2013年7月2日:現在、歩いて麓から富士山へ登れる唯一の登山道であり歴史の道100選にも選定されている「吉田口登山道」を歩いて五合目まで登って見た。富士山頂へは2度登っているがいずれも五合目から登ったもので、一度麓から登って見たいとかねてより思っていたので今回念願がかなった。但し今回は五合目で引き返す往復登山とした。
数回にわたって詳細にレポートするが、第1回は登山の起点である麓の富士吉田市にある「北口本宮富士浅間神社」に登山の安全を祈念して登山門をくぐってスタートしバス停中ノ茶屋入口までとする。とにかく「馬返」までは車でも行ける舗装路歩きで登山と言えるものではないが我慢しよう。
五合目までは休憩入れて5時間強ほどであったが、とにかく馬返までの舗装歩きはちょっと嫌になる。
=今回の歩行程=
北口本宮富士浅間神社:6時30分ー大塚丘6時35分(6時37分発)-富士山遭難碑6時39分(6時41分発)-東富士五湖道路6時59分ー雪中山篭記念碑7時8分ー泉瑞入口7時9分(泉瑞7時17分ー本道戻り7時29分)-スバルライン分岐・バス停中ノ茶屋入口7時35分


五合目までの経路地図

今回は神社から大塚丘、富士山遭難日そして泉瑞に立ち寄ってスバルライン分岐のバス停中ノ茶屋入口まで。

先日のお山開きの祈年祭が行われた茅の輪くぐり等の飾り付けが残る「北口本宮富士浅間神社」に登山の安全を願ってまず参拝。

本殿西脇にある登山門(富士山の扁額がかかった鳥居)をくぐって、いざ!出発!なおお山開きの時にはこの門にしめ縄が張られ、木槌で断ち切るという神事が行われたそうだ。石段の右手には「富士北口登山本道」と刻まれた石柱がある。

登山門・鳥居をくぐって5分ほど行くと左手に「大塚丘」を見る。ここは日本武尊東征のおり、この丘に登り富士の霊峰を遙拝したところで、里人が丘上に社殿を建て浅間大神を祀り、日本武尊を合祀した。その後延暦7年(788)甲斐守紀豊が丘の北東に社殿を創立し浅間大神を遷座させたのが今の北口本宮富士浅間神社の始めらしい。

丘の上にお社が鎮座。なお、この道路右手には遊歩道入口の看板がある。舗装路には歩道がないので安全を見てこの遊歩道を利用してもよい。遊歩道は未舗装で馬返まで舗装路に並行して走っている。

ここで一服。明治末期の登山風景、中ノ茶屋付近であろうか?

さらに2分ほど先の左手に「富士山慰霊碑」が立っている。

この付近、赤松が林立し見事である。これは寛政年間(1624-1643)に当時の城主が信州からアカマツ3万本を取り寄せ植林したもので、富士山の積雪が融解して発生する土石流を防ぐためであったという。道は芝生がきれいに植えられた「諏訪の森自然公園」を左手に見て進む。やがて東富士五湖道路をくぐる。

今度は右手に雪中山篭記念碑という石碑を見る。富士講の人が雪山の富士に登った記念碑らしい。

その反対側に未舗装路が林の中に伸びている。これは「泉瑞」への入口である。寄り道をしていこう。泉瑞とは源頼朝が浅間明神祈願の際、鞭で傍の石を穿つとそこから泉が湧いたという逸話がある湧水(今は枯れている)で江戸時代には富士八海のひとつであったという。

今は地元の人にきれいに整備され、小さな祠が立っている。

周辺には石碑が数個見られ「泉瑞」の石柱も立っている。


赤い鳥居が数基立つ、泉瑞入口。

鳥居の先に祠。

元の本道に戻り、先を急ぐ。やがてスバルラインへの分岐に出る。自動車の殆どはここを右折してスバルラインへと向かう。

登山道は直進して行く。この交差点には「中ノ茶屋入口」というバス停があるが、入口とはいえども中ノ茶屋までは、もう少し歩かねばならない。写真は来た道を振り返っている。
今回はここまでで、次回この先をレポートする。
数回にわたって詳細にレポートするが、第1回は登山の起点である麓の富士吉田市にある「北口本宮富士浅間神社」に登山の安全を祈念して登山門をくぐってスタートしバス停中ノ茶屋入口までとする。とにかく「馬返」までは車でも行ける舗装路歩きで登山と言えるものではないが我慢しよう。
五合目までは休憩入れて5時間強ほどであったが、とにかく馬返までの舗装歩きはちょっと嫌になる。
=今回の歩行程=
北口本宮富士浅間神社:6時30分ー大塚丘6時35分(6時37分発)-富士山遭難碑6時39分(6時41分発)-東富士五湖道路6時59分ー雪中山篭記念碑7時8分ー泉瑞入口7時9分(泉瑞7時17分ー本道戻り7時29分)-スバルライン分岐・バス停中ノ茶屋入口7時35分


五合目までの経路地図

今回は神社から大塚丘、富士山遭難日そして泉瑞に立ち寄ってスバルライン分岐のバス停中ノ茶屋入口まで。

先日のお山開きの祈年祭が行われた茅の輪くぐり等の飾り付けが残る「北口本宮富士浅間神社」に登山の安全を願ってまず参拝。

本殿西脇にある登山門(富士山の扁額がかかった鳥居)をくぐって、いざ!出発!なおお山開きの時にはこの門にしめ縄が張られ、木槌で断ち切るという神事が行われたそうだ。石段の右手には「富士北口登山本道」と刻まれた石柱がある。

登山門・鳥居をくぐって5分ほど行くと左手に「大塚丘」を見る。ここは日本武尊東征のおり、この丘に登り富士の霊峰を遙拝したところで、里人が丘上に社殿を建て浅間大神を祀り、日本武尊を合祀した。その後延暦7年(788)甲斐守紀豊が丘の北東に社殿を創立し浅間大神を遷座させたのが今の北口本宮富士浅間神社の始めらしい。

丘の上にお社が鎮座。なお、この道路右手には遊歩道入口の看板がある。舗装路には歩道がないので安全を見てこの遊歩道を利用してもよい。遊歩道は未舗装で馬返まで舗装路に並行して走っている。

ここで一服。明治末期の登山風景、中ノ茶屋付近であろうか?

さらに2分ほど先の左手に「富士山慰霊碑」が立っている。

この付近、赤松が林立し見事である。これは寛政年間(1624-1643)に当時の城主が信州からアカマツ3万本を取り寄せ植林したもので、富士山の積雪が融解して発生する土石流を防ぐためであったという。道は芝生がきれいに植えられた「諏訪の森自然公園」を左手に見て進む。やがて東富士五湖道路をくぐる。

今度は右手に雪中山篭記念碑という石碑を見る。富士講の人が雪山の富士に登った記念碑らしい。

その反対側に未舗装路が林の中に伸びている。これは「泉瑞」への入口である。寄り道をしていこう。泉瑞とは源頼朝が浅間明神祈願の際、鞭で傍の石を穿つとそこから泉が湧いたという逸話がある湧水(今は枯れている)で江戸時代には富士八海のひとつであったという。

今は地元の人にきれいに整備され、小さな祠が立っている。

周辺には石碑が数個見られ「泉瑞」の石柱も立っている。


赤い鳥居が数基立つ、泉瑞入口。

鳥居の先に祠。

元の本道に戻り、先を急ぐ。やがてスバルラインへの分岐に出る。自動車の殆どはここを右折してスバルラインへと向かう。

登山道は直進して行く。この交差点には「中ノ茶屋入口」というバス停があるが、入口とはいえども中ノ茶屋までは、もう少し歩かねばならない。写真は来た道を振り返っている。
今回はここまでで、次回この先をレポートする。