして、そのためにこの地に赴きました。
金剛蔵助、あの男に心を許してはいけない。あの男は危険だ。」
彼の眼はただ燃えあがっていたようには見えない。絡み合う炎の蛇は各々鋭い咆哮を上げる。
それはただの半鐘を上げる咆哮ではなく、復讐に燃える咆哮のようにも思われた。