60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

さくら

2010年04月09日 | 日記
4月4日(日曜日)朝、娘が乗っていた自転車がパンクしたまま放り出してあるのを見るに見かね、
自転車店に持って行きパンクとブレーキを修理してもらった。乗れるようになった自転車に乗って、
「そうだ、今日は久々にサイクリングで地元のさくらを回ってみよう」と思いついた。
3月22日に東京のさくらの開花宣言、平年より6日早く昨年より1日遅いということである。しかし
その後は寒い日が続き、満開になったのは4月に入ってから、今日も朝から薄曇りでさえない天気、
今年のさくらは天候に恵まれず、あまりすっきりしない花見になっているようである。
所沢で一番の桜は東川沿いの桜であろう。東川の川沿いに4kmにわたって700本の桜が咲く。
ここは駅からも遠く、駐車場が無いため人出はそれほど多くない。自転車でゆっくり桜並木を走る。
川の左右からさくらが折り重なったり、川の片側がピンクの壁で高く迫っていたりと、見ごたえがある。
これで天気が好く、輝くさくらを見ることができれば、気持ち良いだろうと思うと、少し残念である。

まだ川沿いの桜は続くようだが途中で折り返して、市内の桜を思いつくまま回ってみることにする。
公園の桜、団地の桜、神社やお寺の桜、池の周りの桜、道路の両側の桜、あそこにもここにもと
街中に点在する桜の何と多いことかとかと改めて思う。やはり日本人は桜が大好きなのであろう。
所沢の街は昭和30年代に開発が進んだ新興住宅地、そのためか、桜も比較的若い樹が多い。
しかし、昔からある農道や街道沿いに植えられた桜は、すでに老木で樹の勢いが無くなっている。
枝はあちこちらで切られ、枝の張りは無く、幹はごつごつとコブで盛り上がり、醜態をさらしている。
それでも精一杯咲いているのを見ると、ソメイヨシノの寿命60年説というのを思いだしてしまう。

ソメイヨシノはエドヒガンザクラ系品種(母種)とオオシマザクラ(父種)の交配によって生まれたもの
であるという。栽培の歴史は新しく、江戸の染井村(東京都豊島区駒込)の植木職人達によって
育成され売り出したものとされている。ソメイヨシノという栽培品種は、自然に増えることができない。
種子で増やすと親の形質を必ずしも伝わることがないため、挿し木などの方法をとらざるをえず、
結果的に1本の樹からクローンとなって、今のように日本全国に広がって行ったことになるのである。
そんな遺伝子操作が影響したのか、他の桜と違って60、70年で寿命を迎えるようである。
人に作られ、人により全国に広がっり、しかも人と同じ程度の寿命の木。過疎地など、人がいなく
なれば当然ソメイヨシノという桜もその地から消えるのだろう。そう考えてみれば不思議な木である。

10年前の4月、大腸がんで入院していた母を一旦自宅に戻す時、私の車に乗せて連れ戻った。
帰る途中で三菱瓦斯の工場の敷地の中に車を入れ、満開のボタンザクラの下に車を止めて休んだ。
その時、「来年の桜を見ることができるだろうかね?」と母がつぶやいたのを思い出す。人にとっての
感覚的な1年というサイクルの起点は桜の花ではないだろうか、冬の寒さが過ぎてパッと明るく桜が
咲き乱れる。「ああ、春が来た」、目にも肌にも、それを実感することができるのが桜の花なのだろう。
多分、母は桜を見て、自分の寿命がもう1年、来年の桜まで持たないだろうと悟ったのかもしれない。
車の窓から見上げるやつれきった母の横顔、そのさびしげな眼差しを今も忘れることはできない。

母と桜でもうひとつ思い出すシーンがある。下関の日和山は桜の名所、満開の時は山がピンクに
染まるほどである。多分小学の低学年だったろう、なぜだか母と二人で日和山に遊びに行った。
その日は平日だったのか周りには誰もいない。風に乗った桜の花びらが雪のように舞い散っていた。
その中を母と手を繋いで歩いている。穏やかで晴れやかで、浮き浮きしていた記憶が残っている。
あれから60年、当時の桜の樹の寿命はとっくに過ぎている。今はどんなふうになっているのだろう?
老木で無残に朽ち果てているのだろうか?それとも世代交代で、若い桜が咲いているのだろうか?
機会があれば、死ぬまでにもう一度下関の日和山の桜を見てみたいものである。
毎年春になると「あと何回桜を見ることができるのだろう?」と思ってしまう。そう思うと桜の花が愛お
しくなってくるのか、その春の桜を沢山たくさん見ておこうと思うようである