60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

一人暮らし

2010年04月30日 | 日記
日曜日、天気がよかったので久しぶりに地元を散歩することにした。家を出て多摩湖に向かい、
西武園遊園地のそばを通り競輪場の前を通り、八国山緑地から東村山へ抜けるコースを歩く。
東村山に入り、駅へ向かう大通りを脇に入った当たりが、始めて一人暮らした野口町である。
懐かしさを覚え立ち寄ってみることにした。そこに40年前に住んでいたアパートがまだ残っている。
下2軒上2軒のアパート、下の階の左側が私が住んでいた部屋である。入口のドアは別な板が
打ちつけられて入れないようにしてあった。残り3軒も人の住んでいる気配はない。鉄骨は錆び、
年月の経過を感じさせる。外見は40年前当時のままであるが、すでに廃墟なのであろう。

学校を卒業し東京で勤めた当初は会社の男子寮に入った。1年2年と経つうちに同期入社の
仲間も次々に寮を出てアパートを借りる。さすがに3年になると知った顔がほとんどいなくなった。
仕方なくアパートを捜し、寮を出て行くことにする。そして最初に入居したのがこのアパートである。
6畳に3畳程度の板の間のキッチン、風呂トイレ付きである。家賃はたぶん1万2000円程度
ではなかったかと思う。引っ越し荷物は布団と洋服と肌着とテレビ一台で他にはほとんど何もなく、
乗用車で積みきれる程度であったように思う。友人から要らなくなった小型冷蔵庫とベットを貰い、
炊飯器と鍋、食器や多少の調味料など生活用品を買い揃えて一人暮らしはスタートした。

一人暮らしを始めた当初はご飯を炊き、焼き魚やインスタントのハンバーグなどで自炊していた。
しかし自分で作り一人で食べるわびしさからなのか、あるいは料理に興味が持てなかったのか、
次第に回数は減り、1ケ月もすると完全に外食生活になってしまった。朝は喫茶店のモーニング、
昼は会社の食堂、夜は勤め先近くの食堂や東村山周辺の店を順番に回って食べ歩いていた。
味噌ラーメンンと餃子、皿うどん、定食屋の定食、中華料理店の定食、あまり偏りのないように、
同一店週1回を原則にしていたように思う。休みの日は気分を変えるため近所の銭湯に行き、
帰りに寿司屋に入って、ビンビール1本とアジのたたきを食べる。そしてビールを飲み終わってから、
にぎり(並)を頼む、これでちょうど1000円。これが当時唯一の贅沢であった。

アパートの前で板で打ち付けられたドアを眺めていると、当時の部屋の間取りがよみがえってくる。
ドアの内は靴を3足も置けば一杯になるような小さな土間があり、右に備え付けの下駄箱がある。
家に上がると右側が風呂場で、その隣がトイレ、窓側にキッチンがあり、流しが左、ガスコンロの
置き場が右にある。板張りの3畳程度の広さのキッチンと隣の6畳間とは襖で仕切られていた。
6畳間の正面はガラス戸で外は3メートルに満たない空き地があり、1本の椿の木が植えてある。
その先は高いコンクリートの塀になっていて、塀の向こうは建築業を営む大家の大きな家があった。
私は6畳間の押し入れと反対側に簡易ベットを置いていた。ベットの足元に多段の本棚を置き、
ベットと反対側にテレビを置いた。何時もテレビを見るときはベットに寄りかかるようにして見ていた。
部屋の真中にデコラ張りのちゃぶ台を置き、ここで食事をし、書類を書き、小物の置き場にした。

元来のずぼらな性格からか、部屋は散らかし放題でまったく片付かない。友人が訪ねて来ても、
訪問者自らが、物をかき分け自分の座るスペースを作くる必要があった。洗濯物は溜めに溜め
着るものがなくなってから、風呂おけに洗剤と洗濯物を入れ、足で踏みつけて洗濯をしていた。
ある時母が遊びに来て、見るに見かねたのか、洗濯機を買ってくれ、備え付けて帰って行った。
靴下30足、肌着各20枚程度と豊富に持っていたため、洗濯機があってもやはり月1回の
ペース、靴下だけで洗濯機がいっぱいになり、洗濯日は一大決心をしてやっていたように思う。

会社の帰りは外食してからアパートに帰る。暗くなった部屋の電気を付ける。風呂に水を出し、
着替えてテレビをつけ一服する。風呂の水が溜まると火を点け、それから本を読んだり、テレビを
見たり、ぼんやりとした思考にふけったり、お茶や時にインスタント珈琲を入れて飲むこともあった。
大勢の人がいる喧騒の職場で1日を過ごし、フル回転して舞い上がった自分の思考や感情を
鎮静化させ、平常心を維持していくためには自分の中で必要な時間だったのかもしれない。
11時になれば風呂に入り、上れば直ぐに布団に入って、目覚ましをかけテレビを見ながら寝る。
翌朝大音響の目覚ましが鳴り、あわただしく支度をしてアパートをでる。出勤の途中で喫茶店に
入りモーニングを食べることもあれば、朝食抜きの時もある。前日会社を出て翌日出勤するまで
誰と話すわけでもない。そして休日も一人で過ごすことが多く、当時買った中古の車を運転して、
訳もなく走らせていたように思う。

当時はよく扁桃腺を腫らし、高熱を出して会社を休んでいた。休むと大体3~4日程度は休む。
高熱で悪寒がひどく布団の中から出るわけにもいかない。腹が減った時だけ、布団から這い出し
備蓄のインスタントラーメンを作って食べていた。後はただ寝ているだけ、2日も3日も寝ていると
自分が何十時間と一言の声も発していないのに気づき、「あ~、あ~っ」と自分が声が出せるかの
確認のために、発声練習をしていたこともある。
ある時は空き巣に入られたこともある。会社から帰ってみるとドアのカギがかかっていない。部屋に
入るとベットのクッションははがされ、引き出しという引き出しは全て開けられ、中の物は部屋中に
散乱していた。貯金通帳を探したが、それは印鑑と一緒に無事であった。大きな花瓶に溜めて
いた5円10円などの小銭(多分1万円はあった)も無事であったが、空き巣の苛立ちを示すように
中身のお金は部屋中にばらまかれていた。結局何も盗られなかったと言うか、なにも盗るものが
なかったようである。被害がなければ警察に届け出るのも面倒でそのままにしてしまった。

思い出そうとすれば、当時のことは芋蔓式に出てくるのかもしれない。今黄色の板が打ち付けて
あるドアを無理やりこじ開けて中に入れば、タイムスリップして40年前当時の自分に戻れるかも
しれないという気になる。20代の自分があのドアの向うで暮らしているような錯覚を感じてしまう。
当時の私は多くのことに戸惑い、おびえ、警戒し、自分の殻に閉じこもろうとしていたように思う。
彼女もなく結婚の当てもなく、同期の連中に後れをとり、将来に対して何の確信も持てなかった。
しかし、それでも未来に向かっての可能性や希望は開かれているように感じていたように思う。
今、ドアの外にいる40年後の私、若い時のような不安は消え、ただ淡々として心穏やかである。
しかし、未来に対しての可能性も希望も閉じられてきたように思ってしまう。
目の前にあるこの朽ちようとするアパート、私にとっては懐かしさと言うより、時間の経過をまざまざと
突きつけてくれる有形の遺産なのかもしれない。