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光の世界へようこそ❣️

悪魔の統治してきた世界から真の自由解放へ歴史の狭間で
目覚めと霊性の向上、そして光の中へ

さくら紀行 再掲(3) 平成5年とうとう義烏の地に、、そして30年果たして、、。

2022-04-04 16:42:00 | さくら紀行

        さくら紀行 (9ー23)  記念すべき日、義烏の地にさくらを。

16日朝、桜植樹団一行は、
人民政府の先導車の後について陳先生のお母さんの故郷、
現在の大陳鎮(鎮は街の意味)へ向かった。
大陳町の町長に案内されて日中友好桜梅公園となる丘陵地を歩いて視察した。
狭い坂道を草を踏みながら登って行くと、
果樹園が右側に続いている。桃の木の一種だ。
立ち止まると、谷を挟んで左側に丘陵が広がっていた。
桜公園の青写真では、この谷に吊り橋がかけられている。
ここが二つの国の架け橋となる桃源郷、、、、いつの日か桜に包まれる丘、、、
歩きながら夢の中へ降りていく私の足元で、大陳の草が音を響かせてくれる。
大地の歌を、、、、。

汗を拭いながら丘を上ると大きな門構えのお寺に突き当たった。
お寺の門前には中国伝統の石像が立ち、中には極彩色の仏像があった。
鎮龍廟という大陳のお寺である。
私たちはお寺にお参りし、気持ちばかりの寄付を捧げて桜公園への夢を託した。
いつ集まってきたのか私たちの周りを、
街の人々や子供たちが笑顔で取り囲んで迎えてくれていた。
どこの国でも子供は好奇心の塊だ。
畠山さんの千羽鶴を御仏の上につるすと、ゾロゾロとちびっ子達が集まってきた。
目をクリクリさせて。
「この千羽鶴にお願いするとお願いしたことが叶うんですよ」と、
私たちは言いながらクリクリ目玉達の前で鶴を折った。
それが飛ぶように子供たちの手に渡り、
孫を抱いたおじいさんも来て、半分折りかけの鶴をにっこり持っていった。
ほんの少しの時間、こうして鶴の折り紙教室が御仏の前で開かれたのであった。
お寺の石段に腰を下ろして一緒に写真を撮ろうと呼びかける、
とみんな集まって仲良くカメラに収まった。

坂道を下って街の路地に入るとおばあさんが立っていた。
「ニーハオ」と声をかけると、
おばあさんは顔をくしゃくしゃにして笑いながら
私の手を両手できつくきつく握ってくれた。
この街は繊維工業が盛んで縫製工場が多く、人々の生活は豊かである。
私たち一行は大陳町で一番大きい縫製工場を見学した。
この工場は学校経営で、中学校の職業実習も行っている珍しい工場であった。
中国では政府の福祉資金が少ないので、
ここで得たお金は教師が福祉や学校改善、ボーナスに使うと言う。
1日の生産は7000着、従業員は300人、給料が良く
(一ヵ月440元以上、日本円で約8000円、ちなみに1人1ヵ月の生活費は6000円である)
若い女性はここへ勤めたがるが、腕の良いものしか入れないそうである。
素朴で優しい副町長さんに見送られて、大陳を後に再び義烏へ。

義烏市内にも戻ると、
私たちは桜の苗木を植えるためワクワクしながら公園へと急いだ。
広い公園の一角では耕された地が桜の到着を首を長くして待っていた。
日本からとうとう義烏の大地にやってきた桜の三年若木達、
みずみずしく背丈を切り揃えられた苗木達、
そこから新芽の出る日を祈って、平和を祈って、
私たちと義烏の人たちは苗木を植えた。
ソメイヨシノ、カンヒザクラ、、、、
東京小森氏はじめ中国に来られなかった有志の方々の桜の苗木に、
一つ一つ丁寧に名札を結んで感謝しながら苗木を抱いて、
それぞれの方々の思いをさくらに伝えた。
植え終わると大地に根付くように、
山口県の村田さんから託されたピンクの紙吹雪をみんなで一握りずつ持って、
一斉に桜の苗木の上に降らせ続けた。
桜吹雪の中でいつのひか再会できるように、、、、、
「桜の若木を大陳の丘陵に移して、大きくなり花をつけたら、
その下でまた酒宴を持ちましょう」
桜に心を託して、その後、前川先生の思い出の地、田辺部隊駐屯地後を訪ね、
見送りの方々との別れを惜しみながら私たち一行は車中の人となり、
義烏を後にした。
それにしても前川先生の記憶は鮮明すぎるほど鮮明であった。
街の中の大きな池のような湖とその側に聳える高い塔、
その横を入ったところがその場所であった。
駐屯地跡には住宅が建ち、広場では放し飼いの茶色い鶏が一羽餌をつついていた。
思い出の場所に絶たれ、胸に去来したものは何であったろう。
私等の知る由もない深淵に渦巻く押さえ方感情であったろうか、、、。

今私は、旅の終わりに黄山で詠まれた漢詩に
ほっと、心を、和ませている。


            (季刊 ふるさと紀行 平成5年冬の特別寄稿)

              2021 5/12


さくら紀行 日中友好さくら植樹 再掲編(2) 目的地義烏市に到着、歓迎を受ける。

2022-04-03 11:58:00 | さくら紀行
さくら紀行  (22)

駅に降り立つと、人民政府の方々が出迎えてくださった。
私が荷物を持とうとすると「私が、私が」と、言ってずっと荷物を
二日間持ってくださった大学2年生の可愛い黄さん、ありがとう。
通訳の王氏(金華市政府外事辨公室副主任)の流暢な日本語の案内で、
私たち一行は出迎えの車で、宿舎のホテルに着き、
荷物をおくとそのまま有名な義烏商品市場を見学に出かけた。
大きなデパートを思わせる建物の中に、
日本の夜店の屋台位の小さな個人の店がずらりと並んでいる。
現代中国の熱気活力渦巻くエネルギーをそのままの姿に、
圧倒され続けた。
商品市場では衣服類が最もよく売れここに店を持つことが夢だ、と言う人が多い。

店を出すには1万元から5万元(100万円)の費用を積み立てなければならない。
土地は国有で一部個人が補い、建物は神兵平局に属し国営である。
商品市場の朝は早く6時半に開店夕方6時に閉店する。
小さな店には様々な品が安価で並ぶ。
ついに、私はアクセサリーの前で立ち止まってしまった。
ピアスの品定めに夢中になり右手に付けていたブレスレットを落としてしまった。
それはとても良いブレスレットだったからもう青くなって、
「ブレスレット落としたのどうしよう」と、声に出していた。
すると案内してくださった人たち、傍にいた人、店の人みんな総出で
商品をかき分けたり屋台の人に潜り込んだり、
ワイワイ言いながらブレススレッドを探し始め、それがしばらく続き、
私はとんでもないことをしてしまったことに気づく。
(桜の木を植えに来たのにアクセサリーの店を覗いたばっかり
にこの始末だ、あーごめんなさいね)
「ご親切に探して下さってありがとうございました。でももういいんです」
義烏の人たちは素朴で親切だ。表情もみんな生き生きしている。
よく笑い感情表現豊かな人たち、ここには無表情に取り繕う人たちはいない。
無性に自分の行為が恥ずかしかった。
「出てきた届けます」店の人たちは通訳を通して言った。

ホテルに戻り会議室に通されると、
そこには義烏副市長 張先生の笑顔があった。
張副市長の歓迎の挨拶に、
松田団長が民間の友好と平和のために挨拶を交わし、拍手に包まれた。
今回、前川元軍医が50年ぶりに義烏の地を踏まれたことに
みんな感動の面持ちだった。
「元軍医さんはどなたも前面に出たがらないので、
今回は3人の軍医さんの中で前川元軍医さんを引っ張って連れてきました」
編集長のユーモアあふれるスピーチに、40代半ばの若い副市長が手を叩かれる。
副市長は半袖シャツに半ズボンサンダルと言うラフなスタイルで
私たちをリラックスさせて、終始少年のように瞳を輝かせニコニコと、
日中友好に触れられた。
前川先生は再び義烏を訪れることができた感謝を述べ
田辺部隊の軍医は私一人じゃなくて他に2名、
体調が悪くて来られず代表で私が来た次第です。
陳先生のお母さんを助けたのはこの2人によるところが大きいのです」
と続けられた。

そして日中両国ここに集まった人たちの自己紹介、スピーチへと移り、
最後に畑山さんが杉本さんの、絵入りの一巻さくらの自作詞、
「さくらの四季」を朗読。
それを石さんが中国語で読み、献詩し一つの明るいセレモニーは幕を閉じた。

正午、ホテルのレストランで昼食パーティーに招待された私たちは、
そこですっかり打ち解けて、旧知の友の再会であるような錯覚に陥り、
大騒ぎの楽しい酒宴が始まった。
ここには酒と、友と、と旅を愛した中国の古い伝統が生きていた。
真っ赤に顔を上気させた副市長さんが「乾杯」と大声で立つと、
松田団長が杯を手に「乾杯」と横に並んで一気飲み、大拍手。
これに刺激されてお酒を飲まない編集長が「乾杯」と中国酒で受けて立つ。
(編集長は密かに不老長寿の薬を聞き出そうとしていた)
前川先生も乾杯の繰り返しであるが、
一気飲みした後の杯をみんなに見せて回る仕草が頭に入っていて、
さすがであった。

夜になると義烏の街はキラキラと活気づく。
人々の渦が夜店の屋台をとりまき、どっとなだれ込む。
果物、野菜、肉を焼く匂い、衣類や遊具の叩き売り。
どこから来るのか呆れるほどの人の波。
人も自転車も車も同じところを互いに避けながら走っている。
交通ルールなんてあったものではない。
信号がほとんどと言っていいほどないのだから。
それなのに事故が起きないと言う事は、
みんな自分の身を守るため注意しているのだ。
ここには野うさぎの自由さがある。

50年前は田舎だったのに、と前川先生。
現在人口63万人、義烏はめざましく発展した。
雑踏の中を私たちはレストランへと急いだ。
陳先生ご一家のご招待を受けていた。
細い坂道を少し登ったところにレストランはあった。
郷愁をそそるような懐かしい中国の建物。
陳先生に案内されたレストラン階段を上って丸テーブルにつくと、
陳先生のお父さんと陳先生のご長男、
弟さんご夫婦がかわいい4、5歳の女の子を連れて入ってこられた。
みんなが揃うと宴が始まり、
やがてお父さんと前川先生は
握手して肩を抱き合って泣いた。
ここにお母さんの姿があったらと思い、私たちはそっと涙を拭った。

「お父さんは若いですなぁ、
僕は髪が真っ白やのにお父さんは黒々として見える。
お若いですわ」前川先生の羨ましそうな一言にお父さんは照れ笑いをした。
そして、テーブルの後ろにみんなで並び記念写真を撮って別れた。


    2021 5/10

さくら紀行 再掲 (1) 友好さくら植樹再開を願って再掲します。

2022-04-02 23:52:00 | さくら紀行
日中友好さくら植樹、
その経緯はカテゴリでご覧ください。
このブログ再掲は、実現できて中国に渡った、
その時の様子です。

*******
さくら紀行 (21)     義烏ー大陳へ、  柴・文

星霜五十 到浙江
山川不変 人不問
銭南義烏 故旧里
望誘湖塔 熱血涛
(前川・作)

前川氏は、中国安徽省の黄山でこの詩を詠まれた。
桂林と並ぶ山水画の故郷1800メートルの黄山は
雨 に霞んでまさに水墨画の仙境であった。
黄山頂上近くにある黄山西海飯店のロビーで
雨の上がるのを待ち雑談している時
五十年前軍医として義烏に駐屯された日々に現在を重ね、
万感の思いを込めてこの詩を詠まれた。
8月18日 外は雨、頂きからは霧と雨の切れ間に果てしない雲海が望め、
その中に切り立つ岩山が現れては、霧の流れとともにまた消えてゆく。
まるで霧の流れが時の流れと合流するかのように。生々流転ー。

時を遡ればそこに盛唐の詩人李白の姿があらわれる。
美しい女人と同じように野鳥を愛した李白は
高山に住む胡と言う翁が飼っていた一つ飼いの白い鷴(キジ)に目をつけていた。
李白はその鷴が欲しくてたまらない。
するとこの翁は
「あなたの詩を一首いただけたら白鷴を差し上げましょう」
と言った。
喜んだ李白はこの時とばかり紙を書いて送った。


霧の流れに夢幻のイメージを広げて白鷴を追っていると
陳先生のご長男さんが一心にノートに詩を書き始めた。
黄山の詩だ。
その詩は画家杉本さんの黄山の絵の余白に、
の見事な毛筆書体で刻まれた。
その横にまた、前川先生の黄山の二行漢詩が即興で刻まれて、
即興詩人と画家、書家を囲んで、
黄山をめぐる雨の日の心延えの美しいひとときであった。

今回の日中友好さくら植樹訪問団のメンバーは7名、
中国語が話せて中国事情に詳しい松田さんを団長に
編集長、前川元軍医、杉本、畑山、
ボランティアで通訳の大役を引き受けてくれた中国美人の石さん、
そして私である。
8月13日大阪発の中国民航で時差一時間、16時上海着、
冷夏の日本から気温30度湿度の高い上海空港につくと、
6ヶ月以上帰国しなかった留学生の石さんは、
エイズ検査へと連れ去られる。
中国人には厳しいのだ。指先から血を取り検査したそうである。
石さんが戻り出口へ向かうと陳先生がにこやかな笑顔で出迎えてくださった。
「前川先生、陳先生ですよ」と、思わず声をかけると、
前川先生は手を差し出されがっちりと握手、
満面笑顔の陳先生と、静かに強く手をにぎりしめ微笑する前川先生。
母の命を助けられた人と助けた三軍医の一人との、
はじめての出会いの握手。
それはこの日、上海空港で一番素敵な出来事であった。
翌日、列車で景色の美しい杭州市に着く。
西湖を船で周遊し蓮の花に春秋時代の趣の、美女西施の面影を見て、
その日のうちに浙江大学へ招待される。
唐副校長先生はじめ多くの先生方から盛大な歓迎を受け、
一同深い感銘のまま1日を終える。

15日、列車で杭州から義烏に向かう。
義烏が近くにつれて、前川先生の表情が次第に熱を帯びてくる。
「この辺から田辺部隊の守備範囲です」窓外に広がる緑の草や山、
レンガ造りの家々。
この辺から今乗っている列車の遮断壕が埋められたのだ。
戦時中、鉄道沿線の遮断壕撤廃や検問検索の廃止等で、
この家の民衆から慕われた田辺大隊長、その部下であった前川元軍医が
窓外の風景に50年前の記憶を探って心を震わせている。
「誰かが犠牲になった結果の平和です。
「またくるんでしたらもっといろんなところを見ておくんでしたが、
もう二度と来ることもないと思っていましたからね
「そやけどね、戦争が終わったときにはもう日本へ帰れないと思いました。
中国人と結婚するか、どこか好きな所へ行くことになるとか言われましたから。
いつか日本へ帰れたらええと思ってました。
帰してくれないとみんな言ってましたからね。
「東京から、宮殿下がこられて天皇陛下のご命令で粛々と帰ってこないかんと、、、
天皇陛下のご命令が威力がありましたからね。
それで、おとなしく帰ってきたと思っています。
「今日は8月15日、終戦記念日ですが、
私どもは戦争が終わったのかどうか、3日ほどわからなかったですよ。
駐屯地離れましてね、小さな作戦行動で回っていると張り紙がしてあってね、
「中国が勝った」と言うようなこと書いてあったけど
これは宣伝やろうと思ってました。
3日ほど経って帰ってみると、「もう戦争は終わった」と言うようなことでした。
アンカ駅の次が大陳です。大陳には止まらないと思います。
「この辺も湿度が高くて蒸し暑いけれど、中支でも漢口当たりはもっと暑くて、
インド人がインドへ避暑に帰ると言ってましたよ。

ユーモアたっぷりの口調に熱さを忘れ、
思わず私と杉本さんは声を出して笑ってしまった。
冷房なしの列車であった。窓からの風が不思議に心地良かった。
杭州から約3時間列車は午前9時50分に義烏に到着した。

日中友好 さくら植樹 (9-23) さくら紀行 再投稿です。

2021-08-14 20:54:00 | さくら紀行
(訪問くださった皆さま 投稿順序が不揃いです。ご了承くださいませ)

  さくら紀行 (9ー23)  記念すべき日、義烏の地にさくらを。

16日朝、桜植樹団一行は、
人民政府の先導車の後について陳先生のお母さんの故郷、
現在の大陳鎮(鎮は街の意味)へ向かった。
大陳町の町長に案内されて日中友好桜梅公園となる丘陵地を歩いて視察した。
狭い坂道を草を踏みながら登って行くと、
果樹園が右側に続いている。桃の木の一種だ。
立ち止まると、谷を挟んで左側に丘陵が広がっていた。
桜公園の青写真では、この谷に吊り橋がかけられている。
ここが二つの国の架け橋となる桃源郷、、、、いつの日か桜に包まれる丘、、、
歩きながら夢の中へ降りていく私の足元で、大陳の草が音を響かせてくれる。
大地の歌を、、、、。

汗を拭いながら丘を上ると大きな門構えのお寺に突き当たった。
お寺の門前には中国伝統の石像が立ち、中には極彩色の仏像があった。
鎮龍廟という大陳のお寺である。
私たちはお寺にお参りし、気持ちばかりの寄付を捧げて桜公園への夢を託した。
いつ集まってきたのか私たちの周りを、
街の人々や子供たちが笑顔で取り囲んで迎えてくれていた。
どこの国でも子供は好奇心の塊だ。
畠山さんの千羽鶴を御仏の上につるすと、ゾロゾロとちびっ子達が集まってきた。
目をクリクリさせて。
「この千羽鶴にお願いするとお願いしたことが叶うんですよ」と、
私たちは言いながらクリクリ目玉達の前で鶴を折った。
それが飛ぶように子供たちの手に渡り、
孫を抱いたおじいさんも来て、半分折りかけの鶴をにっこり持っていった。
ほんの少しの時間、こうして鶴の折り紙教室が御仏の前で開かれたのであった。
お寺の石段に腰を下ろして一緒に写真を撮ろうと呼びかける、
とみんな集まって仲良くカメラに収まった。

坂道を下って街の路地に入るとおばあさんが立っていた。
「ニーハオ」と声をかけると、
おばあさんは顔をくしゃくしゃにして笑いながら
私の手を両手できつくきつく握ってくれた。
この街は繊維工業が盛んで縫製工場が多く、人々の生活は豊かである。
私たち一行は大陳町で一番大きい縫製工場を見学した。
この工場は学校経営で、中学校の職業実習も行っている珍しい工場であった。
中国では政府の福祉資金が少ないので、
ここで得たお金は教師が福祉や学校改善、ボーナスに使うと言う。
1日の生産は7000着、従業員は300人、給料が良く
(一ヵ月440元以上、日本円で約8000円、ちなみに1人1ヵ月の生活費は6000円である)
若い女性はここへ勤めたがるが、腕の良いものしか入れないそうである。
素朴で優しい副町長さんに見送られて、大陳を後に再び義烏へ。

義烏市内にも戻ると、
私たちは桜の苗木を植えるためワクワクしながら公園へと急いだ。
広い公園の一角では耕された地が桜の到着を首を長くして待っていた。
日本からとうとう義烏の大地にやってきた桜の三年若木達、
みずみずしく背丈を切り揃えられた苗木達、
そこから新芽の出る日を祈って、平和を祈って、
私たちと義烏の人たちは苗木を植えた。
ソメイヨシノ、カンヒザクラ、、、、
東京小森氏はじめ中国に来られなかった有志の方々の桜の苗木に、
一つ一つ丁寧に名札を結んで感謝しながら苗木を抱いて、
それぞれの方々の思いをさくらに伝えた。
植え終わると大地に根付くように、
山口県の村田さんから託されたピンクの紙吹雪をみんなで一握りずつ持って、
一斉に桜の苗木の上に降らせ続けた。
桜吹雪の中でいつのひか再会できるように、、、、、
「桜の若木を大陳の丘陵に移して、大きくなり花をつけたら、
その下でまた酒宴を持ちましょう」
桜に心を託して、その後、前川先生の思い出の地、田辺部隊駐屯地後を訪ね、
見送りの方々との別れを惜しみながら私たち一行は車中の人となり、
義烏を後にした。
それにしても前川先生の記憶は鮮明すぎるほど鮮明であった。
街の中の大きな池のような湖とその側に聳える高い塔、
その横を入ったところがその場所であった。
駐屯地跡には住宅が建ち、広場では放し飼いの茶色い鶏が一羽餌をつついていた。
思い出の場所に絶たれ、胸に去来したものは何であったろう。
私等の知る由もない深淵に渦巻く押さえ方感情であったろうか、、、。

今私は、旅の終わりに黄山で詠まれた漢詩に
ほっと、心を、和ませている。


            (季刊 ふるさと紀行 平成5年冬の特別寄稿)

              2021 5/12


日中 友好さくら植樹 さくら紀行(8) 5/10を差し替え8/14 投稿

2021-08-14 12:39:00 | さくら紀行
さくら紀行  (8)  冬の道ー幻の軍医さんを訪ねて、その2

実は、貴国、浙江省とこの上下町はすでに
事業、文化の面で交流の実を上げておられました。
貴省平湖市に、合併会社、芙織華製衣有限公司が作られ、
縫製事業で立派な業績を上げておられます。 
それに、青少年及び指導者海外派遣研修と言うことで、
平野助役さん他7名の方々が既に訪中されたことも聞きました。
その折、教育長安原先生は、上海郊外の百花小学校も表敬訪問され、
熱烈歓迎されたと言うことです。
上下町の案内地図にはすでに貴国語が付されてもありました。

私はこの奇縁に驚き、かつ心の中で快哉を叫びつつ義烏市と上下町が、
今回の田辺氏のご縁で、いっそう有効の実をあげられることを
祈られずにはおられませんでした。  
町役場を辞し、片山総務部長さんのご案内で、上下町教育委員会へ、
教育長の安原先生としばし会談の後、3人で町に出ました。

先ず、田辺家跡、田辺では明治維新前よりの素封家であり、
その面影の残る後跡地の一角には旧家が残っていました。
田山花袋と言う作家が、小説蒲団の中で描いた岡田さんの家。
明治時代の建築そのままに残る警察署の建物。
当時の上下町の財閥、角倉家の倉として作られ、
後にキリスト教会となった風変わりな建物。
昭和初期に建てられた、集会、芝居、映画などの興行がなされた翁座。
宿場町としての名残の古い町並み。
さらに吉井寺、善昌寺などの古刹。翁山公園など、
優れた遺産の残る町を心ゆくまで散策させていただきました。

この古き佳き美しき町に、町長さんや教育長さんは、
熱心に新しい息吹を与えようと各方面で努力をされ、
それが、貴国浙江省ともすでに交流されている実績なのでしょう。
最後にお訪ねした矢野小学校は、
安原先生が校長をなさっていた頃に改築され、
山や川、田圃を周囲に配置され、屋内には近代的な教育機能が完備された、
それは素晴らしい小学校でした。
上下町をお尋ねして帰京して旬日、
教育長安原先生からとりあえず私的に義烏市をお尋ねしたいのですが、
との嬉しいお電話をいただきました。
私もまた義烏市訪問を希っておりましたので、
同行をお約束いたしました。
11月24日大阪空港発の切符が取れました。
先生には上海空港まで迎えに来ていただけますでしょうか。
上海から列車にて4時間で杭州市、
それから更に4時間で義烏市と聞きましたが、
貴国でのスケジュールはお任せします。


今回の訪問は安原先生他の皆様、私ともまったくの私的な旅行ですので、
どうぞ過分なお気遣いはなさらないでください。
そうそう、私は今度の訪問のお土産に、造園業の友人に依頼し、
日本の花“さくら”の苗木を持参したいと思います。
ただ植物の持ち込みには厳しい貴国の税関と聞きました。
貴国からの持ち込み許可証を至急送って下さると良いのですが、
時間的に間に合いますか。

上下町の町花は、あやめ草、その中でも珍種の誰故草(たれゆえそう)だそうです。
日本での生育は極めて珍しく、撲滅寸前珍しい花で、
現在上下町では原田さんと言う方が丹精込めて育てておられると聞きました。

安原先生にはこの草花の種を、持参していただくようお願いいたしました。
さくらとあやめ、私は、この2つの花に、
戦時に貴国に与えた日本の罪を償う意味と、
未来永劫の友好の意味を託したいと思います。
先日、田辺部隊の3人の軍医さんが、
桜美翠さんの生命を救われたと言う一輪の花を、
今後は私たちの手で百花繚乱の趣にしたいと念じています。

ここまで書いてきてこの山頂に珍しく
秋時雨がパラパラと降って参りました。
高い青空からキラキラと輝いて落ちてくる雨滴と、
ここに山頂の少し、爛れた(ただれ)た紅葉に
私は冬の訪れを実感しています。
赤薙山頂から東京へ、大阪へ、上海へ、杭州へ、義烏市へ、
そして大陳鎮(町)への私の長い冬の道が展かれました。

それは、私の、私たちの、
貴国と日本の友好を進める希望への第一歩の旅となりましょう。
陳先生、それでは再会を楽しみに、ごきげんよう。

追記
このお便りの校正を重ねていました今日、11月10日、
先生ご紹介の義烏市の市長、毛先生より、
私たちの市訪問への歓迎の親書をいただきました。
中日友好回復20周年の佳き年に47年前の日本人軍医と
陳先生のお母様との美しいエピソードを持って、
貴国をお訪ねできる喜びに、今私は深い感動を覚えています。

 季刊 ふるさと紀行 平成四年冬の号掲載



    2021 5/10  を差し替えて8/14