俺はポケットからある女に渡すはずだったブローチを取り出し、片手でそれをそっと、包み込んだ。
ああ、もう終わったんだ。これからは列車の時間はずらそう。もしあの電車でまた会ったら何を考えるか、分からない。
降りる駅が近くとも離れなければ、俺はどんな行動をするか分からないからだ。
もう……終わったんだ、俺。
俺はスーツの袖で目から滴るたったの一滴の涙をぬぐい、ふっと息を吐いた。
その時。
パァン。乾いた銃声。
俺の耳に届くのは混乱。心臓が、急に激しく動き出す。体中がざわざわと鳥肌が立って、視界が狭まったと錯覚する。
俺はついさっき閉めたドアを勢いよく、押し倒さんとばかりに開けた。
開けた瞬間、俺の鼻腔をつくのは立ち込める火薬のにおい、そして血の臭い。俺は思わず顔を歪めた。嫌悪と、悲しみの二つか、
俺はどちらか、この時に自分では判断できなかった。
ベッドの上には、自らの頭を血で塗らせ拳銃を握ったまま絶命する、エミリーがいた。彼女の顔からは
じょじょに生気が失せていき、血液はそれと相対的に濃度を濃くしていってベッドを真っ赤に装飾する。
それでも、彼女は美しい。
頭から血を流している以外は瞳を閉じ、口も閉じ、ほっそりとした手足も適度に形を造り、とても壮絶ながら美しい死だ。
だが、自ら、命を断つなんて、愚かなこと。不男は口をパクパクさせて俺の事とエミリーの事を交互に見る。
何がどうしていいか、分からないようだ。それはそうだろう。金を払って体を売りに来た女に突然、その男がやってきて、
ひと騒ぎして落ち着いたかと思うと、いきなりの拳銃自殺。普通、ありえない。
俺だってわからない、が、こうして冷静に見てられる自分が一番よく分からない。
何故、悲しめない。何故、冷静だ。仮にも内臓が絞め上がるほど愛していた女、なのに。
俺はいつからこう、なっていった。自分に哀しくなってくる。
俺は、エミリーの事を見つめる。彼女は何を思い、体を売り、何を思い、命をたった。
俺には何も分からないし、その手がかりは何も残されてはいない。
ただ、一つだけ言える事は、彼女はこの人生に嫌気が差した、という事だけだ。
俺は彼女が握っている拳銃を手に取る。触れたとき彼女の手はひどく冷たく、血のりがべったりだ。
拳銃は握っただけでも手のひらは真っ赤に染まる。この血は彼女の血、俺にはまだ流れてはおらず、この汚い
不男に流れている。俺は何とも思わないのか。
すると、突然、俺の横で不男が狂ったかのように叫びだし始めた。何を狂喜している。パニックなんて起こせるか。
「こ……こいつが……こいつがじ、自分でやったんだ……。
オレは……オレは悪くないぃっ。こいつが……狂ってたんだ……
ハ、ハハハ、ハハハハハ……」
その瞬間、俺の中で何かが吹っ切れた。そこから先は、覚えていない。
気が付いた時には、俺は血の海の中に立っていた。スーツはびっしりと血糊で汚れ、綺麗に整えた髪の毛は乱れ、
逆立ち、視界はぼやけている。ぼやける視界の中に映るのは血の海の中で胸の数発の銃創から血をドクドクと噴きあげて
いる、あの不男の醜く死んだ姿。
俺はなにをやってまったんだ……。いまさらする後悔。冷静にはなれない思考。
ガチャリ、俺は血の染み込んだフローリングの床に拳銃を落とした。血飛沫が跳ね、俺の顔にピチャリ、とかかる。
その瞬間、俺は改めて2つの死体を見た。
一人はオレが愛した女、もう一人が愛した女を犯した男。何故、俺は男を殺した。疑問を探究していく内に、俺の脳の中に
あの男の嫌な声と彼女の声が、反芻していた。
「ハ、ハハハ、ハハハハハ……」
「ごめんんさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
何故、あの男は笑った。何が面白い。何が、何で……。俺はこみ上げる感情と疑問の波にもまれていた。
心がかき乱される。俺は下唇を噛んで、スーツのすそを片手でグイッと引っ張る。
このままじゃ、このままじゃ……このままじゃ……。何かが俺の中で音を立てて崩壊していく。
それは理性 ? 、心 ? ……いや、どうでもいい、そんなもの。
俺は汚れていた。その手で人を自殺まで追いやってしまい、そして人を殺める。また、手のひらを見た。
この血糊には男と、エミリーという女の血が混ざっていた。何とも言えない、後悔とは違う、そう「憂い」だ。
全てにおいて俺はもう何も感じず、何もしたくはなく、ただ憂いだけが心を支配する。さっきとは大違いだ。
俺は居るだけで耐えられなくなり、この汚らしく埃まみれの灰色の家を飛び出した。
いつの間に外ではポツリポツリと小雨が降っている。空は月をも姿を見せず、俺を照らすものはない。
路地を歩く足取りはふらつき、何回も足元に散乱するゴミ箱に脚を取られた。だが、気にする事はなく、
俺は無心で歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
気が付くと、俺の脚はあるところに向かっていた。雨は本降りになり、スーツは乾くという行為を一切捨て、ただただ
いらない水分を延々と吸い続け、俺の体温を奪っていく。雨は俺から体温だけではなく、血の臭いを体から捨てさせ、
嫌な感情を追い出してくれた。
そして、俺の脚は立ち止まる。はた、と気が付いて前を見るとそこはエミリーという女の家の玄関だ。
俺は特に何も考えずにノブを回して、家に入る。鍵はかかっていなかったのだ。何故、俺は最初に来たんだっけ。
思い出せない。いや、思い出したくはない。では、何故俺は今家の中に入った ?
俺はまるで最初から分かっていたかのようにこぎれいな家をフラフラと夢遊病者の様に歩いて、すぐに彼女の
部屋と思われる所に入ってしまった。モダンなベッド、整理整頓されたウッドデスク、とてもこじんまりして
アイツらしい部屋だ。そんなところを、俺は赤く染まったスーツと靴であがって、まるで彼女の心を汚している
ようであった。……いや、そんな事は昔だった。もう、俺は何も考えたくはない。感情をすべて丸ごと捨てて投げてしまいたい。
俺は彼女と最初の出会いを思い出そうとする。だが、思い出せない。ただ、メトロの発射音だけが耳にむなしく残り、
そして思い出そうとするたびにベッドの上で裸で頭から血を流しながら絶命していた、彼女の映像が。
俺は思わず目を閉じ、耳を手でふさぎ、何も無いと分かっていながらも外部から物事を遮断した。
もう、ヤダ。もう、ヤダ。もう、ヤダ。もう、ヤダ。
だが、俺の願いはかなえられる事はなく感情はオレから出ていこうとしない。こんなに苦しいなら……いっそ……。
そう思いながら、俺は何気なくこの部屋の片隅に目をやる。全てを拒否していた目を何のために開けたかはわからない。
すると、床の上には一つの箱とメモ用紙、それと手紙が置いてあった。
俺は何かに引き寄せられるかのように、それらを手に取った。箱は一辺10cm程度の立方体でズッシリと、重みが
手のひらに来る。それを開封する事はなく、俺はまた床に置き、今度は手紙らしきものを手に取る。
まだ短い文面だけあり、封筒の中には入れられていない。
そこには、こう書かれていた。
”貴方へのプレゼントです。愛を込めて、エミリーより”
俺は次にその横に置いてあったメモ用紙を手に取る。メモ用紙には細かい文字がビッシリと書かれ、目を近づけ
なければ良くは見えなかったが、最初の一文だけは読み取れた。そして、俺はいまさら忘れた感情を呼び起こす事になる。
”M・ケンバー ノードウェイ33番街8-09 200 $ 34¢”
それは、体をうった相手の名前と、その受け取った金額。
悲しみに打ちひしがれた。忘れ去りたい感情が、また俺の中にため込まれていく。やめろ、止めてくれ。
俺の心の叫びは虚しく、心の中には悲しみが満たされていく。やがて、心の叫びは押し寄せる感情の波に口を開ける事すら
ままならないまま、溺れていった。止まらない、悲しみ、哀しみ、カナシミ。
俺は膝をがくりと付き、手に持っていた彼女の手紙をグシャリと手で握りクシャクシャにする。
彼女の”愛を込めて”が一体、どれだけ俺の事を想っていてくれていたのだろう。体を売ってまで、彼女は金をためていたのか。
それが、俺のため ? 俺は自分の手が、胸が、体が、ガタガタと震えているのが分かった。
しかし、その時気が付く、いくら、哀しみに感情がおぼれていても、俺は涙を流してはいなかった。
心は悲しんでいても、体は悲しんでいない。
「歪んでいる……君も、俺も……」
外では雨の音が鳴り続く。
止まぬしんしんとした音に、機械的なサイレンがまぎれていた。
ああ、もう終わったんだ。これからは列車の時間はずらそう。もしあの電車でまた会ったら何を考えるか、分からない。
降りる駅が近くとも離れなければ、俺はどんな行動をするか分からないからだ。
もう……終わったんだ、俺。
俺はスーツの袖で目から滴るたったの一滴の涙をぬぐい、ふっと息を吐いた。
その時。
パァン。乾いた銃声。
俺の耳に届くのは混乱。心臓が、急に激しく動き出す。体中がざわざわと鳥肌が立って、視界が狭まったと錯覚する。
俺はついさっき閉めたドアを勢いよく、押し倒さんとばかりに開けた。
開けた瞬間、俺の鼻腔をつくのは立ち込める火薬のにおい、そして血の臭い。俺は思わず顔を歪めた。嫌悪と、悲しみの二つか、
俺はどちらか、この時に自分では判断できなかった。
ベッドの上には、自らの頭を血で塗らせ拳銃を握ったまま絶命する、エミリーがいた。彼女の顔からは
じょじょに生気が失せていき、血液はそれと相対的に濃度を濃くしていってベッドを真っ赤に装飾する。
それでも、彼女は美しい。
頭から血を流している以外は瞳を閉じ、口も閉じ、ほっそりとした手足も適度に形を造り、とても壮絶ながら美しい死だ。
だが、自ら、命を断つなんて、愚かなこと。不男は口をパクパクさせて俺の事とエミリーの事を交互に見る。
何がどうしていいか、分からないようだ。それはそうだろう。金を払って体を売りに来た女に突然、その男がやってきて、
ひと騒ぎして落ち着いたかと思うと、いきなりの拳銃自殺。普通、ありえない。
俺だってわからない、が、こうして冷静に見てられる自分が一番よく分からない。
何故、悲しめない。何故、冷静だ。仮にも内臓が絞め上がるほど愛していた女、なのに。
俺はいつからこう、なっていった。自分に哀しくなってくる。
俺は、エミリーの事を見つめる。彼女は何を思い、体を売り、何を思い、命をたった。
俺には何も分からないし、その手がかりは何も残されてはいない。
ただ、一つだけ言える事は、彼女はこの人生に嫌気が差した、という事だけだ。
俺は彼女が握っている拳銃を手に取る。触れたとき彼女の手はひどく冷たく、血のりがべったりだ。
拳銃は握っただけでも手のひらは真っ赤に染まる。この血は彼女の血、俺にはまだ流れてはおらず、この汚い
不男に流れている。俺は何とも思わないのか。
すると、突然、俺の横で不男が狂ったかのように叫びだし始めた。何を狂喜している。パニックなんて起こせるか。
「こ……こいつが……こいつがじ、自分でやったんだ……。
オレは……オレは悪くないぃっ。こいつが……狂ってたんだ……
ハ、ハハハ、ハハハハハ……」
その瞬間、俺の中で何かが吹っ切れた。そこから先は、覚えていない。
気が付いた時には、俺は血の海の中に立っていた。スーツはびっしりと血糊で汚れ、綺麗に整えた髪の毛は乱れ、
逆立ち、視界はぼやけている。ぼやける視界の中に映るのは血の海の中で胸の数発の銃創から血をドクドクと噴きあげて
いる、あの不男の醜く死んだ姿。
俺はなにをやってまったんだ……。いまさらする後悔。冷静にはなれない思考。
ガチャリ、俺は血の染み込んだフローリングの床に拳銃を落とした。血飛沫が跳ね、俺の顔にピチャリ、とかかる。
その瞬間、俺は改めて2つの死体を見た。
一人はオレが愛した女、もう一人が愛した女を犯した男。何故、俺は男を殺した。疑問を探究していく内に、俺の脳の中に
あの男の嫌な声と彼女の声が、反芻していた。
「ハ、ハハハ、ハハハハハ……」
「ごめんんさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
何故、あの男は笑った。何が面白い。何が、何で……。俺はこみ上げる感情と疑問の波にもまれていた。
心がかき乱される。俺は下唇を噛んで、スーツのすそを片手でグイッと引っ張る。
このままじゃ、このままじゃ……このままじゃ……。何かが俺の中で音を立てて崩壊していく。
それは理性 ? 、心 ? ……いや、どうでもいい、そんなもの。
俺は汚れていた。その手で人を自殺まで追いやってしまい、そして人を殺める。また、手のひらを見た。
この血糊には男と、エミリーという女の血が混ざっていた。何とも言えない、後悔とは違う、そう「憂い」だ。
全てにおいて俺はもう何も感じず、何もしたくはなく、ただ憂いだけが心を支配する。さっきとは大違いだ。
俺は居るだけで耐えられなくなり、この汚らしく埃まみれの灰色の家を飛び出した。
いつの間に外ではポツリポツリと小雨が降っている。空は月をも姿を見せず、俺を照らすものはない。
路地を歩く足取りはふらつき、何回も足元に散乱するゴミ箱に脚を取られた。だが、気にする事はなく、
俺は無心で歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
気が付くと、俺の脚はあるところに向かっていた。雨は本降りになり、スーツは乾くという行為を一切捨て、ただただ
いらない水分を延々と吸い続け、俺の体温を奪っていく。雨は俺から体温だけではなく、血の臭いを体から捨てさせ、
嫌な感情を追い出してくれた。
そして、俺の脚は立ち止まる。はた、と気が付いて前を見るとそこはエミリーという女の家の玄関だ。
俺は特に何も考えずにノブを回して、家に入る。鍵はかかっていなかったのだ。何故、俺は最初に来たんだっけ。
思い出せない。いや、思い出したくはない。では、何故俺は今家の中に入った ?
俺はまるで最初から分かっていたかのようにこぎれいな家をフラフラと夢遊病者の様に歩いて、すぐに彼女の
部屋と思われる所に入ってしまった。モダンなベッド、整理整頓されたウッドデスク、とてもこじんまりして
アイツらしい部屋だ。そんなところを、俺は赤く染まったスーツと靴であがって、まるで彼女の心を汚している
ようであった。……いや、そんな事は昔だった。もう、俺は何も考えたくはない。感情をすべて丸ごと捨てて投げてしまいたい。
俺は彼女と最初の出会いを思い出そうとする。だが、思い出せない。ただ、メトロの発射音だけが耳にむなしく残り、
そして思い出そうとするたびにベッドの上で裸で頭から血を流しながら絶命していた、彼女の映像が。
俺は思わず目を閉じ、耳を手でふさぎ、何も無いと分かっていながらも外部から物事を遮断した。
もう、ヤダ。もう、ヤダ。もう、ヤダ。もう、ヤダ。
だが、俺の願いはかなえられる事はなく感情はオレから出ていこうとしない。こんなに苦しいなら……いっそ……。
そう思いながら、俺は何気なくこの部屋の片隅に目をやる。全てを拒否していた目を何のために開けたかはわからない。
すると、床の上には一つの箱とメモ用紙、それと手紙が置いてあった。
俺は何かに引き寄せられるかのように、それらを手に取った。箱は一辺10cm程度の立方体でズッシリと、重みが
手のひらに来る。それを開封する事はなく、俺はまた床に置き、今度は手紙らしきものを手に取る。
まだ短い文面だけあり、封筒の中には入れられていない。
そこには、こう書かれていた。
”貴方へのプレゼントです。愛を込めて、エミリーより”
俺は次にその横に置いてあったメモ用紙を手に取る。メモ用紙には細かい文字がビッシリと書かれ、目を近づけ
なければ良くは見えなかったが、最初の一文だけは読み取れた。そして、俺はいまさら忘れた感情を呼び起こす事になる。
”M・ケンバー ノードウェイ33番街8-09 200 $ 34¢”
それは、体をうった相手の名前と、その受け取った金額。
悲しみに打ちひしがれた。忘れ去りたい感情が、また俺の中にため込まれていく。やめろ、止めてくれ。
俺の心の叫びは虚しく、心の中には悲しみが満たされていく。やがて、心の叫びは押し寄せる感情の波に口を開ける事すら
ままならないまま、溺れていった。止まらない、悲しみ、哀しみ、カナシミ。
俺は膝をがくりと付き、手に持っていた彼女の手紙をグシャリと手で握りクシャクシャにする。
彼女の”愛を込めて”が一体、どれだけ俺の事を想っていてくれていたのだろう。体を売ってまで、彼女は金をためていたのか。
それが、俺のため ? 俺は自分の手が、胸が、体が、ガタガタと震えているのが分かった。
しかし、その時気が付く、いくら、哀しみに感情がおぼれていても、俺は涙を流してはいなかった。
心は悲しんでいても、体は悲しんでいない。
「歪んでいる……君も、俺も……」
外では雨の音が鳴り続く。
止まぬしんしんとした音に、機械的なサイレンがまぎれていた。