数年ぶりに読み返した。
まだちゃんと整理できないけど、思いついたことをざっと書く。
ベースは『オイディプスの悲劇』。
本作品以前は、「井戸掘り」、つまり、自らの深奥に入り込み損なわれた自己を取り戻すこと、井戸を出て、失われた関係性を取り戻すことが主題だった。しかも、それは、他者と自分との関係性だった。
それが突如、父親、母親ときたから驚きだ。だって、これまで、それは無いものとして村上の物語は進んで来たのだから。
村上の小説世界またはエッセイを含む言説に、妻や恋人は、頻繁にと言っていい程登場するが、家族は全くと言っていい程、存在しない。
勘違いでなければ、この小説は集大成というよりは寧ろ、「もうコレ書くしかないよね。」という、ある種の決意のように感じる。
もう随分語られていると思うけど、エヴァと重なる。
少年カフカ=シンジくん
田村浩一(父)=ゲンドウ
さくらさん=綾波レイ
エヴァに乗る=佐伯さんと交わる
『誰も僕を必要としていないんだ』と、父も母もいない、思春期の少年が思う。
その設定だけで、もうエヴァ。でも、カフカは知的で格好良くて、母(佐伯さん)も、父への思念(ナカタさん)も死んで、最終的に四国を出る。
「アメリカ陸軍報告書」形式の章も、お洒落ですね。「付帯資料請求番号は…」とかそういうの、格好いいよね。
素朴さ。カワムラさんとのディスコミュニケーション
思春期の切羽詰まった感、
血 少年ナカタが目を覚ました時。ナカタさんと暴力。
2009/7/18
本日、再び読み返した。
この本のモチーフは『オイディプスの悲劇』なわけだが、
この物語自体も、もはや神話だなぁと思う。
「入り口の石」とか、何か神話っぽいもんね。
あと、「何が何の象徴である」っていうより、
物語自体が原型というか。解釈を許さないというか。
感じれば分かるって思った。
『1Q84』が発売され、二つの物語が同時進行し近付いてゆく、
という形態がまた繰り返されたけれど、
村上春樹はどうしてこの物語の進め方を選んだのだろう。
書いたらそうなったって感じなのかな。
父親の悪しき魂はホシノくんが滅してくれたし、
たくさんの痛みを経て、母親を赦すことも出来た、カフカ君。
でも多分、『海辺のカフカ』はずっとカフカ君の部屋に飾られるだろう。
逃れることなんて出来ないんだろうな。
だから、「世界一タフな15歳にならなければいけない」んだろう。どこへ行こうとも。
でも、物語冒頭と最後では、この言葉の意味は違ってくる。
本当にタフになるために、乗り越える対象を探し当てたって感じなんだろう。この結末は。