🌊東日本震災復興🌸の現状🍀1
今回、東日本大震災の発生から丸五年が経ったことを機に、これまでの歩みをぜひ語っていただきたいと、出版社さんからお声をかけていただきまして、
最初は私なんか出るような器じゃないと思ったんです。
ただ、S会頭との対談ということでしたので、それならお受けしようと。
何しろS会頭は、創業100年を超える気仙沼の老舗酒蔵メーカー男山本店の4代目として、
震災後すぐに酒造りを再開し、打ちひしがれていた気仙沼の人々に勇気を与えましたよね。
さらには気仙沼商工会議所の会頭として、地域の復興に向けて奔走されている。
いやいや、恐れ入ります。
K社長こそ、震災後停電が続いていた時期に町の電力工事に尽力され、実に多くの病院や避難所に明かりを灯されました。
それがどれだけ気仙沼の人たちの生きる希望になったことか。
私は現場の事は話せますけど、K社長のように、人としての生き方について語れるようなものは何もありません。
ですから今日は大先輩にいろいろと学ばせていただこうと考えてます。
S会頭とはもう長い付き合いですし、
普段から商工会議所をはじめ様々な組織でご一緒していますけど、
こういう形で語り合うのは初めてですね。
そうですね。
最初の出会いはK社長が気仙沼JC(青年会議所)の理事長をされていた時だったと思いますので、
もう30年以上前になります。
私は当時まだ学生でした。
ところで、今日の午前中に、ある有名私立大学の方がお見えになったんです。
「この5年間はインフラ復旧が急務だったので、何もできなかったけれども、これからの5年間は我われの出番だと思います。ぜひ協力します」と。
ああ、そうでしたか。
読者の方のために気仙沼の現状を申し上げますと、
まだまだ仮設住宅や仮設商店街がずいぶん残っていますから、
仮復旧を終えてようやく本復旧に差し掛かったという状態です。
復興という段階には至っていませんね。
数字で見ても、水や電気の使用量は震災前の6割にとどまっていますし、震災前の売り上げに達していない企業は8割以上に及びます。
また、災害公営住宅は戸数を計算して立てたものの、
いざ蓋を開けたら、その間に亡くなった方もいるし、地元に戻るのを断念して別の地域に行ってしまった方もいる。
ですから、被害が大きくて時間がかかったことによって、問題がより複雑で多様になっている感じがしますね。
ただ一方で、この五年間、少しずつでもチャレンジをし、震災前から生まれ変わってきた人たちがいるんですよね。
例えば、製造業だと震災前から「販路がない」と言っていましたけど、これを機に従来の販路を全て買えて、大手スーパーに卸していたのを消費者と直接繋がるネット販売にしようとか。
そのように、これからの時代に即した新しいやり方が構築されてきているのも事実です。
この五年間、夢中で走ってきたわけですけど、やはり1番力を注いできたのは自分の会社を再建すること。
まずそれをしなければ社員を幸せにすることはできませんし、気仙沼の地域に対して社会貢献もできません。
おっしゃるとおりですね。
我々には3月11日を共に乗り越えてきた社員がいるわけですから、社員をまずベースにしないとバチが当たると思います。
と同時に、私は気仙沼電気工事組合の理事長や宮城県倫理法人会の副会長などもさせていただいていますので、関連諸団体の組合員とともに、気仙沼、そして宮城を復興させていく。
あともう一つは、震災直後からたくさんの応援や励ましをいただいてきましたので、
その方々に対するお礼をきちんとしていかなければならない。
端的な例をあげれば、震災後、1番最初に気仙沼に現金を届けてくださったのは台湾の団体だったんですね。
そうでしたね。
あの時は銀行のATMも全く稼働していませんから、S会頭のようなお金持ちでも、現金をおろせないわけですよ(笑)。
何をおっしゃいますか(笑)。
とにかく手元に現金がないと買い物すらできない状況の中で、
台湾の方々の支援は実にありがたかったですよね。
それだけに止まらず、日本国内のいろんな団体からも応援を頂きました。
そのお礼として、気仙沼の名産であるさんまを送ったりしてね。
すると、皆さん涙ながらに電話をくださった。
「嬉しかった」って。
震災そのものを我が事のように受け止め、
気仙沼を第二の故郷のように思ってくれている。
そういう方々の真心の支援というか、
真心の絆が気仙沼全体の大きな財産になっていくと思います。
それに対して、われわれはたとえ牛の歩みであっても、
感謝の気持ちで答えることが大事ですよ。
私、いつも思うんですけどね、もし逆の立場だったら、
果たしてこれだけのことができるのかって。
だって、いまだに「これ、家の畑で作った野菜なので食べてね」で送ってくださる方もいるんですから。
日本人て素晴らしいなと思います。
先ほどお話しした大学の方もそうですが、今までも気仙沼に手を差し伸べてくれる方がいらっしゃる。
もう本当に感謝ですよね。
よく「皆さんを勇気づけようと思ってきたら、逆に勇気をもらって帰りました」という方がいらっしゃるんですけど、
それは逆ですよね。
皆さんが来てくださり、応援してくださることで、我々は元気でいられるわけです。
それをどうやって返すか。
とにかく一所懸命あって、復旧ではなく、元の状態より上と復興させていく。
時代はどんどん先へ進んでいますから、あの日に戻ったのではダメで、先んじていかなければならないと思います。
やっぱり気仙沼の町を復興させることが、何よりものご恩返しになるんです。
(つづく)
今回、東日本大震災の発生から丸五年が経ったことを機に、これまでの歩みをぜひ語っていただきたいと、出版社さんからお声をかけていただきまして、
最初は私なんか出るような器じゃないと思ったんです。
ただ、S会頭との対談ということでしたので、それならお受けしようと。
何しろS会頭は、創業100年を超える気仙沼の老舗酒蔵メーカー男山本店の4代目として、
震災後すぐに酒造りを再開し、打ちひしがれていた気仙沼の人々に勇気を与えましたよね。
さらには気仙沼商工会議所の会頭として、地域の復興に向けて奔走されている。
いやいや、恐れ入ります。
K社長こそ、震災後停電が続いていた時期に町の電力工事に尽力され、実に多くの病院や避難所に明かりを灯されました。
それがどれだけ気仙沼の人たちの生きる希望になったことか。
私は現場の事は話せますけど、K社長のように、人としての生き方について語れるようなものは何もありません。
ですから今日は大先輩にいろいろと学ばせていただこうと考えてます。
S会頭とはもう長い付き合いですし、
普段から商工会議所をはじめ様々な組織でご一緒していますけど、
こういう形で語り合うのは初めてですね。
そうですね。
最初の出会いはK社長が気仙沼JC(青年会議所)の理事長をされていた時だったと思いますので、
もう30年以上前になります。
私は当時まだ学生でした。
ところで、今日の午前中に、ある有名私立大学の方がお見えになったんです。
「この5年間はインフラ復旧が急務だったので、何もできなかったけれども、これからの5年間は我われの出番だと思います。ぜひ協力します」と。
ああ、そうでしたか。
読者の方のために気仙沼の現状を申し上げますと、
まだまだ仮設住宅や仮設商店街がずいぶん残っていますから、
仮復旧を終えてようやく本復旧に差し掛かったという状態です。
復興という段階には至っていませんね。
数字で見ても、水や電気の使用量は震災前の6割にとどまっていますし、震災前の売り上げに達していない企業は8割以上に及びます。
また、災害公営住宅は戸数を計算して立てたものの、
いざ蓋を開けたら、その間に亡くなった方もいるし、地元に戻るのを断念して別の地域に行ってしまった方もいる。
ですから、被害が大きくて時間がかかったことによって、問題がより複雑で多様になっている感じがしますね。
ただ一方で、この五年間、少しずつでもチャレンジをし、震災前から生まれ変わってきた人たちがいるんですよね。
例えば、製造業だと震災前から「販路がない」と言っていましたけど、これを機に従来の販路を全て買えて、大手スーパーに卸していたのを消費者と直接繋がるネット販売にしようとか。
そのように、これからの時代に即した新しいやり方が構築されてきているのも事実です。
この五年間、夢中で走ってきたわけですけど、やはり1番力を注いできたのは自分の会社を再建すること。
まずそれをしなければ社員を幸せにすることはできませんし、気仙沼の地域に対して社会貢献もできません。
おっしゃるとおりですね。
我々には3月11日を共に乗り越えてきた社員がいるわけですから、社員をまずベースにしないとバチが当たると思います。
と同時に、私は気仙沼電気工事組合の理事長や宮城県倫理法人会の副会長などもさせていただいていますので、関連諸団体の組合員とともに、気仙沼、そして宮城を復興させていく。
あともう一つは、震災直後からたくさんの応援や励ましをいただいてきましたので、
その方々に対するお礼をきちんとしていかなければならない。
端的な例をあげれば、震災後、1番最初に気仙沼に現金を届けてくださったのは台湾の団体だったんですね。
そうでしたね。
あの時は銀行のATMも全く稼働していませんから、S会頭のようなお金持ちでも、現金をおろせないわけですよ(笑)。
何をおっしゃいますか(笑)。
とにかく手元に現金がないと買い物すらできない状況の中で、
台湾の方々の支援は実にありがたかったですよね。
それだけに止まらず、日本国内のいろんな団体からも応援を頂きました。
そのお礼として、気仙沼の名産であるさんまを送ったりしてね。
すると、皆さん涙ながらに電話をくださった。
「嬉しかった」って。
震災そのものを我が事のように受け止め、
気仙沼を第二の故郷のように思ってくれている。
そういう方々の真心の支援というか、
真心の絆が気仙沼全体の大きな財産になっていくと思います。
それに対して、われわれはたとえ牛の歩みであっても、
感謝の気持ちで答えることが大事ですよ。
私、いつも思うんですけどね、もし逆の立場だったら、
果たしてこれだけのことができるのかって。
だって、いまだに「これ、家の畑で作った野菜なので食べてね」で送ってくださる方もいるんですから。
日本人て素晴らしいなと思います。
先ほどお話しした大学の方もそうですが、今までも気仙沼に手を差し伸べてくれる方がいらっしゃる。
もう本当に感謝ですよね。
よく「皆さんを勇気づけようと思ってきたら、逆に勇気をもらって帰りました」という方がいらっしゃるんですけど、
それは逆ですよね。
皆さんが来てくださり、応援してくださることで、我々は元気でいられるわけです。
それをどうやって返すか。
とにかく一所懸命あって、復旧ではなく、元の状態より上と復興させていく。
時代はどんどん先へ進んでいますから、あの日に戻ったのではダメで、先んじていかなければならないと思います。
やっぱり気仙沼の町を復興させることが、何よりものご恩返しになるんです。
(つづく)
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