今日も雲一つない快晴の秋の空でとても気持ち良い。日中の日射しを大切にしないと、夕刻の五時頃にはもう随分と暗くなってくる。これからの時期は、秋の日のつるべ落としといわれるように日暮れも早くなり、あっという間に快適な日中も変化していく。また、天高く馬肥える秋の如くで、新米、新豆などの収穫にも相俟ってつい食欲も増しそうだ。それで、知らぬ間に体重オーバーになってたりするので要注意だ。
秋の旅は楽しい。でも行く予定は自分には今のところない。京都、奈良をはじめ、紅葉の景勝地は国中いっぱいだ。これからが、まさに錦秋の候だ。昔はよく箱根、伊豆などへ行った。熱海なんかは年中、客でいっぱいの観光地だった。< 熱海の海岸散歩する・・> 金色夜叉のあの、貫一お宮の像や松のある海辺も観光客がたくさん歩いていた。小津安映画「東京物語」で、あの老夫婦が海辺で着ていたような浴衣の上に丹前を着流している人々。縞の茶色っぽい布地や紺色の旅館誂えの物だ。下駄のカラ コロという音を響かして酔い心地で歩いてた。時々、土産店に入ったり、射的やスマートボールなんかやったりして。通りは賑やかで、どこからか温泉の香りが流れてくる。温泉饅頭が入った蒸籠から湯気が上がってる・・。そんな情景はもう余り見られないようだ。いろんな観光地も最近は、随分様変わりした。ちょっと残念だが。
交通・道路網の発達、宿泊施設の変化、大型店舗、レジャー、人々の好み・・いろんなものが良くも悪くも大きく変化した。海外含め、速く、遠くへと移動が広まった。ホテル内ではお土産から遊戯までいろんなものが兼ね備えられた。街中へ出なくても、館内ですべてまかなえる。でも、客は賑やかな街中には出たいもののはずなのだが。客が出てくれないと街はすたれる。引きこもりだって、いつまでも室内で過ごしていける時代。便利な時代になってくると、身近でそれなりにやっていける。お金さえあれば、ネット注文を使って、家から出なくても生きていける。幸せな生き方かどうかは人それぞれだろうが。こういう時代は個人の店が消えるはずだ・・。
そういう時代の変化が、町の様子を大きく変えてしまった。日常とちょっと違った風情を味わいたくて、旅行で訪れる土地が、どこも同じようになったらつまらない。ただでさえ、あっという間に着いてしまう上に、テレビも町並みもコンビニもストアーも広告も言葉も服装も、ほとんど変わらない感じでは味気ない。「旅情」は洋画の話?こういうことが均質化するグローバル時代の短所なんだろうか。面白味がなさ過ぎる。ビジネスの旅だったら、便利だろうからそれでもいいだろうが、そうでない旅では話が違う。そんなことを考えながら先に書いた、昔の観光地なんかの情景を懐かしみつつ思い出している。
カラ コロ カラ コロと石畳みに下駄の音をならし、雨の宵には番傘をさし、温泉の湯煙りが流れ、旅館の窓からドンチャン騒ぎが聞こえてくる。遠くにぼんやりと城が見える。それはもう遠い話。しかも昨今、会社組織などが大きく変わって行く中で、大型ホテルも変化してる。個人志向と多様化だろう。しかし、ぶらぶらと旅をしてると良い街にもばったり出会えそうにも思う。 昔のような面白い時代の観光地には出会えそうにはないが、でもきっとどこかに、まだそんな風情の漂う町があるに違いない。そう信じよう・・。湯の町エレジー。
これから紅葉は深まり、そして落葉して行く。尾崎紅葉の「金色夜叉」は泉鏡花や徳田秋声を驚かしただろう。紅葉門下に入った二人は、師を追い、越えようと努力したのだろう。なんと秋に似合う彼らの文筆名だろう。しかも我楽多文庫、自然主義、幻想文学だったりと作品も実に豊かだ。「金色夜叉」もいつの時代にも通じる新しさだ。
< カメラの思い出 > NO、4
フジカ、コニカ、ヤシカなどのカメラ名はドイツのライカが、ペンタックス、レオタックスなどの名はコンタックスが、ニコン、キャノン、トプコンなどの名はツァイス・イコンが影響したんだろう。キャノンは<観音>からとも聞く。ミノルタは創業者の田島氏から命名と言われたりもするが、以前の千代田光学の名を合わせ考えるに、詳細は知らぬが、<実る田>、つまり田んぼに関係してても不思議ではない。とにかく、写真業界は一生けん命、ドイツに追いつこうとしたことには、カメラ名やレンズ名がドイツのものに似ていることからして間違いない。そして、追いつき、乗り越えていった。自分はカメラをニコンFEからFE2に一時期変えた。ストロボ が250分の1に変わり、また高速シャッターが切れるからだった。でも、それほどストロボも高速シャッターも自分は使わなかった。どうしても、人工光撮影のものは写真画像が不自然だった。以前は、暗いとフラッシュバルブ(閃光電球)をよく焚いたものだ。一枚の写真に一本の電球を消費した。ピカッと光って、もうおしまい・・。暗闇が一瞬のうちに白昼のようになってまた暗闇になった。不思議な気持ちにちょっとなった。ポンとかジャというアルミ箔の焼ける音がして、電球は黒っぽい乳白色に変わった。触るとちょっと熱かった。随分と閃光電球も使ったものだ。で、そのFE2のカメラの方はFEより故障しやすかったので、あまり使わなかった。絞りやシャッター速度、フィルムの感光度の関係なども、大体勘がついていたので、ネガフィルムでは、露出計内臓されてなくても大丈夫だった。だから、ニコンF(ブラック)を中古で買い、モノクロやカラーネガでの写真をとった。ポジフィルムの時だけは。セコニック露出計で計測して正確に写した。ハッセルも時々、露出計を使った。50年代には、ハッセルで、プラナー150ミリとゾナー250ミリレンズも使用した。望遠でのブレ回避には、どうしても三脚が必要だった。この時期は今で言う、クラシックカメラを普通に苦にもせず使用していたのだ。ニッコール35~70ミリズームレンズは買ったが、使い勝手が悪すぎるので手放し、単焦点のレンズを何本も交換して写した。この頃で出た、ユニークなオリンパスXAというバリアータイプのコンパクトカメラは写りも良く、随分使用し、二台ほど買った。ズイゴー35ミリf2、8のレンズシャッターで、大袈裟ではないのでスナップに向いたとてもいいカメラだった。
秋の旅は楽しい。でも行く予定は自分には今のところない。京都、奈良をはじめ、紅葉の景勝地は国中いっぱいだ。これからが、まさに錦秋の候だ。昔はよく箱根、伊豆などへ行った。熱海なんかは年中、客でいっぱいの観光地だった。< 熱海の海岸散歩する・・> 金色夜叉のあの、貫一お宮の像や松のある海辺も観光客がたくさん歩いていた。小津安映画「東京物語」で、あの老夫婦が海辺で着ていたような浴衣の上に丹前を着流している人々。縞の茶色っぽい布地や紺色の旅館誂えの物だ。下駄のカラ コロという音を響かして酔い心地で歩いてた。時々、土産店に入ったり、射的やスマートボールなんかやったりして。通りは賑やかで、どこからか温泉の香りが流れてくる。温泉饅頭が入った蒸籠から湯気が上がってる・・。そんな情景はもう余り見られないようだ。いろんな観光地も最近は、随分様変わりした。ちょっと残念だが。
交通・道路網の発達、宿泊施設の変化、大型店舗、レジャー、人々の好み・・いろんなものが良くも悪くも大きく変化した。海外含め、速く、遠くへと移動が広まった。ホテル内ではお土産から遊戯までいろんなものが兼ね備えられた。街中へ出なくても、館内ですべてまかなえる。でも、客は賑やかな街中には出たいもののはずなのだが。客が出てくれないと街はすたれる。引きこもりだって、いつまでも室内で過ごしていける時代。便利な時代になってくると、身近でそれなりにやっていける。お金さえあれば、ネット注文を使って、家から出なくても生きていける。幸せな生き方かどうかは人それぞれだろうが。こういう時代は個人の店が消えるはずだ・・。
そういう時代の変化が、町の様子を大きく変えてしまった。日常とちょっと違った風情を味わいたくて、旅行で訪れる土地が、どこも同じようになったらつまらない。ただでさえ、あっという間に着いてしまう上に、テレビも町並みもコンビニもストアーも広告も言葉も服装も、ほとんど変わらない感じでは味気ない。「旅情」は洋画の話?こういうことが均質化するグローバル時代の短所なんだろうか。面白味がなさ過ぎる。ビジネスの旅だったら、便利だろうからそれでもいいだろうが、そうでない旅では話が違う。そんなことを考えながら先に書いた、昔の観光地なんかの情景を懐かしみつつ思い出している。
カラ コロ カラ コロと石畳みに下駄の音をならし、雨の宵には番傘をさし、温泉の湯煙りが流れ、旅館の窓からドンチャン騒ぎが聞こえてくる。遠くにぼんやりと城が見える。それはもう遠い話。しかも昨今、会社組織などが大きく変わって行く中で、大型ホテルも変化してる。個人志向と多様化だろう。しかし、ぶらぶらと旅をしてると良い街にもばったり出会えそうにも思う。 昔のような面白い時代の観光地には出会えそうにはないが、でもきっとどこかに、まだそんな風情の漂う町があるに違いない。そう信じよう・・。湯の町エレジー。
これから紅葉は深まり、そして落葉して行く。尾崎紅葉の「金色夜叉」は泉鏡花や徳田秋声を驚かしただろう。紅葉門下に入った二人は、師を追い、越えようと努力したのだろう。なんと秋に似合う彼らの文筆名だろう。しかも我楽多文庫、自然主義、幻想文学だったりと作品も実に豊かだ。「金色夜叉」もいつの時代にも通じる新しさだ。
< カメラの思い出 > NO、4
フジカ、コニカ、ヤシカなどのカメラ名はドイツのライカが、ペンタックス、レオタックスなどの名はコンタックスが、ニコン、キャノン、トプコンなどの名はツァイス・イコンが影響したんだろう。キャノンは<観音>からとも聞く。ミノルタは創業者の田島氏から命名と言われたりもするが、以前の千代田光学の名を合わせ考えるに、詳細は知らぬが、<実る田>、つまり田んぼに関係してても不思議ではない。とにかく、写真業界は一生けん命、ドイツに追いつこうとしたことには、カメラ名やレンズ名がドイツのものに似ていることからして間違いない。そして、追いつき、乗り越えていった。自分はカメラをニコンFEからFE2に一時期変えた。ストロボ が250分の1に変わり、また高速シャッターが切れるからだった。でも、それほどストロボも高速シャッターも自分は使わなかった。どうしても、人工光撮影のものは写真画像が不自然だった。以前は、暗いとフラッシュバルブ(閃光電球)をよく焚いたものだ。一枚の写真に一本の電球を消費した。ピカッと光って、もうおしまい・・。暗闇が一瞬のうちに白昼のようになってまた暗闇になった。不思議な気持ちにちょっとなった。ポンとかジャというアルミ箔の焼ける音がして、電球は黒っぽい乳白色に変わった。触るとちょっと熱かった。随分と閃光電球も使ったものだ。で、そのFE2のカメラの方はFEより故障しやすかったので、あまり使わなかった。絞りやシャッター速度、フィルムの感光度の関係なども、大体勘がついていたので、ネガフィルムでは、露出計内臓されてなくても大丈夫だった。だから、ニコンF(ブラック)を中古で買い、モノクロやカラーネガでの写真をとった。ポジフィルムの時だけは。セコニック露出計で計測して正確に写した。ハッセルも時々、露出計を使った。50年代には、ハッセルで、プラナー150ミリとゾナー250ミリレンズも使用した。望遠でのブレ回避には、どうしても三脚が必要だった。この時期は今で言う、クラシックカメラを普通に苦にもせず使用していたのだ。ニッコール35~70ミリズームレンズは買ったが、使い勝手が悪すぎるので手放し、単焦点のレンズを何本も交換して写した。この頃で出た、ユニークなオリンパスXAというバリアータイプのコンパクトカメラは写りも良く、随分使用し、二台ほど買った。ズイゴー35ミリf2、8のレンズシャッターで、大袈裟ではないのでスナップに向いたとてもいいカメラだった。