古い話になるが、戦時中は大阪・天王寺区石ヶ辻町(現日赤病院前あたり)に住んでいた。
しかし、戦争終盤になると本土への戦火も日ごとに強くなり、国民学校1年生の私は、滋賀県蒲生郡へ父の親戚を頼って“縁故疎開”をした。
そのとき、通っていたのが、現「蒲生東小学校」(当時「櫻川国民学校」)であった。
梅雨前の1日。60有余年ぶりに(今では)鉄筋コンクリートの立派な校舎が建つ思い出の地を訪ねてみた。
疎開先から、片道約1里余の道を腰にスペアーの“わらじ”(藁草履)を下げて、疎開先の家から学校へ通うことは都会に住んでいた小学校1年生の私には最大の苦痛であった。
夏の暑い日、一面の田んぼの中の道を、トボトボと歩いたことを懐かしく思い出した。
偶然であるが、たまたま妻も幼少の頃、この地で育ったと言うことを後で知った。
そんなこともあって懐かしさのあまり、しばらくこの地区をドライブし、周辺の郵便局へも立ち寄った。
写真説明:上左「蒲生郵便局」上中「下田郵便局」上右「菩提寺郵便局」
下左「甲西郵便局」下右「石部郵便局」
遠い遠い思い出の世界にタイムスリップした1日であった。
しかし、戦争終盤になると本土への戦火も日ごとに強くなり、国民学校1年生の私は、滋賀県蒲生郡へ父の親戚を頼って“縁故疎開”をした。
そのとき、通っていたのが、現「蒲生東小学校」(当時「櫻川国民学校」)であった。
梅雨前の1日。60有余年ぶりに(今では)鉄筋コンクリートの立派な校舎が建つ思い出の地を訪ねてみた。
疎開先から、片道約1里余の道を腰にスペアーの“わらじ”(藁草履)を下げて、疎開先の家から学校へ通うことは都会に住んでいた小学校1年生の私には最大の苦痛であった。
夏の暑い日、一面の田んぼの中の道を、トボトボと歩いたことを懐かしく思い出した。
偶然であるが、たまたま妻も幼少の頃、この地で育ったと言うことを後で知った。
そんなこともあって懐かしさのあまり、しばらくこの地区をドライブし、周辺の郵便局へも立ち寄った。
写真説明:上左「蒲生郵便局」上中「下田郵便局」上右「菩提寺郵便局」
下左「甲西郵便局」下右「石部郵便局」
遠い遠い思い出の世界にタイムスリップした1日であった。