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ゆるこだわりズム。

ゆる~くこだわる趣味・生活

昆布ロードと敦賀 その5

2021年01月17日 | 敦賀史

 

  2、コンブロード

A)コンブロードのはじまり

 昆布は宮城県以北の寒海でしか採れないので、他の地方へ昆布がもたらされるには、北から南西への輸送ルートが形成されます。昔は陸路がなく、あったとしても危険すぎて、無事に荷物が届くかどうか、保証されていませんでした。
 それに比べて、海路の方は古くから発達し、海賊などもいましたが漁民や廻船人も海賊と同じようなものなので、通行料を払えば無事に通れました。また、海路が開けていたのは日本海側で、太平洋側は波が高く、航路が定まるのはずっと遅れてからでした。それで、最初のコンブロードは北海道から北陸への日本海側の航路でした。北陸は越国コシノクニ と呼ばれ、後に、越後・越中・越前の三国に分割されました。
 越前はコシノミチノクチ・コシノマエです。山を越えた所にある国、あるいは海を越えた所にある国なので越国と呼ばれたと言われます。その越国から、さらに海を越えた所で昆布は採れます。

 縄紋期には北海道沿岸を暖流が流れ、現在よりも温暖であったので(戸沢充則編『縄文人の時代』)、昆布の成育には現在よりも条件が適わなかったようです。暖かさに強いホソメコンブが多かったかも知れません。縄紋時代に交易が盛んであったことはすでに述べましたが、そうは言っても全体の人口が少なく、絶対量としての交易は僅かなものです。
 北陸全体の縄紋時代の人口は、早期400人、前期4200人、中期14600人、後期15700人、晩期5100人と推定されています(小山修三『縄文学への道』)。そして、弥生時代が20700人で、奈良時代になると491800人と急激に増加します。弥生時代にも約4倍に増えますが、その後に大勢の渡来人がやって来て、人口が増えたのが分かります。

 水稲栽培を核とする弥生文化は、北九州に上陸して西日本へ広がります。ところが、日本海側では敦賀の辺りで弥生文化の伝播が停滞します。越国が新たな文化の導入を拒んだのです。東北や関東も同様です。それで、そのような地を蝦夷エミシ と呼んでいました。
 蝦夷の地を進む事は困難でした。それでも、海岸沿いの浦々には農耕をしない海人族が住んでいて、越国でもその先への舟での往来が可能だったようです。
 越国が弥生文化を受け入れるようになると、その地への入口が敦賀であり、北方進出の拠点となりました。
 敦賀には津守ツノカミが置かれ、越国全体の海上交通を掌握しました。とは言っても、政治力のまだまだ弱い時代ですから、漁民などは自由に出漁し、海上を制していたのは海賊だと思われます。津守に任じられた者も、海賊の首領に近い存在だったのでしょう。そして、この時期に、阿部比羅夫が蝦夷平定に水軍を進攻させたのですから、その水軍は敦賀・若狭、および能登から佐渡にかけて集めたものだと思われます。

 蝦夷地から昆布が朝廷に貢献され、それがコンブロードのはじまりとなりました。記録に伝わっているものとしては715年ですが、先祖以来とされていますからそれよりも前に始まったようです。蝦夷から海上を途中寄港しながら敦賀に入り、敦賀から陸路と琵琶湖を通って都へ運ばれました。
 その頃、昆布は最北の地からの希少品として朝廷から神に捧げられ、朝廷の権威を示すものとして貴族や神社・寺院へも配られたようです。気比や気多の神社にも供えられたはずです。
 このようにして、量的には少ないながらも昆布が北陸や畿内にもたらされました。神社は神饌としてアワビを重宝し、昆布は寺院で尊ばれました。儀式の絵イロドリとして使用され、お寺の精進料理に使われるようになりました。

 鎌倉時代になって、北条義時の代官であった津軽の安東尭秀が蝦夷地を支配するようになると、宇賀昆布が採取されて運ばれるようになり、肉厚の昆布なので、加工を施されるようになります。宇賀昆布は北陸の要津でも売られましたが、敦賀・小浜の湊に到着すると全部降ろされ、そこから京へ運ばれました。
 鎌倉新仏教の各宗派が精進料理をひろめたので、同時に昆布食も広く知られるようになりました。
 戦国時代には出陣式と凱旋の祝に、昆布はアワビと栗とともに欠かせないものになりました。また、京文化の茶の湯の点心のおかずである「茶の子」としても、昆布が重宝されるようになります。昆布の「茶の子」は京だけでなく、北陸でも親しまれました。
 京では「松前屋」が1392年に創業し、敦賀に自前の船を持って、昆布を輸送していたと言われています。

 天正18年(1590)、安東氏の家来だった蠣崎慶広が、独立して蝦夷の福山に城を築き、松前氏を名乗りました。それ以前から、若狭からの移住者がいて商売をしていましたが、この頃からは近江商人が移住しはじめます。近江商人は敦賀の湊を根拠として、松前物を京や大坂に売り込みました。

 戦国の頃から小浜では、「細工昆布」や「刻昆布」などの新しい加工品や、「みずから(水辛)」・「灸昆布」などの菓子昆布が工夫されました。天目屋九郎兵衛の「召しの昆布」は、足利義政(在将軍職、1443~1473年)に献上したと伝えられています。


昆布ロードと敦賀 その4

2021年01月16日 | 敦賀史

 

C)昆布の生産

 昆布の需要が高まると、自然の成育を待つだけでなく、何とかして昆布の収穫を増やそうとする努力がなされました。漁場を東に北へと拡張することは、昆布の産地の移動で分かります。それとは別に、決まった所での増産の方法について見てみます。

 大林雄也『大日本産業事蹟』(明治24年。東洋文庫所収版)に、「北海道昆布人工繁殖の事蹟」として、函館の山田文右衛門が開発した投石法を掲載しています。以下、文章を修正して引用します。
 文久二年(1862)六月、文右衛門が自分の漁場である沙流、勇払各郡を巡視すると、沙流郡の海浜でたまたま小片陶器(四五寸のすり鉢の破片)に昆布八九本の生えているのを認め、はじめて昆布の天然礁石のみに成育するものではなく、人力を以て海中に岩石を投じて繁殖させることを考えて、意を決して翌年より投石法を試みようとした。翌月、蝦夷人および旧来の雇人を牽いて東西を跋渉し、字「サルブト」川口において堅質の石があるのを発見した。翌年、製造した五艘の石積舟で、二万七千個の石を投入した。さらに翌年三月にも、五万個の石を投入した。翌慶応元年に例のごとく投石に着手し、前年投石した石を熟視すると、若昆布生出することが極めて多くあった。天然礁石の昆布とともに苅取った。その高、二百石になった。その後も投石を続け、明治元年には新旧昆布七百石を収穫し、後年さらに増加した。

 次に、促成コンブ養殖について、『函館市史・銭亀沢地区編』から抜き出してみます。
 昆布の促成栽培は、日本と中国でそれぞれ独自に開発され、1969年にはじめて提供されました。銭亀沢地区では昭和50年代からおこなわれたそうです。
 自然界ではコンブの種となる遊走子は、秋冬に親コンブから放出され、着底、発芽して、翌年春にコンブが姿を見せる。促成技術の核心は、人工照明と人工肥料の入った培養液の利用によって、コンブの受精、発芽期間を半分以下の二か月に短縮できたところにある。九月に地先の沿岸で採取した「沖コンブ」から種を採り、十月末には稚コンブの付いた種糸を出荷する。
 養殖漁場は水深約30メートル程度の沖合で、海底に投入した4トンのコンクリートブロックに、長さ120メートルのロープを張り、これを10個程度の浮玉で一定水深に保つ。種付けはロープの隙間に種糸を挟み込んでおこなう。種付け間隔は30から50センチで、一月以降コンブの成長を待って、小個体や変形個体を徐々に取り除き、最終的には一株五本以下に間引きする。
 間引きコンブは身が柔らかいので煮物に向き、干して出荷する。種コンブは直射日光に弱いため、当初は3メートル以深に沈めるが、春以降のコンブは成長にともなって光を求めるので、浮玉ロープを縮め、養殖コンブを海面近くにまで浮上させる。波浪や潮流を見て補強・調節を行う必要がある。

 このような促成栽培の技術によって、中国でも昆布が収穫されるようになり、逆に日本へ輸入されるようになりました。


昆布ロードと敦賀 その3

2021年01月15日 | 敦賀史

 

B)昆布の採取

 昆布の実際の採取の模様を、宇賀昆布(現在の志苔昆布)の採取地で見てみましょう。『函館市史・銭亀沢地区編』を要約します。

 まず、マコンブは採取時期や成長段階、それに生育場所によって細かく分類され、厚さや色沢、泥などの付着物の有無などによって等級分けがされています。
 採取時期と成長段階による分類基準
1、走り昆布  9月までに採ったもので、柔らかいため煮物などの食用に向く。
2、後採り昆布 10月以降に採ったもので、「走り昆布」より色が黒く、厚い。最高のだしがとれ、甘みが強いので伝統的加工品の原料とされる。
3、水昆布  細くて短く薄い一年目のマコンブを呼び、本来は禁漁であるが、二年コンブとともに混獲されたものだけが出荷される。極めて柔らかく食用に最適。「ほそめ」よりも価格が高い。

 生育場所による分類基準
1、岸昆布   海岸線近くの水深約5メートル(3尋)までの浅い岩礁に成育し、「ねじり」と呼ばれる棹先にラセン状の鉄棒が2本ついた漁具で収穫される。色が最も黒いので「黒昆布」、60枚の1束8キログラムを越えるので「8キロ昆布」とも呼ばれる。重量当たりの価格は最も高い。根元の最大幅9センチメートル以上が1等級で、平成8年度の価格はキログラム当たり2、800円であったが生産量は多くない。
2、中間昆布  水深約5メートルから15メートルのやや深い岩礁あるいは礫底に育成するもので、底質が岩礁では「ねじり」、礫では「かぎ」と呼ばれる2本の鉄爪のついたアンカー状のマッケで収穫される。コンブの幅は「岸昆布」よりもやや広いが、厚さと色はより薄い。価格も「岸昆布」よりやや低く、根元の最大幅12センチメートル以上が1等級で、キロ当たり2、700円であった。
3、沖昆布   水深が15メートル以上の深い礫の海底に成育する。もっぱら「かぎ」をロープで引き、海底の礫に成育するコンブを礫ごと引っかけて収穫する。最も幅が広く、生の状態では幅40センチメートル、長さ10メートル以上にも達するが、厚さおよび色はマコンブ中で最も薄い。価格は天然コンブで最も低いが、1本あたりの重量が大きいため、漁獲効率と製品の歩留りが高く、マコンブ生産量の中では最大である。価格は、根元からの最大幅15センチメートル以上が1等級でキログラムあたり2、530円であった。(186頁)

 昆布漁
 コンブ漁に出る資格は、戦後では漁業協同組合に加入していることが条件で、組合員一人あたり一艘の漁船を出すことができる。コンブ漁に直接携わる(コンブをとる漁具を扱う)のは一艘当たり一人に限定されるが、補助する者の乗船は認められている。
 コンブ漁の解禁日は7月20日と定められており、この日をアラキという。アラキが開けてからのコンブ漁はクチアケといい、その日の天候や海の状況をみてクチアケするかどうかを決定した。
 コンブ漁に使用する船は、モジップといわれるイソブネよりも大型の漁船で、これを二人乗りで使用した。昔はモジップもイソブネ同様ムダマの船で、ムダマの口(幅)は四尺から四尺五寸あった。イソブネのムダマは三尺二、三寸のものが多かった。
 最初に「岸コンブ」採り、それから「中間コンブ」を採る。「沖コンブ」は藻体が大きく歩留まりもよいが、広い干場を要し価格も安いため小漁家では採らないことが多い。
 採取したコンブは陸揚げし、その日のうちに砂利を敷き詰めた干場で天日乾燥し、一日で干し上げるのが普通である。干場に敷く小石や砂利はかつて近郊の海岸や河原から人力で運んだものであるが、近年では黒色の採石をトラックで運び、敷き詰める例が多い。これは黒色の石が太陽光線をよく吸収し、コンブの乾燥に優れているためと思われる。
 完全に乾燥したコンブは夕方納屋に取り入れる。これを根元から90センチメートルに切ると「長切り昆布」として出荷できるが、人手の多い漁家では、伝統的な「本場折り昆布」に仕上げる。これは極めて手間のかかる処理で、その工程は15段階以上ともいわれる。(189、263頁)

 ここに出てくるイソブネ(ムダマ)の構造は、出雲から越前海岸辺りで使用された「ソリコ舟」によく似ています。出雲の方からソリコ舟にのって、越前に移住してきた漁民がいて、その集落は「そり子」・「反子」と呼ばれて、先住民とは区別され、漁業権でも差別されたそうです。(谷川健一『古代海人の世界』)
 その他にも、若狭から能登へ移住した例や、立石からの移住もあった事が、同書に岡田孝雄氏の研究を引いて述べられています。若狭や敦賀の立石からの移住がソリコ舟に乗ったものだったかは分かりませんが、越前海岸からは丹後半島がよく見える地勢ですから、その間の若狭や敦賀の漁民もそれほど違った舟に乗っていたとは思えません。
 ソリコ舟は、元来一本の丸木舟だったものを縦に二つに割って切離し、船底に板を挟んだ構造をしています。したがって、丸木舟よりも幅が広く、船底は平たくなっています。ソリコ舟に帆を張って、かなり遠方まで航海ができたと言われます。
 そんなソリコ舟で北上し、蝦夷地まで往来したとしても不思議ではありません。先のムダマ舟がソリコ舟と同じ構造ですから、若狭周辺の漁民・海人から伝わったものかも知れません。
 
 丸木舟が昔からあった事は、三方町の鳥浜貝塚から全長6メートル以上の丸木舟(約5500年前のもの)が発見されていることで証明されています(『日本の古代』第4巻)。縄紋人は丸木舟にのって漁や交易をしていました。
 若狭から越前海岸に沿って能登へ、能登からは佐渡が島がすぐ目の前です。糸魚川辺りでしか採れないヒスイや、北海道の黒曜石が、青森の山内丸山遺跡から出土しています。広い範囲での交易があったと思われます。


昆布ロードと敦賀 その2

2021年01月14日 | 敦賀史

 

  1、昆布

A)昆布の産地

 昆布の特色の一つは、その産地が限定されていることです。しかもその地域は、政治的に辺境の地であった、北方に位置しています。したがって、昆布が太古よりその地(海)に繁茂していたとしても、それを採取して利用するようになるのには、その地方への意識的な進出が前提となります。古代には、その地は蝦夷エミシ・エゾの地で、畿内から蝦夷への最初の進出は『日本書紀』の崇峻スシュン天皇の二年(589)に、阿部臣アベノオミ を越コシの国境へ派遣して視察させたとあります。そしてその頃には、北陸沿岸や佐渡の要所に部下を配していたともされます。
 その後、斉明サイメイ天皇の時代に、阿部引田臣比羅夫アベノヒケタノオミヒラフが越国守コシノクニノカミに任じられて、水軍を派遣して越の蝦夷を討ち、更に東北から北海道の蝦夷を征服した(658~660年)と伝えています。しかし、畿内の政権が成立するのは大宝律令の制定(701年)以降のことですから、この時代に北陸の日本海沿岸を支配していたのは、敦賀に根拠を置く角鹿海直ツヌガノアマノアタイの一族でした。水軍を組織できたのも畿内の豪族ではなく、新羅シラギ・シンラ などから一族を引き連れて移住してきた、海に生き、船を操る人々であったはずです。
 新羅からやって来て敦賀(角鹿、thun-ga,tsun-ra)に住み着いた一族のこの時代を、天野久一郎『敦賀経済発達史』(昭和18年)では「天日槍アメノヒボコ植民時代」としています。
 新羅などから一族で渡来してきた指導者については、天日槍の他に都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト が有名です。しかしこれらは個人の名前ではなく、天日槍の天は海(どちらもアメ・アマ)のことですから、金属製の武器を装備して海を渡って来た者の総称です。
 都怒我阿羅斯等も別名于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキと言い、新羅国内の海軍族の一族の長を指し、その一族が角鹿に到着したので都怒我の名を名乗ったのでしょう。敦賀に住み着いたこの一族は、敦賀の地を根拠として日本海沿岸の要津を行き来し、北へは能登・佐渡や、さらに蝦夷地へと、船で進出したことが伝説化し、それを『日本書紀』編纂期(720年)に取り入れられたのです。
 敦賀の海人族が北方へ進出した痕跡は、能登羽咋郡の久麻加布都阿羅加志彦神社や能登郡の加布都彦神社阿羅加志彦神社、鳳至郡の任那彦任那姫神社などに、角額の兜を着た人がやって来た話が伝わっていることで証明されるだろうと、吉田東伍『大日本地名辞書』1860頁にあります。

 昆布の文字が日本の文献にあらわれる最初の記録は『続日本紀ショクニホンギ 』(797年)の中の記録です。そこには霊亀レイキ 元年(715)の記録として、「蝦夷須賀君古麻比留スガノキミコマヒル (蝦夷の族長)等言う。先祖以来、昆布を貢献す。常に此の地に採る。年時、闕カカサ ず」とあります。
 この昆布はホソメコンブ(細布昆布)と言われる種類で、昆布のなかで一番暖かい所を好む種類とされます。北海道南部の箱館(函館)より西の狭い地域で採取されました。この昆布が蝦夷からの貢献品として日本海沿岸を敦賀まで船で運ばれ、山を越えて琵琶湖に出て、水運で琵琶湖を渡り(琵琶湖の水運を制していたのも天日槍系の一族でした)、朝廷へと運ばれたのです。
 これがコンブロードのはじまり(縄紋時代を除いて)です。コンブは、アイヌ語のcombu(水の中の石に生えるもの)を語源とする説が有力ですが、中国では紀元300年頃から昆布の文字が使われています。しかし、中国の「昆布」は海藻全般を含む文字だったようです。
 
 食用の昆布は植物学的には、コンブ目コンブ科コンブ亜科のコンブ属とトロロコンブ属に分類されます。コンブ属にはマコンブ・リシリコンブ・ホソメコンブ・チヂミコンブ・ミツイシコンブ・ナガコンブ・ゴヘイコンブなどがあります。文献の記録として最初にあらわれた昆布がホソメコンブです。
 奈良・平安時代がホソメコンブの時代です。続いて、宇賀コンブの時代になります。
 
 鎌倉時代になると、安東氏が蝦夷地の管領となり(1195年)、松前物産の交易が飛躍的に拡大します。
 宇賀昆布は函館の湯の川温泉あたり、津軽海峡に面した所で採れます。マコンブの中でも最も幅が広く、一番大きい種類です。この昆布の時代が江戸初期まで続きます。そして、箱館近辺や津軽の十三湊トサミナト から、やはり北陸地方を経て敦賀・若狭に運ばれ、昆布の加工も行われるようになりました。
 この時代には、敦賀が戦乱に巻き込まれて、港の機能が停止し、船が小浜に集中するといった事もありました。また、唐船に昆布を売ったという記録(1306年『東日琉ツガル 外三郡誌』)もあります。京都「松前屋」の創業は1392年です。
 
 江戸時代初期に、松前から下関を廻って大坂までの西廻り航路が開かれると、昆布の漁場もさらに東へ進み、元揃モトゾロイ 昆布と三石ミツイシ昆布の時代に入ります。元揃昆布は噴火湾で、三石昆布は日高で採れます。大坂で、昆布の佃煮が開発されました。
 北海道の開拓が襟裳岬を越えて北方に及ぶ幕末になると、長昆布の時代になります。昆布は琉球(沖縄)を経て清国(中国)へ大量に輸出され、函館が開港されると清国の商人が駐留して、直接に中国へ送られました。長昆布は煮食シャクショクに適し、沖縄での昆布食が根付くことになります。
 
 その後、昆布の需要が増え続き、天然のままを採取していたのでは追いつかず、増殖・促成の方法が開発され、中国でも輸入を止めて、昆布を日本に輸出(1972年)するようになりました。


昆布ロードと敦賀 その1

2021年01月13日 | 敦賀史

 

はじめに

 昆布は不思議な食品です。北の海(北海道と東北の一部)でしか採れないのに、日本全国で食べられ、様々に加工され利用されています。一人あたりの消費量は富山県と沖縄県が一位二位を争い、日本の最も北でしか採れない昆布が、一番南の沖縄で毎日の食卓に欠かせない食材となっています。昆布の食べ方にも、各地でいろいろあって面白いものです。
 海に生えている昆布をそのまま食べるのは、貝類や往古の海牛(デスモチルス)をはじめとする哺乳類ですが、人は採取した昆布を干して乾燥させてから食べることを思いつきました。浜に打ち上げられた昆布が自然乾燥し、それを食べたところから昆布を干すすべに思い当たったのでしょう。
 海から揚げたばかりの濡れた昆布を、北海道辺りの原始の人々は食べたのでしょうか? しかし、魚介類が豊富にある時にはほとんど無視されたと思われます。
 干して乾燥した昆布を食べるのが、昆布食のはじまりのようです。乾燥していれば保存が効きます。昆布は人類最初の保存食として、厳寒期に食されたのでしょう。また、乾燥した昆布は移送がたやすい。昆布は最初の長距離交易食品であったかも知れません。
 
 出し汁をとって、あとは捨ててしまう使い方があれば、昆布を煮込んで食べる所も多くあります。さらに昆布は、様々に加工できます。
 まず、形を変えます。細かく切ったり、あるいは酢で柔らかくして薄く削ったりします。調味料と共に煮込んで、味や歯ごたえを楽しむのにも色々な種類があります。お菓子として加工するのも古くから行われています。

 昆布は採れる所が遠く北に限定されていますので、古くは貴重品として神や仏に供えられ、大切に利用されました。
 後に、海運が盛んになると大量の昆布が北から移送され、庶民の食卓へも上るようになり、日本の一般的な食品となったのです。
 特に戦時中、昆布は統制の対象になり、需要の有無にかかわらず全国一律に配給され、食料の不足した頃ですからそれまで昆布を食べなかった所でも食べるようになりました。
 
 昆布は、日本の食文化を代表する食品であるばかりでなく、借金国だった薩摩藩を清国への昆布輸出で儲けさせ、近代兵器を備えた強国へと転換させ、それによって幕府を転覆させて日本の近代化を決定づけた、政治的にも大きな役割を果たした史上希な食品でもあります。
 したがって、昆布に関する全貌を知ることは、日本のはじまりからの全てを知ることと同様に、その広がりも深さも大きく、わずかの知識や労力では追いつきません。それで、以下では、昆布と敦賀の結びつきにしぼり、簡略に述べるにとどめます。
 昆布が特殊な食品であるように、敦賀も特殊な地勢の町として位置づけられます。敦賀の昆布との出逢いも、その特殊性によるものです。昆布が敦賀を変え、敦賀も昆布を変えて共存を計って来ました。そのパートナーシップに光をあてることが出来れば幸いです。