気象予報士合格!その後・・・

第24回気象予報士試験に合格したヒコーキ雲がその後どうなったのかを報告します。

№15 神はサイコロを振らない

2006年01月29日 11時07分23秒 | Weblog
今日は第25回気象予報士試験ですね。
全国各地で5000人以上の受験生が頑張っている頃でしょうが、
諦めずに挑め続けばいつかは合格できると思います。
かく言うヒコーキ雲は5回も受験しました(№4ブログ参照)。
受験生の皆様の健闘をお祈り申し上げます。
                      
さて、ブックマークしているmetloveさんのブログで話題になった
「神はサイコロを振らない」というドラマ(水曜日22時~)ですが、
空が舞台でもあり第1話(1/18)と第2話(1/25)を見てみました。

あらすじや登場人物の紹介は割愛しますが、航空関係者としては、
主人公ヤスコ(小林聡美)がGH(グランドホステス)姿で
関西国際空港のロビーやカウンターを闊歩するシーンや、
東洋航空402便がタイムスリップする瞬間が印象的です。

少しマニアックになりますが、
東洋航空402便はカナダ製のボンバルディア式DHC-8-201型で、
長崎空港が登場したので長崎を拠点とするコミューター航空会社の
オリエンタルエアブリッジ社(旧長崎航空)の協力だと思います。

タイムスリップの瞬間は402便が巨大な積乱雲に突入するのですが、
その直前にコパイ(副操縦士)のテツ(山本太郎)=ヤスコの恋人が
気象レーダーで積乱雲のエコーを発見したり(もう少し前に分かりそう)、
最新鋭の400人乗り大型旅客機でも危険な積乱雲に、
わずか40人乗りの小さなプロペラ機が意を決して突入したりと、
気象予報士としてもツッこみたくなる素人っぽい面白さがありました。
昔「ナースのお仕事」というコミカルなドラマがあって、
一緒にテレビを見ていた現役ナースが「こんなんありえへん!」
とテレビに向かってツッこんでいたのと同じですね。(笑)

話がそれてしまいましたが、
このドラマは1996年に失踪した402便が10年後の2006年に帰還し、
10年間の時空を超えて家族や恋人と再会するという設定。
ドラマでは視聴者にも10年前の自分を振り返ってもらい、
現在の自分を省みてこの10年間どうだったのか?を問いかけています。

10年前のヒコーキ雲は大学を卒業して社会人1年生だった頃。
社会的には阪神淡路大震災(№13~14ブログ参照)や
地下鉄サリン事件などがまだ記憶に新しく、
いま話題のライブドア堀江元社長がその前身である
オン・ザ・エッヂを学生数名で創業した頃ですね。

この10年間、ヒコーキ雲にも色んな出来事がありましたが、
今振り返ると、その日その日をモガきながら積み重ねてきた感じです。
ただ、モガきながらも人生航路でどういう針路を取るべきか
正月や誕生日の節目ごとに色々考えてきた自負はあります。

まだまだ人生の大海原を右往左往している小舟に過ぎませんが、
波間に揉まれつつ10年間いろいろ考えてきた現時点の結論として、
航空や気象の世界が何となく目指す港のような気がしています。

それが最終目的地なのか通過点なのか全く分かりませんが、
航空&気象の分野でバリバリ活躍している10年後の自分を
想像しながら日々の努力を積み重ねていきたいです☆
                            
神はサイコロを振らない・・・今後のドラマ展開が楽しみですね!

№14 阪神淡路大震災の記憶-後編-

2006年01月22日 11時43分31秒 | Weblog
(前回からのつづき・・・)

原付バイクで大学を目指したヒコーキ雲ですが、
幹線道路は避難車両や緊急車両が溢れてパンク状態でした。
特に信号機の消えた大きな交差点では
4方向から直進右左折する車が入り乱れて収拾がつかない状況。
道路はヒビ割れたり陥没したり、崩れた家屋が道を塞いだり、
歩いて避難する人も多くまともに走れる状態ではありませんでした。

それでも小回りの利く原付バイクを何とか操り、
普段なら20分程度で着く大学に2時間以上かけて到着しました。
真っ先に向かったのは大学の学生寮。
ヒコーキ雲が入学以来4年間を過ごした場所でした。
震災当時ヒコーキ雲は大学院1年生(いわゆるM1)で、
大学院生は学生寮を出る決まりになっていました。
そこで仕方なく別の場所にアパートを借りていたのです。

学生寮は多少ヒビが入っていましたが何とか健在。
去年までヒコーキ雲が住んでいた部屋に駆け上がると
かつて同居していた後輩2人も無事で互いに喜び合いました。
ただ情報不足は学生寮も同じようでとても混乱していました。
逆にアパートから大学まで原付バイクで走ってきた
ヒコーキ雲の方が外の情報に詳しく皆が聞きに来る有様。

学生寮には周辺の住民も集まり避難所と化していました。
話を聞くと小中学校は避難住民で溢れて行く場所が無いとのこと。
当時の学生寮は約600人が入居していましたが、
更に数百人以上の避難住民が押し寄せたためトイレ問題が一気に顕在化。
水が出ないので学生寮のトイレはあっという間に全て詰まってしまい
見るだけで吐き気を催すとんでもない状況を呈してしまいました。
それでも生理現象やむなく次々に積み重なる排泄物の山、山、山・・・
                              
学生寮の連中や避難住民から色々話を聞くにつれ、
少なくとも神戸市の中央区、灘区、東灘区は同じような状態で、
特に東灘区は建物倒壊が著しいことが分かってきました。
上空には報道ヘリが何機も飛び交っていましたが、
ライフラインが寸断された被災地ではテレビを見ることが出来ず、
すっかり情報が寸断された「陸の孤島」になっていました。

やがて夜となり電気もつかないので真っ暗に。
学生寮で懐中電灯を燈しながら皆が寄り添い余震に怯えていました。
余震は結構多く、地鳴りがして揺れるパターンの繰り返し。
冷蔵庫の残り物を皆で分け合って励まし合い、
大きな余震が来たらすぐに逃げ出せるよう、
靴を履いたまま空きベットに疲れた体を横たえていました。
結局その夜はほとんど眠ることができませんでした。

ようやく長い長い夜が明け、奇跡的に新聞が学生寮に届きました。
皆が競って奪い合うように新聞を次々と手に取り、
極太文字で一面に書かれた「関西大震災」という見出しに驚愕!!
(当初は関東大震災に因んで関西大震災と報道されていました。)
阪神大震災の象徴となった阪神高速道路の倒壊をはじめ、
脱線した電車や崩壊した駅、横倒しになったビル、燃え盛る長田区の炎・・・
この時の新聞朝刊で初めて震災の全容を知りました。

朝8時頃だったと思います。
パトカーや救急車、消防車のサイレンは一晩中鳴り止まなかったのですが、
ひときわ騒々しくなり何かタダ事ならぬ雰囲気に包まれました。
避難住民も含めて全員が学生寮のグランドに緊急招集され、
寮長から「神戸市長の避難勧告が出た」との説明がありました。
臨海工業地帯の巨大ガスタンクがガス漏れを起こしており
引火してドカンとなったら全員あの世行きや!とのこと。

その場は騒然となり学生寮も大学も完全閉鎖。
故郷のある者は帰省するよう強制送還の命を受けました。
後の報道によるとこの時の避難勧告は7万人以上にも上り、
震災後の混乱もあって空前の避難騒ぎになったみたいです。

阪神電車が梅田~甲子園間で運転を再開したとの知らせを受け、
ヒコーキ雲をはじめ多くの人が国道43号沿いを甲子園に向かいました。
国道43号の真上を走る阪神高速道路の倒壊現場も歩きましたが、
至近距離から実際に見ると想像を絶する光景でした。

沿道家屋の大半が倒壊しており、
神戸市だけでなく隣の芦屋市から西宮市にかけても
沿道家屋の倒壊は延々と続いていました。
一体この景色はどこまで続くんだろうという凄惨な光景です。
休憩を挟みながら4時間程歩いてようやく阪神甲子園駅に到着。
駅前広場は多くの避難者でごった返していました。

ノロノロ走る超満員の阪神電車に揺られ梅田駅に到着。
よろめきながら電車を降りると大阪の街はいつも通りの賑わいで、
つい1時間ほど前まで地獄絵図を見てきたヒコーキ雲には別世界でした。
真っ先に飛び込んだ立食いうどんの味が骨身に沁みて今でも忘れられません。
同日夜に大阪南港から夜行フェリーに乗り、1月19日の朝に愛媛の実家に到着。
ここにようやくヒコーキ雲の脱出劇に終止符が打たれたのです。
                              
神戸に戻ったのはライフラインが多少復旧した1ヵ月後でした。
大学は遺体安置所となり変わり果てた無数の遺体で埋め尽くされていました。
そして何より悲しかったのが同じ研究室で頑張ってきた女子学生の訃報。
彼女の住んでいた古い木造アパートが全壊して圧死したそうです。
そのアパートは同じ大学の学生が多く住んでいて他に数名が犠牲になりました。

遠い故郷から彼女のご両親とお兄さんが花を手向けに来られましたが、
まだ瓦礫に埋もれたアパートの倒壊現場で家族全員が泣き崩れ、
お母さんはいつまでも、いつまでも、その場を離れようとしませんでした。
同行したヒコーキ雲も、ただただ黙祷を捧げるしかありませんでした。

彼女は明るく前向きで、研究室で手料理も振舞ってくれた優しい女の子・・・
「何でやねん!!」本当に残念で悔しくて仕方ありません。
今でも当時の情景を思い出すと目頭が熱くなります。
震災の2週間程前に彼女から届いた年賀状は今も大切にしまっています。

あれから11年・・・
神戸の街は震災前の人口を上回り確かに街並みは復興した感があります。
しかし今なお心にトラウマを抱いて生きている人が多いのも事実です。
一番難しいのは心のは復興。これにはまだまだ時間がかかると思いますが、
世の中の人々があの日の出来事を忘れないこと!これが一番の励みになります。

1月17日を迎えてヒコーキ雲も前編・後編と体験談を記事にしましたが、
少しでも何かを感じ取って頂ければ微力ながら嬉しく思います。
最後に亡くなられた6434名のご冥福を深くお祈り申し上げます。

№13 阪神淡路大震災の記憶-前編-

2006年01月15日 12時02分18秒 | Weblog
今年もまた1月17日がやってきます。
光陰矢の如しで神淡路大震災からまもなく11年。
地元関西でさえ10年目の昨年で一つの区切りが付いた感がありますが、
直接の被災者にとっては世間の記憶の風化が一番気がかりです。
かく言うヒコーキ雲もその1人で、
当時は神戸のアパートで学生生活を送っていました。
                        
震災2日前の1995年1月15日の日曜日、
ヒコーキ雲は国立競技場のスタンドに立っていました。
第32回日本ラグビー選手権の神戸製鋼VS大東文化大学。
当時の神戸製鋼は平尾、大八木らを擁して無敵の強さを誇り、
伝説の新日鉄釜石に並ぶV7の達成なるか注目を集めていました。
その試合を一目見たくて3連休を利用して東京まで足を運んだのです。

試合結果は予想を上回る102対14の大差で大東大を圧倒!
スタンドでV7の偉業達成を見届けて意気揚々と神戸に帰りました。
翌16日の月曜日は15日(当時は1/15が成人の日)の振替休日でお休み。
神戸の街に出かけると神戸製鋼V7の大フィーバーで賑わっていました。
その翌朝、歴史に残る大震災が神戸を襲うとは誰も知る由もなく・・・。

そして連休明けの1月17日火曜日午前5時46分、阪神淡路大震災発生。
その瞬間、ヒコーキ雲はまだ寝ていて半分夢を見ている感じでした。
寝ぼけた頭のため揺れが収まっても状況が飲み込めず、
しばらく布団でボ~ッとしていましたが程なくまた激しい揺れが襲い、
隣室の女の子が「もうイヤやぁー」と泣き叫ぶ声で完全に目が覚めました。
その時の叫び声は11年経った今でも脳裏に焼き付いています。

起きようとすると体が重く、布団の上に食器棚が倒れていました。
布団がクッションになったみたいでケガもなく、
食器が割れてガラスが散乱するような状況で無かったのが幸いでした。
ただ、冷蔵庫が倒れて前夜に作り置きしていた味噌汁が床に流れ出し、
6畳間の隅角に置いていた14型TVが対角線上の隅角に転がっていました。
よく見るとアンテナケーブルや電源コードが引きちぎれていました。

電気もガスも水道も使えず、何となくこれはタダの地震ではないと直感。
ラジオも持って無く地震情報が全く分からなかったのですが、
幸い電話は生きていましたので朝6時前に愛媛の実家に電話して
「タダの地震ではない!NHKニュースを見てくれ!!」と叫びました。
電話に出た父によると愛媛でも相当揺れたとのこと。
NHKも地震発生のニュースを伝えていたようですが、
朝6時の時点ではお年寄りがコケてケガをした程度の情報。
何がどうなっているのかサッパリ分かりませんでした。

実家への電話はそれが最初の最後で、
回線がパンクしたのかその後は全く電話がつながりませんでした。
ヒコーキ雲はもちろん当時は携帯電話もそれほど普及しておらず、
あの時の電話が無かったら相当心配しただろうと両親は後日回想してました。

当時住んでいたアパートは5階建てで鉄骨造りだったのが幸いし、
2階のヒコーキ雲の部屋も壁にヒビが入った程度で済みました。
木造の古いアパートだったら倒壊してあの世行きだったかもしれません。
後で分かったのですがヒコーキ雲が住んでいた地域は震度7。
実際アパートは相当のダメージを受けていたみたいで、
神戸市による後の建物診断で危険と判定され立入禁止の札が貼られました。

とにかく情報が欲しい!その一心でアパートの屋上に上がりました。
アパートの屋上からは神戸の街が一望できたのですが、
火事の煙が市街地のあちこちで立ち上っており思わず息を呑みました。
次の瞬間、200mぐらい先の民家から爆発音が響き火柱が!
周辺は古い家屋が密集しており「こっちに延焼する・・・ヤバイ!」と
すぐさま部屋に戻ってアタフタと非難の準備を始めました。
(結果的にアパートは風上側にあったため延焼は免れたのですが・・・。)
                              
必要最小限の荷物をまとめてアパートの1階に出ると、
同じアパートの住人や近所の人が集まり情報交換をしていました。
200m先の火災も消防車も来ないし、水も出ないので全くお手上げ。
ただ火柱の上がった家の家族は無事だと聞いたのが心の救いでした。
ヒコーキ雲もその輪に入り色々話をしたり聞いたりしました。
都会の1人暮らしだったので普段の近所付き合いは挨拶程度で
アパートの住人や近所の人と深く話をするのはその時が初めてでした。

更なる情報を求めてヒコーキ雲は近くの小学校に向かいました。
倒壊したり横滑りしている家が散在して見慣れた景色が一変。
鉄筋コンクリートのマンションでさえ損壊していました。
他の場所はどうなっているのだろうか?
研究室のみんなや先生は大丈夫だろか?などと案じながら
ヒコーキ雲はただ呆然と廃墟の街を歩き続けました。

小学校に着くと地元の多くの人が集まっていましたが、
よそ者のヒコーキ雲には知らない顔ばかり・・・。
人だかりが出来ていた一角に近寄ると皆がラジオに聞き入っていました。
しかし震度情報を繰り返すばかりで神戸の街がどうなっているのか、
他の場所はどうなのか具体的な被害情報は全く伝わってきません。

人だかりの輪が大きくなり色んな噂が飛び交いました。
「三宮で略奪暴動が起きていて群集がこっちに向かっている」
「王子動物園からライオンやゾウが逃げて暴れている」
「どうも大阪は壊滅したみたいや・・・」
ヒコーキ雲が震災当時住んでいたのは神戸市中央区。
神戸の中心三宮からJR1駅、阪急2駅、阪神2駅のところ。
王子動物園も徒歩10分とかからない場所にありました。
どの噂もとてもリアリティがあり周囲は騒然となりました。
(結局どの噂もデマだったのですが・・・)

小学校には数時間いましたが
知らない人ばかりの集団にいても心が落ち着かず、
とりあえず大学に行ってみることにしました。
大学なら仲間がいるだろうし詳しい情報が得られるだろうと考えました。
ヒコーキ雲は一旦アパートに戻り、冷蔵庫の残り物で腹ごしらえをして
運よくガソリンが満タンだった原付きバイクで大学を目指しました。

凄惨で悲しい現実が待っているとは知らずに…(つづく)

№12 明けましておめでとうございます☆

2006年01月08日 10時15分51秒 | Weblog
明けましておめでとうございます。
年末年始のお休みも終わってみればあっと言う間でしたが、
ヒコーキ雲もリフレッシュして2006年最初のブログです☆
                          
休み中は特に何の計画も立てず行き当たりばったり。
いま映画で「男たちの大和」が上映されていますが、
そのロケ地に戦艦大和の実物大模型が鎮座していると聞き、
瀬戸内しまなみ海道を渡って広島県の尾道市に向かいました。
ところが地元の人に道を尋ねたら年末年始はお休みとのこと。

次の日は思い付きで地元愛媛の「とべ動物園」に出陣。
ところがゲート前で「本日休業」の看板を見てがっくり。
アイフルCMのアイドル犬くぅ~ちゃんじゃありませんが、
お出かけも計画的に行動しないとロスが多いですね。
というわけで今回の年末年始も温泉三昧と相成りました(笑)。

12月30日から1月3日まで愛媛県の実家で過ごしましたが、
瀬戸内海の温暖な気候も幸いしてか暖かい毎日でした。
一方、テレビでは日本海側の大雪のニュースが続いており、
NHK午後7時28分の恋人、半井小絵キャスターの
解説にもまじめに?耳を傾けたりしていました。
休み中は仕事や気象のことを忘れるつもりでしたが、
やっぱり気象予報士としての血が騒いでしまいますね。
                           
その気象予報士としての新年の抱負ですが、
4月から日本気象予報士会にも入会して(№10ブログ参照)
活動をボチボチ本格化していきたいと思っています。
具体的にはまだイメージできていませんが、
 ① 気象予報士としてのスキルアップ
 ② 航空気象に関する専門性の深化
 ③ 気象ビジネスへの新規参入
の3本柱を念頭に置きながら手探りの模索を続けるつもりです。

本年もよろしくお願いいたします。