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光の世界へようこそ❣️

悪魔の統治してきた世界から真の自由解放へ歴史の狭間で
目覚めと霊性の向上、そして光の中へ

さくら紀行 再掲(3) 平成5年とうとう義烏の地に、、そして30年果たして、、。

2022-04-04 16:42:00 | さくら紀行

        さくら紀行 (9ー23)  記念すべき日、義烏の地にさくらを。

16日朝、桜植樹団一行は、
人民政府の先導車の後について陳先生のお母さんの故郷、
現在の大陳鎮(鎮は街の意味)へ向かった。
大陳町の町長に案内されて日中友好桜梅公園となる丘陵地を歩いて視察した。
狭い坂道を草を踏みながら登って行くと、
果樹園が右側に続いている。桃の木の一種だ。
立ち止まると、谷を挟んで左側に丘陵が広がっていた。
桜公園の青写真では、この谷に吊り橋がかけられている。
ここが二つの国の架け橋となる桃源郷、、、、いつの日か桜に包まれる丘、、、
歩きながら夢の中へ降りていく私の足元で、大陳の草が音を響かせてくれる。
大地の歌を、、、、。

汗を拭いながら丘を上ると大きな門構えのお寺に突き当たった。
お寺の門前には中国伝統の石像が立ち、中には極彩色の仏像があった。
鎮龍廟という大陳のお寺である。
私たちはお寺にお参りし、気持ちばかりの寄付を捧げて桜公園への夢を託した。
いつ集まってきたのか私たちの周りを、
街の人々や子供たちが笑顔で取り囲んで迎えてくれていた。
どこの国でも子供は好奇心の塊だ。
畠山さんの千羽鶴を御仏の上につるすと、ゾロゾロとちびっ子達が集まってきた。
目をクリクリさせて。
「この千羽鶴にお願いするとお願いしたことが叶うんですよ」と、
私たちは言いながらクリクリ目玉達の前で鶴を折った。
それが飛ぶように子供たちの手に渡り、
孫を抱いたおじいさんも来て、半分折りかけの鶴をにっこり持っていった。
ほんの少しの時間、こうして鶴の折り紙教室が御仏の前で開かれたのであった。
お寺の石段に腰を下ろして一緒に写真を撮ろうと呼びかける、
とみんな集まって仲良くカメラに収まった。

坂道を下って街の路地に入るとおばあさんが立っていた。
「ニーハオ」と声をかけると、
おばあさんは顔をくしゃくしゃにして笑いながら
私の手を両手できつくきつく握ってくれた。
この街は繊維工業が盛んで縫製工場が多く、人々の生活は豊かである。
私たち一行は大陳町で一番大きい縫製工場を見学した。
この工場は学校経営で、中学校の職業実習も行っている珍しい工場であった。
中国では政府の福祉資金が少ないので、
ここで得たお金は教師が福祉や学校改善、ボーナスに使うと言う。
1日の生産は7000着、従業員は300人、給料が良く
(一ヵ月440元以上、日本円で約8000円、ちなみに1人1ヵ月の生活費は6000円である)
若い女性はここへ勤めたがるが、腕の良いものしか入れないそうである。
素朴で優しい副町長さんに見送られて、大陳を後に再び義烏へ。

義烏市内にも戻ると、
私たちは桜の苗木を植えるためワクワクしながら公園へと急いだ。
広い公園の一角では耕された地が桜の到着を首を長くして待っていた。
日本からとうとう義烏の大地にやってきた桜の三年若木達、
みずみずしく背丈を切り揃えられた苗木達、
そこから新芽の出る日を祈って、平和を祈って、
私たちと義烏の人たちは苗木を植えた。
ソメイヨシノ、カンヒザクラ、、、、
東京小森氏はじめ中国に来られなかった有志の方々の桜の苗木に、
一つ一つ丁寧に名札を結んで感謝しながら苗木を抱いて、
それぞれの方々の思いをさくらに伝えた。
植え終わると大地に根付くように、
山口県の村田さんから託されたピンクの紙吹雪をみんなで一握りずつ持って、
一斉に桜の苗木の上に降らせ続けた。
桜吹雪の中でいつのひか再会できるように、、、、、
「桜の若木を大陳の丘陵に移して、大きくなり花をつけたら、
その下でまた酒宴を持ちましょう」
桜に心を託して、その後、前川先生の思い出の地、田辺部隊駐屯地後を訪ね、
見送りの方々との別れを惜しみながら私たち一行は車中の人となり、
義烏を後にした。
それにしても前川先生の記憶は鮮明すぎるほど鮮明であった。
街の中の大きな池のような湖とその側に聳える高い塔、
その横を入ったところがその場所であった。
駐屯地跡には住宅が建ち、広場では放し飼いの茶色い鶏が一羽餌をつついていた。
思い出の場所に絶たれ、胸に去来したものは何であったろう。
私等の知る由もない深淵に渦巻く押さえ方感情であったろうか、、、。

今私は、旅の終わりに黄山で詠まれた漢詩に
ほっと、心を、和ませている。


            (季刊 ふるさと紀行 平成5年冬の特別寄稿)

              2021 5/12


さくら紀行 日中友好さくら植樹 再掲編(2) 目的地義烏市に到着、歓迎を受ける。

2022-04-03 11:58:00 | さくら紀行
さくら紀行  (22)

駅に降り立つと、人民政府の方々が出迎えてくださった。
私が荷物を持とうとすると「私が、私が」と、言ってずっと荷物を
二日間持ってくださった大学2年生の可愛い黄さん、ありがとう。
通訳の王氏(金華市政府外事辨公室副主任)の流暢な日本語の案内で、
私たち一行は出迎えの車で、宿舎のホテルに着き、
荷物をおくとそのまま有名な義烏商品市場を見学に出かけた。
大きなデパートを思わせる建物の中に、
日本の夜店の屋台位の小さな個人の店がずらりと並んでいる。
現代中国の熱気活力渦巻くエネルギーをそのままの姿に、
圧倒され続けた。
商品市場では衣服類が最もよく売れここに店を持つことが夢だ、と言う人が多い。

店を出すには1万元から5万元(100万円)の費用を積み立てなければならない。
土地は国有で一部個人が補い、建物は神兵平局に属し国営である。
商品市場の朝は早く6時半に開店夕方6時に閉店する。
小さな店には様々な品が安価で並ぶ。
ついに、私はアクセサリーの前で立ち止まってしまった。
ピアスの品定めに夢中になり右手に付けていたブレスレットを落としてしまった。
それはとても良いブレスレットだったからもう青くなって、
「ブレスレット落としたのどうしよう」と、声に出していた。
すると案内してくださった人たち、傍にいた人、店の人みんな総出で
商品をかき分けたり屋台の人に潜り込んだり、
ワイワイ言いながらブレススレッドを探し始め、それがしばらく続き、
私はとんでもないことをしてしまったことに気づく。
(桜の木を植えに来たのにアクセサリーの店を覗いたばっかり
にこの始末だ、あーごめんなさいね)
「ご親切に探して下さってありがとうございました。でももういいんです」
義烏の人たちは素朴で親切だ。表情もみんな生き生きしている。
よく笑い感情表現豊かな人たち、ここには無表情に取り繕う人たちはいない。
無性に自分の行為が恥ずかしかった。
「出てきた届けます」店の人たちは通訳を通して言った。

ホテルに戻り会議室に通されると、
そこには義烏副市長 張先生の笑顔があった。
張副市長の歓迎の挨拶に、
松田団長が民間の友好と平和のために挨拶を交わし、拍手に包まれた。
今回、前川元軍医が50年ぶりに義烏の地を踏まれたことに
みんな感動の面持ちだった。
「元軍医さんはどなたも前面に出たがらないので、
今回は3人の軍医さんの中で前川元軍医さんを引っ張って連れてきました」
編集長のユーモアあふれるスピーチに、40代半ばの若い副市長が手を叩かれる。
副市長は半袖シャツに半ズボンサンダルと言うラフなスタイルで
私たちをリラックスさせて、終始少年のように瞳を輝かせニコニコと、
日中友好に触れられた。
前川先生は再び義烏を訪れることができた感謝を述べ
田辺部隊の軍医は私一人じゃなくて他に2名、
体調が悪くて来られず代表で私が来た次第です。
陳先生のお母さんを助けたのはこの2人によるところが大きいのです」
と続けられた。

そして日中両国ここに集まった人たちの自己紹介、スピーチへと移り、
最後に畑山さんが杉本さんの、絵入りの一巻さくらの自作詞、
「さくらの四季」を朗読。
それを石さんが中国語で読み、献詩し一つの明るいセレモニーは幕を閉じた。

正午、ホテルのレストランで昼食パーティーに招待された私たちは、
そこですっかり打ち解けて、旧知の友の再会であるような錯覚に陥り、
大騒ぎの楽しい酒宴が始まった。
ここには酒と、友と、と旅を愛した中国の古い伝統が生きていた。
真っ赤に顔を上気させた副市長さんが「乾杯」と大声で立つと、
松田団長が杯を手に「乾杯」と横に並んで一気飲み、大拍手。
これに刺激されてお酒を飲まない編集長が「乾杯」と中国酒で受けて立つ。
(編集長は密かに不老長寿の薬を聞き出そうとしていた)
前川先生も乾杯の繰り返しであるが、
一気飲みした後の杯をみんなに見せて回る仕草が頭に入っていて、
さすがであった。

夜になると義烏の街はキラキラと活気づく。
人々の渦が夜店の屋台をとりまき、どっとなだれ込む。
果物、野菜、肉を焼く匂い、衣類や遊具の叩き売り。
どこから来るのか呆れるほどの人の波。
人も自転車も車も同じところを互いに避けながら走っている。
交通ルールなんてあったものではない。
信号がほとんどと言っていいほどないのだから。
それなのに事故が起きないと言う事は、
みんな自分の身を守るため注意しているのだ。
ここには野うさぎの自由さがある。

50年前は田舎だったのに、と前川先生。
現在人口63万人、義烏はめざましく発展した。
雑踏の中を私たちはレストランへと急いだ。
陳先生ご一家のご招待を受けていた。
細い坂道を少し登ったところにレストランはあった。
郷愁をそそるような懐かしい中国の建物。
陳先生に案内されたレストラン階段を上って丸テーブルにつくと、
陳先生のお父さんと陳先生のご長男、
弟さんご夫婦がかわいい4、5歳の女の子を連れて入ってこられた。
みんなが揃うと宴が始まり、
やがてお父さんと前川先生は
握手して肩を抱き合って泣いた。
ここにお母さんの姿があったらと思い、私たちはそっと涙を拭った。

「お父さんは若いですなぁ、
僕は髪が真っ白やのにお父さんは黒々として見える。
お若いですわ」前川先生の羨ましそうな一言にお父さんは照れ笑いをした。
そして、テーブルの後ろにみんなで並び記念写真を撮って別れた。


    2021 5/10

さくら紀行 再掲 (1) 友好さくら植樹再開を願って再掲します。

2022-04-02 23:52:00 | さくら紀行
日中友好さくら植樹、
その経緯はカテゴリでご覧ください。
このブログ再掲は、実現できて中国に渡った、
その時の様子です。

*******
さくら紀行 (21)     義烏ー大陳へ、  柴・文

星霜五十 到浙江
山川不変 人不問
銭南義烏 故旧里
望誘湖塔 熱血涛
(前川・作)

前川氏は、中国安徽省の黄山でこの詩を詠まれた。
桂林と並ぶ山水画の故郷1800メートルの黄山は
雨 に霞んでまさに水墨画の仙境であった。
黄山頂上近くにある黄山西海飯店のロビーで
雨の上がるのを待ち雑談している時
五十年前軍医として義烏に駐屯された日々に現在を重ね、
万感の思いを込めてこの詩を詠まれた。
8月18日 外は雨、頂きからは霧と雨の切れ間に果てしない雲海が望め、
その中に切り立つ岩山が現れては、霧の流れとともにまた消えてゆく。
まるで霧の流れが時の流れと合流するかのように。生々流転ー。

時を遡ればそこに盛唐の詩人李白の姿があらわれる。
美しい女人と同じように野鳥を愛した李白は
高山に住む胡と言う翁が飼っていた一つ飼いの白い鷴(キジ)に目をつけていた。
李白はその鷴が欲しくてたまらない。
するとこの翁は
「あなたの詩を一首いただけたら白鷴を差し上げましょう」
と言った。
喜んだ李白はこの時とばかり紙を書いて送った。


霧の流れに夢幻のイメージを広げて白鷴を追っていると
陳先生のご長男さんが一心にノートに詩を書き始めた。
黄山の詩だ。
その詩は画家杉本さんの黄山の絵の余白に、
の見事な毛筆書体で刻まれた。
その横にまた、前川先生の黄山の二行漢詩が即興で刻まれて、
即興詩人と画家、書家を囲んで、
黄山をめぐる雨の日の心延えの美しいひとときであった。

今回の日中友好さくら植樹訪問団のメンバーは7名、
中国語が話せて中国事情に詳しい松田さんを団長に
編集長、前川元軍医、杉本、畑山、
ボランティアで通訳の大役を引き受けてくれた中国美人の石さん、
そして私である。
8月13日大阪発の中国民航で時差一時間、16時上海着、
冷夏の日本から気温30度湿度の高い上海空港につくと、
6ヶ月以上帰国しなかった留学生の石さんは、
エイズ検査へと連れ去られる。
中国人には厳しいのだ。指先から血を取り検査したそうである。
石さんが戻り出口へ向かうと陳先生がにこやかな笑顔で出迎えてくださった。
「前川先生、陳先生ですよ」と、思わず声をかけると、
前川先生は手を差し出されがっちりと握手、
満面笑顔の陳先生と、静かに強く手をにぎりしめ微笑する前川先生。
母の命を助けられた人と助けた三軍医の一人との、
はじめての出会いの握手。
それはこの日、上海空港で一番素敵な出来事であった。
翌日、列車で景色の美しい杭州市に着く。
西湖を船で周遊し蓮の花に春秋時代の趣の、美女西施の面影を見て、
その日のうちに浙江大学へ招待される。
唐副校長先生はじめ多くの先生方から盛大な歓迎を受け、
一同深い感銘のまま1日を終える。

15日、列車で杭州から義烏に向かう。
義烏が近くにつれて、前川先生の表情が次第に熱を帯びてくる。
「この辺から田辺部隊の守備範囲です」窓外に広がる緑の草や山、
レンガ造りの家々。
この辺から今乗っている列車の遮断壕が埋められたのだ。
戦時中、鉄道沿線の遮断壕撤廃や検問検索の廃止等で、
この家の民衆から慕われた田辺大隊長、その部下であった前川元軍医が
窓外の風景に50年前の記憶を探って心を震わせている。
「誰かが犠牲になった結果の平和です。
「またくるんでしたらもっといろんなところを見ておくんでしたが、
もう二度と来ることもないと思っていましたからね
「そやけどね、戦争が終わったときにはもう日本へ帰れないと思いました。
中国人と結婚するか、どこか好きな所へ行くことになるとか言われましたから。
いつか日本へ帰れたらええと思ってました。
帰してくれないとみんな言ってましたからね。
「東京から、宮殿下がこられて天皇陛下のご命令で粛々と帰ってこないかんと、、、
天皇陛下のご命令が威力がありましたからね。
それで、おとなしく帰ってきたと思っています。
「今日は8月15日、終戦記念日ですが、
私どもは戦争が終わったのかどうか、3日ほどわからなかったですよ。
駐屯地離れましてね、小さな作戦行動で回っていると張り紙がしてあってね、
「中国が勝った」と言うようなこと書いてあったけど
これは宣伝やろうと思ってました。
3日ほど経って帰ってみると、「もう戦争は終わった」と言うようなことでした。
アンカ駅の次が大陳です。大陳には止まらないと思います。
「この辺も湿度が高くて蒸し暑いけれど、中支でも漢口当たりはもっと暑くて、
インド人がインドへ避暑に帰ると言ってましたよ。

ユーモアたっぷりの口調に熱さを忘れ、
思わず私と杉本さんは声を出して笑ってしまった。
冷房なしの列車であった。窓からの風が不思議に心地良かった。
杭州から約3時間列車は午前9時50分に義烏に到着した。

恩讐を超えて(7) 久方ぶりに会津と長州、二本松、三春藩

2022-04-01 00:30:00 | 恩讐を超えて

久しぶりの「恩讐を超えて」
会津と長州、戊辰戦争のこの歴史に関心を持ちはじめて、次の様な流れになっていきました。原発事故、避難支援、日中友好さくら植樹、マチュピチュ村、安達太良山、二本松少年隊、白虎隊、明治維新、三春、一ノ関、伊達藩、毛利元就、三本の矢、福島出身三兄弟力士、白虎隊生き残り飯沼さん、ウクライナ支援、、。
(最初の部分は、日中友好さくら植樹プロジェクト関係ーカテゴリ「さくら紀行」に、述べています)

この流れは、後になってそういう事だったのか、
と、分かったものであり、
当時はその流れの中にいた事には気付いていませんでした。
ご縁とは当事者の知らない中で、
全ては必然で繋がっているのを感じています。

最近になり、知人の繋がりで、ご先祖又当人が会津出身だったと
いう人が何人か現れています。

今、三春の有名な滝桜の開花を前に三春藩について、述べてみたいと思います。
三春藩は戊辰戦争時に、羽越列藩同盟に加盟していました。
戦いの中で新政府軍が錦の御旗を、奉じていることを知ります。

このことから、新政府に逆らう事はできないとして
方向転換します。
この錦の御旗が偽物、という話がありますから、
そうだとすれば新政府軍に騙された、という事になります。
最初から内通していたのでは無く、その流れので、
已むを得ず方向転換したのであり最初から企みを持っていたのではありません。

このことから、三春は犠牲者を出さずに済んでいます。
戦争反対する人の、国のために命を捧げる事はできない、、
といっている事と同じです。脱藩したとしても責める事は出来ません。

列藩同盟は劣勢が明らかになって白旗を掲げたにも関わらず、
新政府軍は執拗に蝦夷まで追い詰めました。
(ここでは新撰組の土方歳三が亡くなっています)
何故、追い詰めて全滅させなければならなかったのか?

明治維新前は、南朝北朝、藩同士の権力争いの中にありました。
江戸時代は泰平、と言われて比較的争いが少なかったのですが、
戦国時代と言われる1500年代以降は、
血生臭い争いがあったのです。

毛利元就は初代の長州藩主ですが、
その孫の輝元は、とんでも無い独裁者、、
正室がいましたが子供はありません。
後継者云々前に、かなりの女好き、人妻を横取り
言うことを聞かない近親者は殺されていきます。

関ヶ原の戦いではリーダー的役割があったにも関わらず、
後方で陣取ってはいたものの、戦いらしい戦いはしておらず、
衰退していったとのことです。

この輝元が無理矢理側室にした姫は、「二の丸様」と言われ
三人の子供をもうけながら、手元で育てる事は叶わず、
薄幸の生涯を閉じました。

明治維新前、会津藩は朝廷の守護職を請われ松平容保は、会津の手薄になる不安を持ちながらも、
朝廷に尽くしていました。

会津、鶴ヶ城は戦国時代の頃から城主が短期で代わっています。
松平容保も会津人では無く、
天領会津はその時の戦果に応じて、代えている様です

朝廷の守護職を引き受けたものの、当時、朝廷を巡って敵味方、
或いは、今日の友は明日の敵、という戦いがくり広げられていました。その容保の周辺の警護に新撰組がついていたのです。

無血開城(と言われている)に至ったのは後に官軍になる、
長州、薩摩、土佐藩の謀略の結果で、徳川家は幕府の座から下ろされ(逃げた)
たため、守護職会津藩は後ろ盾を失います。
列藩同盟も白旗をあげますが
執拗に新政府軍となった
官軍に追われたのです。

長州藩の情け容赦のない戦中の仕打ち、
その中で、敗れた会津藩の藩士の亡骸は、
弔っては行けないと言うお触れ(真実か?)や、
捕えた婦女子を辱め、「Japaaan-踏み躙られた貞操」の記事からも
いつの世も、負けたものは非情な仕打ちに合う、、と言うことがわかります。

白虎隊は飯盛山に集まった時にお城が火の包まれているのを見ます。
落城したと悟った少年たちは、
城に向かって、戦おうと言う決定をしますが、
リーダー格が、戦いは負けた、今行っても敵陣に捉えられる、
捕らえられて辱めを受けるより、最後まで義を尽くすほうを選ぶのが武士たるもの、、と、言います。
議論が交わされたのですが最終的に会津の教えの忠義を選んだのでした。

これらのことも、「炎に囲まれたお城を見て」負けを認め切腹、
と簡単な内容で伝わっています。

これらの事実は白虎隊生き残りの飯沼さんの遺品から判明したそうです。
飯沼さんは生き残りその後、敵だった長州藩の助けを持って再起(そのことは著書に)会津人から恨まれたそうです。
飯沼氏もその両藩の狭間で苦しみもありました。
今でも誤解されている様で、
その関係の講演、話は、会津では受け入れられていません。
先刻は山口の人から「長州藩は小狡い」と言われたがどう思いますか?
と聞かれました。
その手の話は、旧両藩の地でたくさんあります。
だからこその、恩讐を超えて、、和解を、、と。


白虎隊の武士道精神は後に、間違って受け取られるようになり、
第二次世界大戦、特攻隊に利用されてしまいます。

その戦争が始まる前に、ドイツとイタリア
(民間使か公使かはわかりません)から寄贈物が送られています。
三国同盟に関係あるのでしょうか?

一方二本松少年隊は13歳から、初陣ながら実戦しています。
流石の新政府軍もあどけない子供だった事に驚愕しています。
初陣出陣にはそれぞれのドラマがあり、涙を禁じ得ません。

自分のお城、領地を守るため戦い続けそれを正義と信じていた人達は、果たしてあの世で成仏できているのでしょうか?

資料館で見た
「俺たちはどこに行けば良いのか、どこに、、、?」の文字から、
あの世で無念さで霊が彷徨っているのではないかと思い、胸に迫りました。

会津も長州も、敵であった藩士のお墓を建て弔っています。
敵味方関係なくその魂の尊厳を護っている事が救いです。

長州会津の和解が日本のこれからに
大きく影響するのではないかと予感がします。

そうあって欲しい、、
その様な思いで、続けています。

(活動途上故、史実に間違いがあるかもしれません、ご了承ください)

2022  3/31