小原民子の作品ブログ

絵を描いているので,ときどき紹介したいとおもいます

無題

2013-02-23 | 創作日記

2007.6.27

 

 

      朝からならだいじょうぶ。目の前にぶつけるものがある。問題はセッティング。

     どれの隣になにを置くか。今日つかう筆はどれとどれか。

     今日は油絵の具はやめにして鉛筆とペンと水彩にしようか。

     最初に出す絵具はどれとどれか。一番最初に出すものが肝心だ。次を決定する。

     古いのを引っぱり出すか?いいや、溶き油だけであっさりと新しい布に・・・。

     いいや昔の描きかけにはっきりとした色合いの線と面をもったりと塗る・・・。おっと昨日の

     描きかけのほうが先だった。まだ少し半乾きなので筆がもたつくうえに余計な筆の跡が

     ついて色面の調和を乱す。それならばいっそ刷毛を使おう。別な乾いた絵に。

     朝から大忙しだ。なにしろ頭痛になられては困る。ため込んで内部で腐らせて悪い沈殿物に

     してしまう前に急いで吐き出さなくてはならない。

 

      朝思った。form factory。夜中の夢の中はカタチの制作工場だ。絶え間なく常に

     動き出す。目をつぶった途端。布団に横になった途端。睡眠の権利を奪う気だろうか?

     せっせせっせと勝手に動き続ける。目がいけないのだろうか?あんまり見過ぎるか?

     見たものが消化吸収され血となり肉となる。まったく胃袋や小腸とおんなじ働きをしてくれる。

     form factory あるいはform farm カタチ農場。植えた種がそれぞれに赤くとがって

     くねくねした「ピ」 や みどりにざざっと塗られたマルとなってどんどん大きくなっていく。

     このままだと頭痛でまた2~3日寝込まなきゃならなくなる。そのための朝だ。

     カタチ工場から採れたてのイメージを画面に起こす。それが私の仕事だ。

 

 

      確かにピカソは身近に・・・いや程遠い。あのヒトは別格だよ。と同時に家族より身近に

     いる。どうなってるんだあのおじいちゃんは?MorandiとKandinskyの間に挟まって

     アウフヘーベンしようとしていたのだ。岡本太郎の言う対極主義というのとも似ていると

     思うのだが。

     そうそう。MorandiとKandinskyを両極に置いてしばらく眺めて右に寄ったり左に寄ったり

     しているうちにピカソっぽいのが出てきたのだ。ちょうどおじいちゃん目の前で筆さばきを

     見せてくれていたしね。ジャストでしたよ見事に。ちょうど!!ぴったり。通過するところは

     通過するということです。

 

      そして問題はモノ。材料。資源。案の定、中国産の雑な作りの豚毛は扱いやすい。

     毛があんまり抜け過ぎて困ったり 可笑しがったりもしていたが、なんというか、雑な良さ。

     雑草の強さ。もちろんラファエル コリンスキーとセットでないとどちらも引き立ちません!!

     そしてすべて消費モノ。毛が減れば筆としての寿命はオワリ。ただ木の棒になります。

     絵具は? 塗られれば終わり。固まったらもう使えない。

     布は? ここまでというくらいに塗られればもう終わり。そこまでしていったい何を

     やってるの? と、そこからが試されどころ。

     つまりどれだけの味方が私についてるか?今までどんな作品に感動してきたかが

     表れないとだめ。描いてる意味ナシ! シンデ。孤独を友達にしてまで創作することの目的。

     

 

      ひたすらに「アリガトね」です。いいもの作ってくれて、それを私に見せてくれてありがとね。

     今、みんなにお礼するからね。お礼のカタチを見せるからね。待っててね。

     これから生まれてくる人たち。と いったものです。

      あと、聞かせてくれてありがとね、や、言ってくれてありがとね、や、書き残してくれて

     ありがとね、とかいうものです。

 

      ナニシロ オデコ ノアタリ ガ ヒカッタノデスカラ・・・

      タイヨウノ ヒカリノ メイアンヲ イシキスルマエニ・・・

      コレカラ ヒカリト カゲノ メイアンノ ヒョウゲンニ 入るノデス・・・

 

       ランボー と 宮沢賢治 と (セザンヌ)

                          ゴッホ

 

 

 


Morandiと自然食

2013-02-22 | 創作日記

2007 6.30

 

      2人の講師の方が私にMorandiの画集を見せてくれた。

     そういえば研究所の一番最初の油彩課題は

     静物だった。ポットとフライパンと円柱。テーブルの角度と敷物の色がいまだに

     気に食わない。背景の色も物と分離している。けれども物1コ1コに対する愛着は

     ものずごく現れている。確かに色を塗り重ねていく途中途中の微妙な

     移り変わり具合が楽しくて夢中になっていた。

      今日届いたMorandi 26歳当時の静物画!一番これを見たかった。 

     やはり若いときの作品だった。

     今回の画集は前の完成された作品中心にまとめられていた2冊とは

     ちがった取り上げ方をされていた。過程・完成までの微妙な 長い時間をかけた足取り

     pre というのか、一寸ちょっと手前の これこそ創作している立場としては必要だと

     思えるもの。Morandi26才当時の静物画。これと対話したかった。

     その後未来派の流れにも汲みしキリコみたいな作風をとおり過ぎ、

     また戻っていくところ。将来の作風への予言のような予告のような合図のような・・・。

     こっちやそっちに振れてもここに帰る場所があるというような絵。画集の表紙。

     熟練された50~60代のときの作品ではなく(終着点、完成時)、出発点を表紙に

     していたのだ。(編集者のセンスのよさに頭が下がります。 )    

     

      わたしはいったいどこに戻る?

      どうしてこんなにもMorandiの色合いをおいしそうと感じるのだろうか?

     ほんとうになぜだろうと思っていた。筆のタッチだろうか?モチーフに対する愛着

     だろうか?(スタジオの写真を見る限り、捨てるのがもったいなくてとっておいたという

     感じがする) 住んでいた環境だろうか?(きっとまわりは白壁だったんだろうな、)

     いや、写真で見るかぎりはかなり質素。習慣だろうか?毎日必ずこれをしなきゃ気が

     すまないちょっと偏執狂的な・・・?いいや、ふつうの人に見える。

     厚塗りだから? オイルの量が多い? いいや、水彩やデッサンの線だけでも

     十分おいしそうなのだ。いったいなんなんだろう、あの暖かみは?

     人間味。そうだ自然食。

      窓の外で、大きすぎる古いむぎわらぼうしをかぶった母が畑仕事をしている。

     昔使っていたから引っ張り出したのかもしれないむぎわらぼうし。

     でも大きすぎて小柄な母にはちょっと不釣合いな上に、たぶん私だったらツバが

     広すぎてじゃまだと感じてしまうにちがいないものを、気に入ってるんだか

     あるから仕方がなくかぶっているのかわからないかぶり方をしている。

      小学生の頃、土曜日だけ持って行った母の自然食弁当の色合いを思い出した。

      いつ思い出した?夕食のときだったか画集の表紙を見ているときだったか・・・。

     とにかくおいしそうなのはなぜか?なぜ私はMorandiの作品の色合いを

     くすんだ色とはとらえていないのだろうか私は? と考えていたのです。

     発色と古さと新しさ。そういえば土曜日だけ持って行ったお弁当は茶色系。

     隣で食べている、髪の毛がサラサラで目もぱっちりのなおちゃんのお弁当は

     真っ白なご飯に真っ赤なウィンナー、まっ黄色な卵焼きに真っ赤なトマト、

     ピンクの桜でんぷ。輝いて見えた。

      玄米の茶色にきんぴらごぼうの茶色。梅干も朱色ではなくマゼンダ色。

     キンシンサイ(ゆりの根)の茶色。母には申し訳ないが、全体的に茶色でヨレヨレっと

     見えてしまったものだ。

      私の髪の毛はちょっと雨が降ると当たってもいないのに水分を含んでもしゃもしゃっと

     なり、服だって合成洗剤を一切使わず漂白剤などもってのほかだったので、洗濯あと

     の微香など漂わず無臭で(どちらかというと無臭+犬・ネコ・ばあさんの獣のにおい)、

     ジャージは毛玉だらけで白いTシャツは黄ばんだまま。なんだかごちゃごちゃしていて

     くしゃっとしてくすんで、輝いていない自分を感じていたものだった。

      今思うと、研究所の夜間通いの3年間を乗り切ったのはちいさいころの

     徹底した自然食教育のおかげだった。おかげでMorandiともめぐり合った。

      油絵の具自体が古いとか重たいとか そんなことではない。小さい頃毎日

     食べていた玄米は、昔の貧しい農民の食べ物で、ぴかぴかの白米で育った人から

     みれば相当に古い。1980年代の話だ。ところがどうでしょう、今の自然食ブームは?

     雑穀までもが見直されている。古代米なんて雑誌にもおしゃれに登場し、ローソンの

     おにぎりでも高く売られている。

      

      夜間の美術研究所に通って、蛍光灯とはイヤでも闘わなければならなかった。

     電力のおかげで夜間で通えるようになったものの、最初に光と影を描きましょうでは

     なく、どこの電気とどこの電気のスイッチをつけましょうかという設定の問題になる。

     石膏デッサンも何も実に白々しい。明暗も陰影も自分で作るものだと知った。

 

      そうそうところで26歳。わたしは何をしていた?昼間働き夜間で習い、休日は

     ぐったりしているか・・・そうだ、本を読み漁っていた。それほど頭のよいわけでもない

     私がなぜ?

      考え方の支柱 デッサンの基本構造 骨格 そうだやはり立体に行き着くのだ。

     平面に立体を起こしてみようとして遊んでいたのだずっと。じっと目の前のものを

     ずっと同じテーマで追っていくかどうかということだった。私がMorandiのアドバイスを

     必要としたのは。

      そうしたらまずわたしはことばを構成していたのだ。目の前のものを見ていても

     いつしかずっと離れて自分の追いたいものを追っていく。支柱は自分のことば。うた。

     

      枯れたアジサイはいつ描こうか?どうなる?どの筆とどの絵の具がパレットの上に

     乗るのかに寄る。アジサイを描きたいのか?アジサイを見た自分のイメージ(ことば)

     を描きたいのか?

 

      母のことばとは、こうだ。私の部屋に用があるとき、ノックをして板に音を

     響かせるのではなく、「トントン」と、ことばを発して合図する。なぜかここでことばを

     発する。第2関節で戸を叩かずに。これが母のことばなのだ。

      Morandiと自然食と母。またまた謎が深まった。

 

      長い時間をかけて ようやく 徐々に 少しずつ ということはよく教えてもらった。

 

     

     

     

     

 


2007.7.2(月)

2013-02-22 | 創作日記

 

 

      風通しによってなのだろうか。日光の照り具合によってなのだろうか。着手する

     絵とパレットに出す絵の具の色のちがい。日替わりの道具。

      このあいだはものすごく緑 緑 緑 だったのになんと今日は黄色が最後まで

     あまってしまう始末。黒の線を求めていた。

      梅雨時期はやはり静物画に限る。

 

      昨日の車酔いがまだ尾を引いていて、目がぐるぐる回る感じだった。1ヶ所に

     とどまりながらも、対象・方法・線や面を視線によってぐるぐるしている毎日だったのに、

     それに加えて動く風景は視界に飛びこむし体ごと移動される。しかもドライブは

     山道だったので 余計ぐるぐる ぐるぐる。頭と首の調子も胃袋の調子もついていけず

     ヒイヒイといっていた。しかも遠出ついでに食べ過ぎてしまった。

      黒のカタチも食べすぎがあらわれていた。あれは生まれてはじめて展覧会に出した

     絵ではなかったか?関係ない関係ない。続きは2年後、5年後。そういう種類の

     作品だったということ。このカタチこの色合いこれは年内に終わるものではない。

     そう判断されたものはあっさりとされたまましばらく放置される。ワインだって寝かせる

     ものだ。発酵させておくわけだ。

      うまれて初めて家で着手した人物画 ハデにあっさりとそのときにしかあり得ない

     絵の具の使い方で一瞬にして描かれずっと放置される。その期間実に6年。

     やっとGOサインが出た、重ね塗りの。構図も筆遣いも実にゆっくり ゆっくりだ。

      発表!? これが実に困ったものなのだ。いつでも未完成。いったい何を

     展示する? どの途中を? この系統とこの系統という相反する2様式が常に対立

     し合う。というか、これまで画集や展覧会で見てきていいなと思った画家のを

     片っ端からまねているのだ。つまり今10枚選んだらこのような題名になるだろう。

     ピカソ風・ちひろ風・クレー風・モディリアニ風・ヨロズ風・モランディ風・セザンヌ風・

     ニコルソン風・ノルデ風・カンディンスキー風・ルオー風・モリゾ風・オキーフ風・太郎風・

     ロスコ風・ポロック風・脇田和風・猪熊源一郎風・写真風 前田寛治もはずせない。

     棟方シコウだっている。加茂田庄司の陶器には泣けた。(厳しさ)ブラジルの

     アドレアナさん・上村松園・ドガ・ゴヤは最初に見た。子どもの骨を食っている

     サテュルヌス(何者?)と理性の眠りはナントカを食う・・・。まさに現代日本。ビュッフェ・

     ミロ・ ローラ・オーエンズ・清水さん・欄村くん・あさのちゃん・朝鮮民画・松本俊介

     (ちょと暗くて暖かみのある女性像 デッサンの絵-北ホテル-には励まされた。)

     インド 南米 細密画 着物の模様 ヤマモトヨウジの質感 イタリア人の着くった服

     遠野のおばちゃんの作ったわらゾウリ HANJIROで買った古着 仙台で買った漫画

     昨日NHKで見た古代インカ帝国時代にいけにえとして捧げられた子どものミイラ。

     家裁調査官になるための勉強をしに図書館へ通ったこと。 母が「おいものせなか」で

     買ってきたイランの水差し。 「私の部屋」で母が買ってきた木の台。 去年のアジサイ

     ポチとばあさん。

 

      1枚1枚題名を分けることほど不可能なものはない。私はジャージ姿だ。

     こんな畳の上を毎日とおっている。すなわち、ちょっと体重をかけたら畳のヘリが5cm

     下がった。いつ落ちるかわからない畳の上。とてもとても上等な暮らしぶりという

     わけにはいかない。1枚1枚ということは、いったいどういうことなんだ?

     100枚は100人ということか?100枚は100箇所ということか?5枚は名無しで

     3枚は人物画? こんどの2枚はone set。濃密とサラリのセット。

     具象と抽象のセット。重ね塗りに線で仕上げるセット。COLOR BARセット。

     COLOR CIRCLEセット。diamond-shaped color セット。

     線と面のてんこ盛りセット。 料理のように 仕上げるセット。静物画セット。

     ちひろセット。バウハウスセット。ちょっとホラーセット。

     太郎セット。メロくん(当時居ついていたノラネコ)セット。ポチくんばあさんセット。

     風景画セット。花セット。写真からセット。Avery風セット。

      カオと赤い服の構想はどう?続けられるか自信ない。

     横断歩道と電信柱-at Hanamaki-の下絵も。

   

        

 

     

     

 

        


「ひし型」やテーマについてなど

2013-02-20 | 創作日記

2007.7.4

 

      具体的な形についての要求ゼロ!!つまり線を廃止ということ。まだ7月なのに

     寒い日でがっかりと憂鬱です。ウツウツとウロウロし、コーヒーだけはがぶがぶと

     のんでいた。「なんたら今日はのまさるべっ!」

      まったく昨日は蜘蛛がひざまでのぼってきたし(刺されたかも)で、踏んでやった。

     水分9割かオマエも。ノコリはおそらく殻と糸と毒。水分でできてるくせに雨にも強い

     しかも細い糸を体から出せるとはナニゴトか?油膜?アメンボの足のように?

      そういえば便座から立ち上がったら網戸越しにバッタと目が合った。バッタの顔を

     真正面から見るのはおそらく初めてだった。仮面ライダーだった。口もまったく!

      

      脇田和さんに頼った。世田谷2002の回顧展のほうがぜったいによかった。個人で

     もってるのと美術館で持ってるのと半分ずつ出し合ったそうだ。あとで軽井沢の

     脇田美術館のほうにも行ってみたがぜんぜんもの足りなくてがっかりした。いい絵は

     やはり売れてしまうのだ。

 

      ひし型はよく登場した。癖っぽくあたりまえに。リズムよく。そして「線」とはもはや

      言いたくない。飽きた。シミ  ギザギザ  詩  ことば。 テーマをことばで

     あらわすっていうのがとにかく難しいのだ。

      鳥は落ち着く。赤い鳥はいい。テーマをことばで・・・?気がついたらひし型だったら

     どうなのだ?  「もったいなくてひし型」  「気がついたら4面」

     「色とりどり(残したり隠したり)」  「カタチは別にどうでもいい」 

     「バレリーナだったのにバイオリニストの上体が浮かび上がってきた。ちょっと怖い」

     「それぞれの箇所にそういう色を置きたかった」  「木」  「植物」  

     「2重マルから始まった絵」  「さいしょからサボテンのままのサボテン」

     「さいしょは人物だった、記号のような黒線」  「"紫の老婆"っていう題にしようとした      

     こともあった絵」  「藤を思い出しながら残り2ミリの豚毛をテンポよくうごかした絵」

     「さいしょは台所の裏の景色だったのを、なんだか野暮ったいのでシャキッと

     させようとした絵」  「成島の風景だったのがいつの間にか・・・」

     「やっぱりdiamond shapedが落ち着く」 

     「わたしは以前、大きなcolor ballの絵の前に立っていた夢を見たことがある」

     「オレンジ色に執着していたんだ」 「ひょっとこではない」  「猿ではない」

     「最初からずっとカマセンのヒト」  

     「これからどう描き加えるか楽しみな絵」(つまり未完成)

     

      「これからどう描き加えるか楽しみな絵」をイーゼルの前にたくさん立てかけて

     おくことは今一番重要な行動課題だ。棚にしまうということは「途中」を放棄すること

     にもつながりかねない。これは大変危険なことだ。一刻も早く!

      そして大き目の絵。見ていたいし場所はとるし。描きかけの絵をどのように室内に

     配置するか、これが今後の創作の方向性を左右するのです。

     


「線」について

2013-02-18 | 創作日記

2007 7.15

      そのようなわけで、「線」があらわれたのだった。

     「痛みをとおりすぎると プリミティブになるんですよ」

      今日はどんな1日だったか?

     夕方の18:00時過ぎにバーミリオンが外に見える日だった。

     日本中は大嵐の日。台風がいつ上陸するかそれるかひやひやする1日。

      あの花。マリのようにボール型にポコポコ咲くゼラニウム?

     どうしてだか今日は夕暮れに映えて赤が際立つ日だった。決してよい天気ではない。

     雨も小降りに降っていた時間帯もあった。快晴に天然の赤は映えるだろうか?

     日光負けするだろうか?一関のアジサイを見に行くとすれば今日だったのに・・・。

      いちばん最初の勢いの線が勝ったのだ。今日の頭に。これからどうしようか

     思い出そうかどうのこうの の前に、もうすでに在るものとしての曲線が勝利したのだ。

     いつかこうなるとは思ってはいたものだが。西の天気は大荒れなそう。私は今日、

     いきなり銀色とみず色のカラースプレーをつかんだ。1~2年ぶりだった。どうして?

     あの吹き散る霧のにおいに耐えられないくせに、勢いだけだったのだ全く!

      混ぜるということはない。混ざるのだ。

      確かにつよく軽快な線は在る。

      いちばん底に脈々とリズムをはぐくむ。ヘビの曲線に見入ったばかりだった。

     夢では栗の木の上にオレンジ色のニシキヘビが(顔はサルっぽい)うねうねと

     その幹にもたれこちらを見ていた。そのとき曲線がわたしのものになった。

     筆も耐(絶)えた。今日は。偶然だ

     


滝の下で踊る

2013-02-05 | 作品とコメント

 

F100号「タキノシタデ オドル」

          昨年の10~11月にかけて作成。その1~2ヶ月前に行った玄武洞の

          ひじょうに入り組んだ造形はきっと、わたしの中につねに流動的な起伏の 

          記憶を残した。

F100「カオのない肉」

          なので、ちょっとずつ線があらわれてくるのだ。

 

 

          ああまた、香りのつよい風景としての抽象画(岡田謙三さん)を見に行きたい。