かつてわれわれの歴史は、われわれが人間生命とその行動様態を特徴づける情動あるいは生=性エネルギーの性質の認識に向けて近づくために必要となる思考容器の天地四方を画定させるそのエネルギーのヒエラルキー的理解に関する決定的選択の機会を与えた。その選択肢がフロイトとライヒであった。フロイトの心理学はエネルギーの意図を誤読した結果として得られた産物としてのエネルギーの人間的捕捉および交換条件に基づくその局地的解放と再捕捉についての理論であり、他方ライヒのものはエネルギーの活動を通して生産され消費される様々な事物に対する身体的および心因的反応の総体としての身体および心理の状態を作り出す基底としての根源的エネルギーの自然的存立への頷きとその無条件にして全的なる解放を自らの視線の先に置くものであった。
そして、この二つの選択肢を前に、われわれの歴史=運命はまたしても誤った方を選んだ。つまり、フロイトの方を。
しかしそれにも関わらず、実際には、万物とそれらの在る事象の運命的諸条件の範囲をその都度規定するコーラとしての前人間的情動、すなわち魔術的マナスの存在様態は、フロイトの言うリビドーが備える直線的で攻撃=防御的な時間ベクトルをトレースする意識線上ではなく、ライヒが仮定したオルゴンエネルギーが先のベクトル線の周囲に膨張的に生じさせる渦巻き状のエネルギー磁場において再構成され再発見されする諸存在と事物の諸様態が、常にすでに永遠に、自らをその中に新しく解き放とうと試み直す未知数体のための無限の可能性の空間上に描き出す循環的で包括的な全方位スペクトルからエネルギーそれ自体の本性に従って選択された諸瞬間内における永遠〔回帰〕の歓喜や絶対的〔普遍の〕美といった此性に対する動物的な本能の頷きの中においてのみ、初めてその振る舞いの実質的様相とさらにその奥に隠された神秘的意味をわれわれに開示するのである。