いろどりひかる☆☆

ブログ版、日時計日記。
過去記事を少し整理しました。

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2015-09-11 | 日々あれこれ
ohayougozaimasu

引っ越しました。

2015-05-19 | 日々あれこれ
みなさん、ありがとうございます。

諸事情により、このgooブログで更新できなくなりましたので、新しいブログに引っ越しました。
タイトルはそのまま「いろどりひかる☆」です。

こちらです。



日々の暮らしを淡々とつづっていけたらいいなぁ~と思っています。
このブログは過去記事の倉庫にします~。
どうぞよろしくお願いいたします。







吉野弘さんの「祝婚歌」

2015-02-12 | 日々あれこれ
2月11日


みなさん、こんばんわ♪

今夜、スカイプ輪読会で詩人の吉野 弘さんの話題が出まして~吉野さんの「祝婚歌」を思い出しました。



私の結婚式の時に友人が読んでくれて、心から感動したんだっけ~懐かしいなぁ。

ご存じの方も多いと思いますが~ご紹介しますね。



「祝婚歌」      吉野 弘



二人が睦まじくいるためには

   愚かであるほうがいい

   立派すぎないほうがいい

 立派すぎることは

   長持ちしないことだと

   気づいているほうがいい

 完璧を目指さない方がいい

 完璧なんて不自然なことだと

   うそぶいているほうがいい



 二人のうちどちらかが

   ふざけているほうがいい

   ずっこけているほうがいい

 互いに非難することがあっても

   非難できる資格が自分にあったか

   後で疑わしくなるほうがいい



 正しいことを言うときは

   少し控えめにするほうがいい

 正しいことを言うときは

   人を傷つけやすいものだと

   気付いているほうがいい



 立派でありたいとか

 正しくありたいとかいう

   無理な緊張には色目をつかわず

   ゆっくりゆたかに光を浴びているほうがいい

 健康で風に吹かれながら

   生きていることのなつかしさに

   ふと胸が熱くなる

   そんな日があってもいい

 そしてなぜ 胸が熱くなるのか

   黙っていてもふたりには

   わかるのであってほしい



以上です。

「正しいことを言うときは~」。。。。胸に刺さりますね(笑)

二人のうち片方がふざけているほうがいい。。。これは自信あります!


皆さんに贈ります。



では、明日もよい日をね\(^o^)/

この世のものは私のもの(笑)

2015-02-12 | 日々あれこれ
みなさん、おはようございます~♪

東京は今年一番の寒さとか。

九州に居て「さむいさむい」というのを控えようと思いつつ、やっぱり「寒か~!」と言ってしまうシコクです。



さて。

昨夜はご飯とみそ汁の夕飯、写真、取り忘れました(^^ゞ

そして冷蔵庫がからっぽになりました。

乾物の棚も残すところ、ワカメと干し椎茸、カツオ節だけかな。



清々しい!

持たないこと、これが楽しや。



ウチの前講師会長が仰ってたんですが。

「この世のものは神様のもの。

私は神の子。

だから、この世のものは私のものでもあるとよ。

店に食べるものがたくさんあるでしょ、あれも実は私のもの。預かってもらってるだけなんよ~私、忙しかでしょ?自分じゃ管理しきらんけんね。

ビールは(お好きなんです^^)先の酒屋で冷やしてもらってるけん、いつも冷たかとが飲めるでしょ?

引き取りに行く時に、預かり代として代金を支払うだけ。

あれこれ買い込まんちゃ良かとよ。楽よね~有り難かねぇ。」



この柔軟さ、おおらかさ、ステキですよね。

買い物する時に、いつも思い出します^^



今日は教化部で会議です。

あ、もう出かけなくちゃ!行ってきます~。

みなさん、今日もよい日をね!

神様との約束

2014-07-06 | 神様との約束
夫が40才の若さで、くも膜下出血に倒れたのは平成14年の秋でした。

その日、夫は仕事を早く仕上げてパチンコに行くつもりでした。
彼の釣りとパチンコ好きに辟易していた私は、仕事場からの「早く手伝え」という彼の声にうんざりしながら「せからしか!(うるさい)」と答えていました。

その後、仕事場が急に静かになり、不振に思って覗いてみると、染物の染料を落とす大きな水槽に、うつ伏せに腰まで水に浸かっている夫を見つけました。
慌てて水から引き上げ、救急車を呼び、緊急治療の病院へ。そこでくも膜下出血と診断されました。

すでに全く意識がなく「今夜が峠」と医師から言われ、私は目の前が真っ暗になり、足元がグラグラ揺れました。

あの時の空虚感…体の半分をもぎ取られるというのは、こういう感覚なんだ…と思いました。

「私は彼の前で、最後にどんな顔をしていただろう・・・笑ってたかな?・・・違う、うんざりして不機嫌だった。」


そう気付くと猛烈な後悔に襲われました。


「神様、どうか彼を助けてください。もう決して不機嫌な顔を見せたりしません。
もう一度、彼と話をさせてください。もう一度、一緒に笑いあえる人生をください。」

祈りました、ただ祈りました。

夫はその後、5回の手術を繰り返し、半年後に意識を取り戻しました。
医師が驚くほどの回復を遂げ、今は自宅で元気に暮らしています。


車椅子は必要ですがリハビリを続けながら、染物屋の仕事も少しずつ始めました。


私はあの時「彼の前ではいつも笑います」と神様と約束しました。

だから今日も笑っています。
家族が皆、健康で笑いながら過ごせる日々を有り難く愛おしく感じます。
神様からいただいた今日この一日を大切にしていきたいと実感しています。

何なっと役に立たんば

2014-05-26 | 生長の家 白鳩会
みなさ~ん、ありがとうございます♪

先日、生長の家の長崎総本山での団体参拝練成会で新生し、先週は3つの誌友会(☆小さな集い)に講師としてお話に行きました~ますますピカピカのシコクでございます^^どうも。


昨日は生長の家の天草道場の道場の大掃除でした。
日曜日なので、リハビリがお休みのしこべ~さんも参加。
彼の役割は「ありがとうございま~す」「ありがとうございま~す」と声を上げることでした。。
会員の有志の方々と約2時間、汗を流して道場は綺麗になりました。


先日の団参の献労(奉仕作業)でも、しこべ~さんは「ありがとうございま~す」と言い続ける「感謝誦行」をしました。
現象から見ると、車椅子の彼に出来ることは、ごく僅かです。
「参加する?」と尋ねると「行こう。なんなっと(何なりと)ためになるどもんえ(役に立つだろう)」と明るく答えるしこべ~さん。

そんな彼を私は心から尊敬します。

車椅子に座った状態で、引ける草はわずかに数本。
そこから彼はずっと「ありがとうございま~す、ありがとうございま~す」と声を出し続けました。

献労後、熊本のみなさまが「素晴らしい『ありがとう』をありがとう」と次々に讃えてくださいまして、彼は「超」のつく人気者でした。


今回、団参に一緒に行ったAさんは脳卒中の後遺症で左半身に麻痺が残り、杖をついて歩いています。
が、1人でトイレにも行けるし、自分でお風呂にも入れる。だから男性のお部屋で寝泊まりが出来る。
その方、作業の時にはお部屋で休んでおられました~彼には彼なりの思いがあったのでしょうね。

けれど、その後、食堂で皆に讃えられるしこべ~さんに「アンタ、作業に行ったと?」と驚いて尋ねられ、
「はい、私もなんなっと役に立たんば!」と答えるしこべ~さんに
「偉かなぁ」と感心しておられました。

Aさん、来年も一緒に参りましょう。
そして、しこべ~さんと一緒に献労に参加しましょうね!
出来る出来る。出来ることはたくさん、あるはず!

今日も素晴らしい日の始まりです。
みなさんもよき日をね!
きっと、いいこと、たくさんありますよ~!

赤い鳥居の記憶~旧館より

2013-06-18 | 赤い鳥居の記憶
みなさ~ん、ありがとうございます♪


今日は旧ブログより懐かしい記事を。
少し加筆訂正してあります。これは確か白鳩の介護日記にも載せてもらったので、覚えている方もおられるかも。いいお話ですので(笑)どうぞ。


私の愛する夫はくも膜下出血の後遺症で『記憶障害』と言われています。
発症前の事は、ほぼ完璧に憶えているけれど、倒れてからの記憶が難しいようです。
が、全日本の女子バレーやAKBのメンバーは覚えているというのは、どういうことだ?(笑)

夫が長崎にある生長の家総本山での団体参拝練成会に初めて参加したのは退院から1年後、今から11年前でした。
周りからは「長旅や泊まりは無理ばい」と言われるような状態でしたが「真理は毛穴からも入る」と聞き、夫にも総本山の清らかで優しい空気に触れてほしいと切に感じ、当時、中学生だった長男に助っ人を頼み、3人で参加しました。
当時はつかまり立ちもできなかったので教区のバスに乗ることはできず、介護用の自家用車で出掛けました。

魂の故郷である総本山の入口には大きな大きな赤い鳥居があります。
そこをくぐる時に信徒は皆、大きな声で「谷口雅春先生~!ただいま帰ってまいりました~!」と叫びます。
私も自家用車で走り抜けながら、夫に「ここは故郷ばい!」と説明し、「ただいま帰ってまいりました~」と叫びました。

夫はといえば…何処へ行くのか分からずに連れてこられ(説明はするんですが、すぐに忘れちゃうんです)、着いてからもそこが何処なのか分っていませんでした。
顕斎殿に上がることができず、練成道場のモニターで受講し(注;今は道も整備され、顕斎殿にエレベーターが付いて車イスでも上がれます)ボンヤリと車椅子に座っていただけの2泊3日でした。

が、夫と一緒に参加できたことが嬉しく、また参加者の皆さんから沢山の祝福や讚嘆をいただいて、私は本当に幸せな気持ちで帰宅しました。



それから半年後(七ヶ月後?)のことです。団参時よりも随分と元気になった夫と一緒に熊本県教化部に行きました。
教化部の敷地には龍宮住吉宮の分社があり、赤い鳥居も設置されています。
そこでお参りをしようとした時に、夫がいきなり「ただいま」と言いました。



…びっくりしました。
「何?何て言ったと?」と尋ねると
「赤い鳥居やもね。『帰ってきました~ただいま~』って言うとだろ?」と答えました。

…鳥肌が立ちました。
…彼と総本山の赤い鳥居をくぐったのは半年以上も前でした。
あの時、私は確かに「帰ってきました~ただいま~」と言いました。
しかし、その後は全く、鳥居の話はしていませんでした。

今、食べたご飯のことを忘れるのに、さっき会った人を思い出せないのに。

半年も前の赤い鳥居は覚えていた。
必要なこと、神さまのことは、ちゃんと彼の魂に届いているんだ。


…嬉しくて涙が出ました。
夫は必ずよくなっていく。
この生長の家の教えとともに生きていこう…そう決意しました。
その日、教化部を出る時も、彼はまた龍宮住吉分社に自分から「いってきます」とご挨拶しておりました。


今、不十分に見える人も、みんな神の子なのですね。

すぐ変わらなくても、もう神さまの救いは始まっています。
しこべ~さんなんて半年後に驚かせてくれましたからねぇ~(笑)

神の世界の真善美だけを観て、それを現象世界に表現していきましょう。
善を思えば善が現れるから、善いことを思い、善い顔をして、善いことを言ってまいりましょうね~。


…ん?じゃあ、しこべ~さんにとってAKBメンバーは必要なことなのか?(←ここは笑うところです)


今日も素晴らしい日でした。
明日もきっといいこと、ありますよ♪

母へ「深くふかく愛すべし」~旧館より

2013-06-10 | 家族のこと
みなさ~ん、ありがとうございます。



実毋が隣に引っ越して来て、もうすぐ8年になります。

私の両親は私が高校生の時に離婚しています。
二人きりの姉弟だったのですが、弟は13年前に亡くなり、母ひとり子ひとりとなりました。


私の実家は愛媛県で、弟の七回忌を機に、弟のお骨を奥さんと子どもたちの住む栃木県のお墓に移しました。
すると愛媛の実母がホッとしたのか、がっくり体力が落ちてしまいました。


彼女の子どもは私だけになりましたので~
「もう愛媛を引き払って、天草に永住すれば?一緒には住めんでも、近くにアパートを借りてあげるよ」と言うと、母は大変、喜びました。
「ええ(良い)部屋を探しとくけんね」(母と話す時はエヒメ弁・笑)と言ってはいましたが~時間が無くて探せずにおりました。
朝夕に「良い部屋をいただきました。ありがとうございます。」と祈っておりましたら~我が家の隣のハイツの2階の方が引越して行かれました。
そこは実母が「ここが空いたらええのにねぇ」と言ってた部屋でした。


私は天草が大好きで、ホントに来て良かったなぁと思っています。
ただひとつ、実母に寂しい思いをさせてしまったことだけが気がかりでした。
「母を天草に呼びたい」と言うと主人も義父も「あんたは(当時は老人ホームに居た)ばあちゃんの世話をよくしてくれたもんなぁ~天草に呼んで親孝行してやると良か」とあたたかく迎え入れてくれました。 ありがたいなぁ。



母は弟が亡くなってから、アルコール依存症でした。キッチンドリンカーのはしりです、
私は帰省するたびに台所に母のお酒を捨てていました。
そんな母でしたが~隣に越してきてから、確実に酒量が減りました。
遠くに居た時は電話に出ないと「どうしているのかしら」「まさか、ひとりで倒れたりしてないかしら」と心配していたのですが~今は~朝、ひょいと隣を覗くと、台所で朝食の用意をしている母の影が見え、ホッとしています。
    


先日、拝読したばかりの谷口雅春大聖師の「をんな生ける意義あり」に


「心憂へれば酒をたしなむ
 心淋しければ異性をなつかしむ
 心焦慮し不安なれば煙草を好む
 心を転ぜんとして転ずることを得ず
 何ものかの感覚的刺激をもとめて人生の憂鬱をまぎらはさうとする男子あり
 汝の良人、酒をたしなみ、女とたわむれ
 煙草を好むならば、良人を咎めることなく愛すべし
 汝の良人は愛の飢えているなり
 深くふかく愛すべし
 愛きはまれば良人の生活かはるなり」


....という御文章がありました。しこべ~さんも12年前に倒れるまでは、ホントによく飲んでおりました。
週に5日、出掛ければ必ず午前さまで、お給料の殆どを飲んでおりました…今なら、私が飲ませていたのだと分かるんですが~その時は分かりませんでした。
今は、まったくお酒も煙草も欲しがりません。愛がきわまったのかしらね(笑)


今までに何度も母の飲みかけていた酒を捨て、何度も酒が原因で言い争いになりました。
本人も分かっていて止められなかったようです。


私自身はまったくの下戸でアルコールを受け付けません。
御相談申し上げた母親教室で講師が「嫌えば嫌うほど、追ってきますよ。アナタの課題なのだから。赦しなさい。愛しなさい。愛と感謝にしか解決の道はありません。」とご指導くださったのが、今、実感として伝わってきます。


母さん、淋しいんだね。哀しいんだね。
飲んでもいいよ。酔ってもいいよ。
身体を壊さないように、気を付けて飲むんだよ。
夕方に楽しんで晩酌している母を咎めることなく、大聖師の御文章の「良人」を今は「母」に置き換えて~
「深くふかく愛すべし」と祈る毎日です。」



以上です。
読んでくださってありがとうございました。
明日もよき日を~きっと、いい事ありますよ♪

彼は健康である

2012-02-18 | 祈りの言葉
神の子のみなさま~ありがとうございます♪



自分や夫、家族が救われるための生長の家でしたが、今では全てが調って、人の為に祈ることが多くなりました。
お子さんの反抗、病気治癒、経済の繁栄。
朝夕に祈っています。

先日、「新版 希望を叶える365章」の素晴らしい御文章を拝読いたしましたので、みなさまにもお福分けしますね。



P318 「自分の心の眼を癒す」
 病気の消滅は実在についての真理をその人が如何に把握したかの程度に従って遅速があるのである。思念者が如何に「彼」(患者)を完全であると見得た程度に従って。癒えたり癒えなかったりするのである。真実を言うならば、施念によって病者を癒すのは。彼を癒すのではなく、彼を見る自分の心の眼を癒すのである。
そう云う場合には、「彼は健康である。彼は健康である。彼を健康でないと見る私の心の迷いを癒したまえ。」と祈るべきである。そして徹底的に「神はすべてである。神は善であり、完全であり、調和であるから病気のような、悪、不完全。不調和なるものは存在しないのである」と云う言葉を心の中に繰返し繰返し念じて、完全に施念者の心の中から、「彼の病気の存在」を否定し去るがよいのである。(谷口雅春著「生活応用 健全の真理」参照)



私はこの御文章で、目からうろこがばりばりと落ちました。一体、何枚、落ちたのかしら(笑)
つい、眼に見えるものにとらわれて「病気が消えますように」「治りますように」と祈ってしまいがちですが、神様の創られた世界には「病気は無い」ことに再度、気づかせていただきました。


「彼は健康である。彼は健康である。彼を健康でないと見る私の心の迷いを癒したまえ。」
ありがとうございます。

日々読誦三十章経~二十九日の経言

2011-11-29 | 祈りの言葉
神の子のみなさま~~~ありがとうございます^^

おはようございます。
いい朝ですね^^ワタクシ、今週は天草道場の早朝行事の先導であります。

今朝、読んだ「日々読誦三十章経~二十九日の経言」
鳥肌が立つほど感動したので、みなさまにもお福分けいたします。

「二十九日の経言」
  神と一体となる言葉

無限の生命よ、吾れはあなたの中に生活し、あなたのうちに息している。吾れはあなたである。吾れはあなたの生命が顕現したものである。吾れはあなたの自己実現の中心である。吾れはあなたの愛が姿をあらわしたものなのである。吾れはあなたの智慧の個体化したものなのである。吾れは生命である。吾れは愛である。智慧である。平和である。吾れはまた名づけ難き実体である。吾れはまた霊である。吾れは久遠の生命である。吾れは実在である。吾れは一切のもとに横たわる本質である。吾れは死ぬということはないー吾れは生命であるからだ。吾れは病むということはないー吾れは健康であるからだ。吾れは不快になると云うことはないー吾れは歓喜であるからだ。吾れは大なる肯定をなすために、すべての否定的なものを意識の外に逐い出して了ったのである。吾れは実在だ。実有だ。実相だ。吾れは恐るるものはないのである。吾れは実在だ。如何なる危険も、吾れには近寄ることは出来ない。吾れは実有だ。吾れは霊だ。生命だ。吾れは空しくならないー吾れは神のうちにあるからだ。吾れは迷わないー神よ、あなたは到るところにいらっしゃいます。神よ、吾れをして今日静穏と平和とのうちにあらしめ給え。若し事物がこぐらかったり、順潮に行かなかったりしましたならば、どうぞ吾れをして至高者(いとたかきもの)の奥殿に入らしめてください。全能なる者の庇護の下にあらしめて下さい。吾れは実在である。吾れは実有である。吾がたましいの奥殿では、凡ては平和で安穏である。
御親の神に感謝いたします。

日本教文社「日々読誦三十章経」谷口雅春先生著



今まで何度も何度も読んでいる経言です。

付箋も付いてて、サイドラインも引いてあるのですが、今朝はホントに鳥肌が立ちました。
キタ━━━(゜∀゜)━━━!!!!!。。。という感じでした。

>吾れは不快になると云うことはないー吾れは歓喜であるからだ。。。。。これはすごい、改めてすごい!



全国の信徒誌友さん、たっくさんの方々が、今朝はこの章を読まれたことと思います。
きっと、たっくさんの方々が私と同じように大感激したことでしょう^^

うれしいね、ありがたいね。
今日も素晴らしい日の始まりです。


吾れは歓喜です!
みなさまもどうぞ歓喜に満ちた日をお過ごしください。


父との和解~その1

2011-10-06 | 父との和解
神の子のみなさま~ありがとうございます。
先日、ラジオ放送「幸福への出発」で私の体験を桜井先生が御紹介くださいました。桜井先生、ありがとうございました。
パソコンからも聞けます。こちらです。

何人かから「携帯からは聞けない」とか「パソコンが旧くて聞けない」というメール、メッセージをいただきましたので、また記事にアップすることにしました。
旧ブログには載せてあったのですが、加筆訂正してお届けしたいと思いまして。
ラジオ放送以外のエピソードも含めて5~6話に分けてお届けします。長いですので(え?いつものことですか?)お時間のあるときに、どうぞ。

私が生長の家に初めて触れたのは中学3年の時、導いてくれたのは~実父の姉にあたる伯母でした。
父の兄弟は10人いたそうですが、戦争や病気で亡くなって、私が物心ついた時には4人になっておりました。
そのうち3人が(私の父もそうです)何故か皆、異性関係が理由で家庭が崩壊しておりました。
そんな中で、この伯母だけが、家族を愛し、両親を愛し、夫を愛し、幸せに暮らしていたのも~「生長の家」の御教えに御縁があったからなのでしょう。

伯母はいつも優しく~私の両親が憎みあって離婚した後も、いつも「お父さんをこらえて(赦して)やってよ。憎んだら、いかん。」と言い~
私の弟のお葬式でも「つらいねぇ~。つらいけど、親を恨んだら いかんよ。憎しみからは、何も生まれてこんけんね。お父さんをこらえてやって。」と申しておりました。
「赦せるもんか!」とその頃の私は思っておりました。

それから年月は経ち…夫が倒れ、何度も手術を繰り返し、何度もドクターから「覚悟してください」と言われながら、やっと小康状態を取り戻し、リハビリ専門の病院に移り、白鳩と再会しました。

実母に「生長の家に入信したよ!」と電話で話した時に、思わぬ事実を知りました。
その愛媛の伯母は夫の一番、難しかった2回目の手術の日(10月24日)の、その手術の時間中(午後2時頃)に亡くなっておりました。
朝はいつもどおりだったそうです。いつものように、食事をし、いつものように家事をこなしていた伯母が、午後は静かに眠るように亡くなっていたそうです。
従兄弟から実母には連絡が入ったそうですが~母は、夫のことで頭がいっぱいの私には、この訃報を伝えることが出来なかったそうです。

もしかしたら~伯母と夫は天国の入り口あたりで会ってたのかもしれません。
もしかしたら~伯母が夫を「まだ早いけん、帰りなさい」と追い返してくれたのかもしれません。

それから~いきさつを知った従兄弟から、伯母が愛読していた「生命の実相」全40巻が私の元に送られてきました。(今、定価は1000円ですが~私のは、おばちゃんのお下がりなのでね、430円とか380円なのですよ。)
その「生命の実相」を開いた時に、伯母の「お父さんを、こらえてやってよ」を思いだしました。

おばちゃん、ありがとう。
おばちゃんの意思を継いで~ずっとずっと生長の家を信仰していくよ。
おばちゃん、父さんと仲直りするよ。
…そして、ずっと音信不通だった父に手紙を書きました。


以下、2編に続きます。
(長いので5編くらいに分けますね)

父との和解~その2

2011-10-06 | 父との和解
4つ違いの弟がいました。
私が産まれた後、何度も流産して、やっと授かった男の子でしたので~母は大変に可愛がっておりました。

物心ついた頃から、父母はあまり仲が良くなく~父は「仕事」と言って月の半分は外泊しておりました。
休みの日には私だけ遊びに連れていってくれましたが~行った先には、何故か知らないおばちゃんが待っておりました(なんてこったい!)。
母はいつも不機嫌で~私はいつも母の顔色ばかり見ていました。息子(弟)を溺愛することで、母は淋しさを紛らわせていたようです。

なんとか夫婦としての体面を保っていたものの、私が高校生になった頃に~父には「私たちより大切な人」が出来てしまったのでした。それは、私の同級生のお母さんであり、また母の幼馴染みの方でした。

私たちのショックはもちろん、母の心痛は、いかばかりのものだったでしょうか。
夫婦の事は半分ずつ、母にも問題はあったとはいえ、「相手が悪すぎる」と私は父を責めました。
母の泣き声、父の罵倒する声、暴力など(以下、ふさわしくないので自主規制)
3年近くの騒動の後、やっと協議離婚が決まった時には、「ああ、これで、もう、この人たちのケンカを見なくてすむ」と安心しました。

私は両親が嫌で、親戚が嫌で、逃げるように京都の短大に進学しました。
1年後、弟も追って、横浜の全寮制の高校に入学しました。
母は少しずつ落ち着きを取り戻し~それぞれに結婚し、家庭が出来た頃、弟は少しずつ父を恋しがりはじめました。
自分も2人の男の子の父となり「こんなに可愛いのに、何故、親父は俺たちを捨てたのか」「何故、憎みあわなくてはいけないのか」と言い始めました。

私は「父さんの事はあきらめなさい。忘れなさい。」と言い続けましたが~
弟は、ある日、子ども2人を連れて父に会いに行ったのです。父に孫の顔を見せたかっただけでした。
…そこで父が15年ぶりに弟に言った言葉が「何が欲しいのか?」でした。

その日から弟は少しずつ心を病み始め~幻覚が見え、幻聴が聞こえ~3年間の入院生活を経て~愛媛大学病院の屋上から飛び、そのまま逝ってしまいました。

私は父が許せなかった。
父の悪口、恨み言を弟に話し続けた母も許せなかった。
弟を追い詰めたのは母で、弟を死に追いやったのは父だと思っていました。
何があったとしても、弟に、そんな事を言った父が許せなかった。
そんな私の心を見透かすかのように、伯母は「父さんをこらえて(赦して)やって」と言い続けました。

伯母の形見となった「生命の実相」の他に、何冊か聖典が入っており~
「大調和の神示」の横に、伯母の走り書きで「親、親足らずとも、子は子たれ。」という文字を見つけました。

その後、天草見真会で(当時の)教化部長、浜山先生の御指導の浄心行を受けました。先生も過去に、ご自身のお父様と問題をお持ちでした。「おとうさ~ん」と大きな体を震わせて泣いておられるのを見て、
「赦さなければいけないんだ。私の感情など捨てて、父母を赦さなければ~神様に向き合うことは出来ないのだ」と痛いほど感じました。

その後、父と、一緒にいる女性を聖使命会に繋ぎ~父に手紙を書き始めました。

その3へ続きます。

父との和解~その3

2011-10-06 | 父との和解
父に手紙を書き始めました。心の底から赦せてなどいませんでした。
けれど、赦す努力から始めようと思いました。
弟の事、夫が倒れた事、生長の家に戻った事、御教えに「両親への感謝」が説かれている事など書きました。
~具体的な事は憶えていませんが~「明日、何があるかわからない人生だから、父さんと仲直りしたい。もう、恨んだり憎んだりしたくない。せめて、お盆や正月の挨拶くらい出来るようになりたい。」と書いて(宛先が分からなかったので)父方の従兄弟に「父さんに渡してください」と宛てて出しました。
返事など期待しておりませんでした。形だけでも「父を赦す」ことが出来た事が満足でした。

数日後~従兄弟から電話がありました。
父に手紙を渡してくれたそうです。父は驚きながらも、手紙を読み、大粒の涙を落として泣いていたそうです。
それを聞いた時に~表現しようのない、熱いものが一気に胸の奥から湧き上がってきました。
赦すことなど出来ないと思っていました。どんなに父が詫びても、取り返しがつかないと思っていました。

父が私の手紙を読んで、泣いた。
ただ、それだけのことです。

たった、それだけのことが、どうして、こんなに嬉しいのか。
どうして涙がとまらないのか。

…私は、ずっとずっと心の奥の奥で、父を赦し、愛したかったのだ、と気づきました。

それから数日経って~父から「大変でしょうが、がんばってください。何かと物入りでしょうから。」と走り書きの簡単な手紙と、まとまったお金が送られてきました。
何度か手紙のやり取りをし~そのうち、電話が掛けられるようになり、冗談も言いあえるようになりました。

そして、その夏に夫も一緒に家族で愛媛に帰省することになりました。
父と会って、食事でも…という話になった時に、神様は私に大きな大きな宿題をくださったのでした。



ある日~父から1通の手紙が来ました。
内容は、私と仲直りした前後に~父は入院して手術を受けていたということ。
頭痛がひどいので、病院で脳ドックを受けたら、破裂寸前の脳動脈瘤が見つかり、早めに手術を受けて事無きを得たということ。(これが破裂していたら夫と同じ、くも膜下出血だったのです)後遺症も無く元気にしているということ。

今、一緒に居る女性が、入院、手術後と終始、心のこもった看病をしてくれたということ。
そして、お盆に帰省した時に、娘である私から、彼女に御礼を言って欲しいということでした。

血が逆流するというのは、この時の私の状態を言うのでしょう。

その女性が、ただの「父の新しい奥さん」なら、御礼や挨拶など簡単です。
けれども、その女性は私の同級生のお母さんで、そして母の幼馴染みだった人でした。
あの人のせいで、ウチは無茶苦茶になった。(いや、ホントは他にも色々あったんですけどね)
私達は明日のお米にも困っていたのに、あの人は父から色々なものを買い与えられていた。(父が稼いだお金だから、どう使おうと父の勝手なんですけどね‥と今なら分かる)
あの人のせいで、父は私たちを捨てた。あの人のせいで・・・あの人のせいで・・・(以下、ふさわしくないので自主規制)

そんな彼女に、私から頭を下げろというのですか? おとうさん。

手紙を握りしめて、天草道場に走りました。道場にいらっしゃったK先生に、泣きながら事のいきさつを話しました。
「うん、うん」と聞いてくださったK先生は、「お盆まで、まだ日があるから~。少しずつでいいから、頑張ってごらんなさい」とおっしゃいました。
私は即座に「イヤです!出来ません!!」と答えました。「父だけなら兎も角、何故、あの人まで?」

するとK先生は「もうすぐ総本山で母親練成会があるわね!行きましょう!そして住吉大神さまに聞いていただきなさい。」とおっしゃいました。
私 「母親練成会には行きますけど、でも、あの人は赦せません!」
先生「まぁ、いいから行きましょう。淨心行があるわ!先祖供養祭も奥津城参拝もあるから!」
私 「行きますけど、赦せません!!」
・・・と、K先生に連れられて、悶々としながら母親練成会にやって参りました。

満面笑顔の先生が「おみくじを引きましょう!総本山のおみくじは、その時の自分に、ぴったりの言葉が与えられるのよ」とおっしゃいました。
そこで、引いた私のおみくじが「赦すものが赦される」でした。
「先生…こんなん出ました。」と申し上げると、K先生は大喜びです。

「いやだ~!!赦したくない~~!!ひどい~~~!神様、あんまりです~~~!!!」と、ふさわしくない言葉ですが、その時の私は、ホントに、そう思いました。
わぁわぁ騒いでいたので~壮年の熊本教区のお仲間が、「何?」と集まってきました。訳を話すと皆さん、絶句されておりました。
オブザーバーで参加されていた母親教室出講講師の先生方にも聞いていただきました。
ある先生は「辛いわね。苦しいわね。でも、貴女なら出来る、がんばりなさい」と仰り
ある先生は「その女性は、お父様にとって、本当の半身さんでは無いのね。本物なら、貴女に御礼など言ってもらう必要など無いはずだわ。お父様はお淋しいのね?言ってさしあげなさい。減るもんじゃなし。親が死んでしまったら何もしてあげられないのよ」と仰いました。

浄心行で、父と彼女の事を、無茶苦茶に書きなぐりました。書きながら涙がポロポロ出てきました。
翌日は先祖供養祭でした。霊牌を書くのに「あそこと、ここと・・」と数えながら、ふと、彼女の実家のも「書かなきゃ」と思いました。思ってから「私、今、何を思った??』と汗が出てきました。

とどめが当時の熊本教区連合会長だったM先生でした。
丁度、食事の時に先生の隣に座れたので「個人指導してください」と訳を話したら・・・
先生は、にっこり笑って「無駄なあがきは止めなさい。わかってるんでしょ? 神様の御心を生きなさい。」と仰いました。

…ハイ。
その日から、鏡の前で、笑って御礼をいう練習を始めました。

その4に続きます。

追伸:やっぱり組織の、白鳩会の力って素晴らしいと思います(涙)

父との和解~その4

2011-10-06 | 父との和解
総本山の母親練成会で、神様からおみくじで御指導をいただき、講師の先生方からも愛深い御指導を受け、壮年層の皆様の応援を胸に帰ってまいりました。

毎日、鏡の前で、にっこり笑って~
「おばちゃん(←だって同級生のお母さんですから!母の幼馴染みですから!よくよく知っていましたから!)、父さんに、よくしてくれたってね。ありがとう。父さんがお世話になりました。」という練習をしました。
初めは言えませんでした(←そりゃ、そうよね)。何度も練習して、やっと言えるようになったけど、笑うことが出来ないんです。
毎日、鏡の前で、口の端をひっぱり上げて笑う練習をしました。

そして、お盆になりました。とうとう帰省です。

夫が車椅子なので、JRでは大変だろうと、天草空港から(←誰ですか?びっくりしたのは??天草にも空港があるんですよ!)エアラインに乗って(←28人乗りのプロペラ機、福岡まで30分の夢の飛行機♪)福岡まで出て、そこで乗り換えて松山空港まで飛んで~松山でレンタカーを借りて、故郷の新居浜まで帰るという行程でした。
今回の件は母には内緒にしておきました。落ち着いてから話そうと思っていました。

父に会った時には、父ひとりでした。正直、ホッとしました。久々に会う父は、ひと回りもふた回りも小さく見えました。
夫や子ども達とも、しんみりと30分くらい話して別れました。
けれども、神さまは、この大きな宿題を~四国を離れる時に用意してくださっていたのでした。

松山空港に、父と彼女、二人で見送りに来たのです。
父と彼女の姿を空港で見た時には、引き返えそうかと思いました。いや、ホントに。
…来た。…来なくていいのに。と思いました。

父は足早に私に近づき、「御礼を言うてくれよ」とささやきました。
…分かってますよ。言えばいいんでしょ。

軽く深呼吸して、彼女に近づき、ニッコリ笑って言いました。
「おばちゃん、父さんによう(よく)してくれたってね。父さんがお世話になりました。ありがとうございました。これからも父さんをヨロシクお願いします。」と頭を下げました。

…言えた!!神さま、言えました!

顔を上げると、父の、それはそれは嬉しそうな顔が見えました。
ほ~ら見なさい。やっぱり娘が一番でしょ、と思ったことは父には内緒です。
父の隣に居た彼女の目が、涙で真っ赤に潤んでいるのも見えました。

驚きました。
…私は、彼女をずっとずっと鬼だと思っていました。
父をどんなに好きでも、幼馴染みの旦那様と深い仲になるなど赦されることではない。この人のせいで、この人のせいで…。

けれど、彼女の真っ赤に潤んだ目を見た時に
「この人は、ずっと鬼の皮をかぶっていたんだ。
…本来の姿を隠して、鬼の皮をかぶり人から非難されつづけるのも、さぞかし辛かっただろうなぁ」と思いました。

父と彼女はいつまでも手を振って見送ってくれました。
その日、松山空港は曇天で細かい雨が降っていました。
飛行機が飛び立ち、高度を上げ、厚い雲を抜けると…窓から見た景色は、一面の青空でした。
どんなに雲が立ちこめていても、雨が降っていても、その上には必ず青空がある。という谷口清超先生の御文章を思い出しました。
「ああ、ここは神の国だ。実相世界だ。…神様、宿題が終わりました。」と呟くと、何故か、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
一部始終を見ていた子どもたちが、神様の代わりに「母さん、よく頑張ったね」と言ってくれました。




つづく。



父との和解~最終章

2011-10-06 | 父との和解
無事に宿題を終えて、天草に帰ってまいりました。

K先生に御報告申し上げると、先生は「よく頑張ったわね。偉いわ!貴女なら出来ると思っていたけど、ホントに素晴らしいわ」と自分の事のように喜んでくださいました。
9月の熊本県教化部での白鳩の一日見真会で、御指導くださった講師の先生方、応援してくださった壮年層の皆様にも報告して、喜んでいただきました。


ひとりでは、絶対に乗り越えられなかったと思います。
総本山のおみくじ、浄心行、奥津城参拝、先祖供養祭の行の数々、そして教区の皆様の励ましがあったから、がんばれました。
父の嬉しそうな顔、いつまでも手を振る二人を思い出すたびに~がんばって良かった、赦せて良かったと悦びが湧いてきたのでした。
こんな悦びが待っていようとは、帰省前には想像もつきませんでした。

神様、ありがとうございます。
たくちゃん(←弟です) 姉ちゃんはがんばったぞ! 


それから~毎月、父に「ひかりの環」と「白鳩」を送り、日本教文社からメール配信されるている「ひかりの言葉」を毎日、父にも転送しています。 
父の日や、父の誕生日には心ばかりのものを(ポロシャツなど)送っております。
父からの連絡は滅多にありませんが、お正月、ゴールデンウィーク、お盆などには必ず子どもたちに「小遣い」といってお金を送ってくれています。

その2年後の春に、弟の七回忌で久しぶりに、父と彼女に会いました。
やっぱり私に「(彼女に)ちゃんと挨拶してくれよ」と言って来ました。
…分かってますよ。ちゃんと言うから、安心してください。

父は、今でも色々と大変な思いをしているようです。
けれど、父が自分で選んだ道、選んだ女性なのだから~きっと頑張って乗り越えていくでしょう。
私は、天草から父の幸せを祈るだけです。

母には、しばらく経ってから、事のいきさつを話しました。
弟が亡くなって以来、アルコール依存症だった母も、義理の息子(←夫です)の病気をきっかけに少しずつ、しっかりしてきていました。飲んで泣いてばかりでは居られなくなったのですね。
母はずいぶんと二人(父と彼女)を恨んでおりましたので、私が頭を下げた話を聞かせれば、怒るだろうなぁ~と思っておりましたが~
話を聞き終えた後、父に対しては「可哀想な人」と言い、彼女の目が赤く潤んでいたという事には「あの人にも仏性が残っとったんじゃねぇ」と涙を拭いてから、私に「親孝行したね」と笑いました。

…母さん。…辛かったね。…母さんのお酒の事、怒ってばかりでゴメンね。
これから~親孝行するけんね。

父と母は、別れて25年も経っているのに、弟の7回忌では口もききませんでした。
「相変わらずじゃのう」と苦笑いする弟が見えるようです。
父と母がお互いに赦しあえる日を、信じて祈って待とうと思います。
私は私なりに、父と母、それぞれの形で親孝行して~幸せを祈ります。


生長の家に御縁があったからこそ、今、こうして笑っていられるのですね。
神様、ありがとうございます。
お父さん、お母さん、ありがとう。いつまでも、元気で幸せでいてね。

以上です^^
長いなが~~~い話におつきあいくださってありがとうございました^^



今、親に感謝できずに悩んでいる方の役にたてば、と思いアップしました。
子どもはみな、いくつになっても、お父さん、お母さんが大好きなんですよね~~それが神の子、神は愛だからね!




では、みなさま、明日もよき日をおすごしくださいませ^^