「大事な話」
自らを神と名乗る老紳士は、ねこのじかん研究所の本を、次々と読み始めた。
1冊、2冊、6冊、24冊、120冊、720冊、5040冊……。
老紳士は、同時にたくさんの本を読んだ。本の量は累進的に増加し、老紳士の周りは、本だらけになった。
奇妙な光景だった。
無数の本が研究所の空中に浮いていた。
老紳士の周りに、研究所にある全ての本が集まっていた。
やがて、上方から、博士の耳に不思議な音が聴こえてきた。
それは、本から聴こえる音であった。老紳士が本のページをめくる音、本を棚から取り出す音、本が空中を移動する音だ。
読書を通じて、本が楽器になっていた。
そこには、本から、この様な音が出るのかというような、聴きなれない音もたくさんあった。
それら無数の音が、重なって響き合い、老紳士は幻想的で美しい音楽(リズム)を奏で始めた。
それを聴いて、博士は、まるで催眠術にかけられているような気分になった。
老紳士は、踊り出した。
音楽と踊りで、対象を深く理解する。
特殊な読書法。
それは神聖な儀式のようだった。
時空を繋ぐ摂理がはじけていた。
「最後に、わたくしからあなたに“大事な話”をしたいと思います。」
どこからともなく、博士の中で老紳士の声が聞こえてきた。心に直接語りかけられている感じだった。
老紳士は踊りながら本を読み続けていたが、それは佳境に向かっていた。老紳士は短い間に、研究所にある本を、隅から隅まで全て読んでしまった事になる。
博士の周囲から重力はなくなっていた。
無重力状態では、バランスをとるのが難しい。我々の身体の作りは、重力の存在が前提に造られている。
何事もそうだが、自分を縛り付けているものから解放されれば、単純に自由になるという訳でもない。
無重力状態に身体を慣れさせながら、博士は老紳士の言葉に耳を澄ませた。
「これから、あなたの記憶は消える事になります。」老紳士の声は、そう言った。
「ゆえに、今からお話しする内容を、あなたが記憶にとどめ置くことは難しいかもしれない。」
「?」老紳士が何を言っているのか、よく分からなかったが、大事な話が始まる事は理解できた。博士は老紳士の言葉に集中した。
「あなたは、今後、この本を通して、ひとりの少年と出会うことになります。」
その言葉と同時に、博士の心像に、老紳士が現れた。目の前で踊っている老紳士とは別の姿だ。心の中に直接映像が送られている感じだった。
心の中の老紳士は、「ねこのじかんについて」を手に持って博士に示した。この本です。と言ったしぐさだ。それと同時に“少年の姿”が見えた。この少年です。という感じだ。
その少年の姿を見て、博士はとても驚いた。驚きのあまり集中力が切れ、無重力空間で大きくバランスを崩し、博士は時空のカオスに飲み込まれていった。
「その出会いを、見逃さないでください。」
「おそらく、出会えばすぐに分かるとは思います。彼はあなたにとって大切な相手です。」
「それでは。」
気が付いた時、博士は身体中の力が抜けたような状態で、その場に座り込んでいた。
なぜ、自分がここに座っているのか、博士には分からなかった。周りには誰もいない。シーンとしている。当然だ。研究所の奥の秘密の場所には、自分と先生以外は入る事はない。人がいないのはいつもの事だ。
しかし、(先生とは違う)誰かがそばにいたような気配が、自分の中に残っていた。その違和感は、経験上、見過ごすことができないものだと感じた。
「何か忘れてはいけない事がある気がする。」博士は声に出して呟いてみた。消えてしまう前に、その違和感を自分の中に確定させる必要があった。
夢を見ていたのだろうか?自分は気を失っていたのか?不思議だ。
おそらく、この状況には何らかの意味がある。博士はそう感じた。それは確信に近いものだった。この違和感を自分の中に確実に留め置こうと思った。
そして、博士は、なぜか「これから何かが始まる」と感じた。それは少しだけ心が浮つくような、未来に対する予感であった。