天瀬ひみかのブログ 『不思議の国のAmase』 AMaSe IN WONDeRLaND

僕たちの旅、ここではないどこか、幸福な場所へ。

善悪の知識

2014-08-10 15:26:18 | 日記

この世界の善と悪について。この世界は二元の世界より出来ており、その二つの源泉は、コードロジーでは太陽的男性的側面(ソーラーコード)と月的女性的側面(ルナーコード)により示される。そして、その太極をなす二大エネルギーの潮流が作り出す私たちの世界自体は360度の円によって表されており、その円は先の二元の原理に基づき二重円として暗黙知の次元に存在する。そして、これがすべての人間の元型ともなっている。

よってこの状況についての公式は、360×2=720として私たちに示される。

この二重映しの世界から、この世の様々な双極性、矛盾、対立、破壊への欲望、男と女、結合への欲望、統合への意欲などが生じる。

以上を理解するために、アカシック(人間の運命、カルマ、人間という特定種の有形無形の諸エネルギー)の始まり(原点)であるコード1を例にとってみよう。

その太陽的側面であるソーラーコード1は、「形の無い巨大な闇の中にいる、海から出てきたばかりの女性。アザラシが彼女を背後から抱きしめている」というものであり、その月的側面であるルナーコード1は、「海洋学者が、定置網にかかって傷つき、弱ったジュゴンを何とか治療し、海に戻そうとしている」というものである。ソーラー1の方では、人間は「動物」(=自然の本能)に背を向け、「生命の母なる海」から離れさ去って行こうとしている様子がシンボライズされている。他方のルナー1では、動物に対してなされる人間の文明的な加害行為から被害者であるその動物(=自然の本能)を救い出し、それを再び「生命の海」に帰そうとしている人の姿が描かれている。

このように、このコード1という人間の運命の一番初の出発点からしてすでに、善と悪の差異、そして、両者がそれぞれに指向する対極のベクトルが並立的に存在する様子がはっきりと見てとれる。これが世界と同じく人間総体にも等しく存在し、また、これによってその部分をなす人間個々人の個性化において相反する本質と性向を持つ二種類の人間のタイプ(元型的善悪)が産出されることになる。

しかし、エネルギーの分岐はここまでに留まらない。そのエネルギーはコード2に移行するに先立ち、第二段階の区分をそこで作り出す。

それは受動と能動、および、派型的善悪という区分である。

その区分がコード内でどのように生み出されるかと言うと、たとえば、ルナーコード1を例にして説明すると、このコードにおいては、そこに海洋学者とジュゴンという二つのキャラクターが登場するが、その前者が能動的主体を、後者が受動的主体を受け持つ、といった様な仕方においてである。また、善悪の区分という観点から見れば、このアカシック最初のコードには人間的文明と自然的文明という根源的対立項が設定されており、その設定の中では前者は加害者で、後者は被害者となる(なお、それはアカシックによって定められたプロトコルであるため、その両者の立場が反転することはない)。そして、私たちが加害者=悪、被害者=善という普遍的な倫理観に基づいてこの対立図を見るなら、私たちはそこに加害者=人間とその文明、被害者=自然とそこに生きる人間以外の生物というさらなる図式が存在することを発見するのである。しかし、この善悪の判断の際に用いられた普遍的倫理観の出自はこのコード1の中では全く明らかになっていない。ということは、その判断の根拠となる基準は、必然的にコード1に先立つ地点(人類の原点、別言すれば人類すべての起源に先立つ地点)にあることになる。それでは、その地点とはどこを指すのだろう。コード1に先立つのは、コード0である。そして、アカシックによって描かれる世界は、冒頭にも書いた通り、円環状をなしているので、コード0とは、即ちコード360のことでもある。

そのコード360のソーラーは、「偉大な先人に影響を受けた若い人が、彼が崇拝するヒーローに次第に似始める」というものであり、このコードの象徴する所は、アストロDNAの働きによる人間の本質と基本的性向に関する永続的継承の作用である。

そして他方のルナー360は「美しい切硝子をあしらった高名な職人の手になる高価で繊細な空の小瓶と、試供品の安物の香水が一杯に入った瓶とが、大きな鏡の前に並んで置かれている」というもので、これは人間の本質と基本的性向が総体として人間の内に形作る個々人の人格の高低(気品と下劣さ、繊細さと粗雑さ、普遍性と場当たり性、高尚と低俗、稀有と凡庸など)を表している。

しかし、このコード360の中にも、私たちが善悪を正しく判断するために必要となるはずの普遍的価値基準の存在は発見できない。ここで私たちが、その事実と共に気づかなくてはならないのは、360は1に先立つ0としての初めであると同時に、360それ自体としての終わりでもあるということだ。つまり、円環はいつも必ず閉じられているのであり、厳密な意味では、そこには閉じられた内部しか存在しないということだ。よって、それは牢獄の形象であり、実際にその内部に生きた生命が閉じ込められているのだとすれば、それは最早比喩ではなく、現実の牢獄である。

この牢獄は、これまでの行論からも分かる通り、四次元魔界のアカシックがしつらえた牢獄である。この秘められた事実に至って、ついに私たちはこの牢獄の内に善悪の判断を自由になすための規範が存在しないのは当然の事だと理解する。何故なら囚人とは、それを管理する側が許可した以外の一切の自由を奪われた存在の謂なのだから。そして、言うまでもないことだが、私たちを管理する魔界は、私たちに善悪を正しく判断する術を与えようなどとは、当然であるが露ほども思っていないのである。彼らが望んでいることは唯一つ、私たちを囚人として、無知と無明の牢獄の中に、永遠に閉じ込めておくことだけである。結局、アカシックの中には、どこを探しても善悪を判断する基準となるものは見つからない。しかし、それにも関わらずアカシックに登場する人物たちの一部は、明らかに自らが具えている倫理観に従って最初から(つまりコード1から)行動しているのだ。その倫理は、一体どこからやって来たのだろう。それがこの世界の内部で与えられたものでないことだけは、既に見てきた内容からも明らかだ。よって、それはこの世界以外の何処かから与えられたことになる。

結論から言うと、その倫理、その善悪を識別する知力は、この世界とこの世界を支配する魔界の外側にある世界、即ち、人が憧れと畏敬の念を込めて天国と呼ぶ、あの普遍的かつ永続的な善に満ちた善のみの世界から、それに対して時空を越えて共鳴する不朽の本質(=マヌポース)を持った個人の内にひそかに到来したものなのである。そしてそれはアカシックの原点に描かれたすべての生命とそのエネルギーの源泉に他ならぬ「母なる海」に着床する。この海の水が、今も昔も私たちの内側には流れており、それゆえ私たちがこのすべての生命の母の御胸にある自然と動物に注ぐ無限の愛に(ソーラーコード1の人のように)自らすすんで背かぬ限りは、私たちはこの慈母の教えたる生命の倫理に従って善と悪を区別し、その区別を踏まえて正義を選び為す力を自らの内に先天的に具えていることになるのである。そして、その正義の実践は、この世界の牢獄の暗闇の只中に、私たちの「母なる海」の天の花婿たる「炎の父」から私たちが子として受け継いだ光を夜空の星のように点すことになるのである。こうして私たちは、やがてこの地を無数の星々の瞬く天に変え、天を静かに満たしゆくその善なる光によって、この世の牢獄をいずれ消滅へと導くことになるだろう。何故なら、天から自由落下によって地に墜ちた魂は、地が天に、人の我欲が天の意思に成り代わるなら、最早そこに居ることはできなくなるからである。