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マルクス剰余価値論批判序説 その22

2021年03月13日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その22

 

(11)『資本論草稿集』第一巻、一六〇~一六一頁。

(12)「私的交換にもとづく生産システムは、なによりもまず、この自然生的な共産主義の歴史的な解体である。……」(『資本論草稿集』第二巻、八一一頁)。

(13) 「貨幣それ自体が共同制度なのであって、自分のうえに他のものが位することを許すことができない。」(『資本論草稿集』第一巻、二四四頁)。「貨幤はここでは事実上、諸個人の共同制度が彼らの外部に物として実在しているものとして現われる。」(『資本論草稿集』第三巻、四九頁)。「貨幤関連――そこでは諸個人の共同制度そのものがひとつの外的な、だからこそまた偶然的な物として、すべての人々に対立して現われる」(同、一二一頁)。

(14) MEW二三、五二頁。マルクスは、対立の統一としての概念を説明するに当たって、対立的な形容詞を二つ並べる場合がある。sinnlich "ubersinnliches Ding(MEW二三、八五頁)は有名だが、適切な表現であるとは思えない。

(15) MEW二三。七三、八二、九二、九四、一〇九、三五〇、四〇七、七九〇頁。

(16)メルロ=ポンティが『弁証法の冒険』で使っている、「社会の社会化Vergesellschaftung der GeseIIschaft」 は、その内容から言えば、ゲゼルシャフトではなくゲマインシャフトの社会化であり、言葉の使い方は間違っているものの、意味は理解できる。しかし、マルクスの社会の社会化は、社会の直接化であり、直接的な社会というものは概念的に成り立たない。それは、社会ではないのである。止揚された社会というものは、人類にとって未知のものであり、名づけられていないものである。社会主義社会や共産主義社会は、それが社会である以上、理想的な資本制社会、すなわち、唯一の資本家とその他全ての労働者とからなり、資本間の競争が止揚されて、唯一の資本による計画的生産が行われる資本制社会である。

(17)複数の労働者が同一の資本によって協同する場合の、個人のカの足し算を越える生産力の発揮を、マルクスは、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力であると言う(MEW二三。三四九、三五二、三五四、三八六頁)。だが、同じ労働を、直接に社会的またはゲマインシャフト的労働であるとも言う(同。三五〇、三五二頁)。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その21

2021年03月12日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その21

 

(1)『資本論草稿集』第二巻、五〇一頁。

(2)「一階級などに属する諸個人には、それらを止揚することなしには、それらを全体として克服することは不可能だということがわかる。」(『資本論草稿集』第一巻、一四八頁)。

(3)「三大社会階級。これら三階級のあいだの交換。流通。信用制度(私的)。」(『資本論草稿集』第一巻、六二頁)。

(4)『資本論草稿集』第一巻、三一二頁。

(5)『経済学批判』岩波文庫、一三頁。

(6)この『経済学批判』の序言の一節は、『資本論』にも引用されており、マルクスにとって社会と社会の上部との区別は、決定的である。『資本論』第一巻では、ゾツィアールは社会の上部を指すものとして、ゲゼルシャフトと明確に区別されて使われている。ディーツ社『現行版』( MEW二三)で、その箇所を示せば、次の通りである。

①一六、②九六、③二四六、④二四六、⑤二八〇、⑥三一五、⑦三二五、⑧五二七、⑨五二八、⑩六一四、⑩七七四頁。

(7)マルクスの考察の対象は社会なので、社会の上部における、その物的および意識的諸形式については、ほとんど触れられていない。しかし、マルクスが、物的形式としての土台と上部建築という二重構造を指摘すると同時に、意識形式についても、ゲゼルシャフト的意識形式とゾツィアールな意識形式との二重性をとらえていることは、ほとんど理解されていないが、重要である。社会的意識形態についての、河上と福本の論争は、河上がこのことに無意識的に気づいていたことから、生じたものである。

(8)「社会のうちで生産している諸個人がーーそれゆえ諸個人の社会的に規定された生産が、もちろん出発点である。」(『資本論草稿集』第一巻、二五頁)。

(9)「彼らの生産は直接には社会的ではない」(『資本論草稿集』第一巻、一三九頁)。

(10)「大工業の生産過程では、一方で、自動的過程にまで発展した労働手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定在における個々人の労働は、止揚された個別的労働として、すなわち社会的労働として措定されているのである。」(『資本論草稿集』第二巻、四九六頁)。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その20

2021年03月11日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その20

8、社会化

 

現実のゲゼルシャフトは、物象に媒介された、非直接的なゲゼルシャフトである。したがって、その止揚されたものは、直接的なゲゼルシャフトであるということになる。この、直接的なゲゼルシャフトとは、端的にはゲマインシャフトである。しかし、ゲマインシャフトという言葉は、ロマン主義的な、反動的な語感があるので、進歩的表現としてこの語を使うことには、ためらいがある。連合やアソシーションについても、それらの抽象性を批判してきた経過がある。結局、マルクスは、ゲゼルシャフトを止揚したところの人間関係を指す言葉を、見つけていない。と言うよりも、ゲゼルシャフトを絶対的なものとしたので、それ以外の言葉を使う必要性を感じなかったのだろう。

だから、マルクスは、現実の矛盾に満ちたゲゼルシャフトを止揚したものとして、直接的なゲゼルシャフト、あるいは「社会化」という表現を使ったのである。(15)

マルクスは、現実的なゲゼルシャフトの矛盾を克服するために、ゲゼルシャフトのさらなるゲゼルシャフト化(16)を志向したのである。

ここには、マルクスが若い頃に批判した、ゲマインシャフトの一体性や全体性に対する、敵愾心の強さのほどが見える。しかし、あまりにもゲゼルシャフトに執着する姿勢からは、マルクスのプルジョア的自尊心もまた、滲み出ていると言えよう。

マルクスは、特に、労働過程の分析において、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとを、混同させている。(17)

それは、物質的生産過程(実在的土台=ゲゼルシャフト)が、労働過程と交換過程とに区別され、労働過程が実際には、社会の外部に存在するのに、社会を絶対化するマルクスは、そのことに気づかないからである。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その19

2021年03月10日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その19

 

7、物象による媒介

 

さらに、社会は、物象に媒介されることによって成り立っている諸個人の連関であり、ゲマインシャフト性が人間から疎外されて物象のものとなっている状態である。物象こそがゲマインシャフトをなしており、人間はそれに支配されることによって、間接的に共同存在でありうるにすぎない。

この、媒介されている状態を社会とするか、それとも媒介を抽象して単なる諸個人の連関を社会とするのか。ここでもマルクスは揺らいでいる。どちらをも、社会的であると一言うのである。

『資本論』においても、社会的であることの曖昧さは、克服されていない。それどころか、さらに混乱が深まっている。

まず、商品の価値は、ゲマインシャフト的であるとともにゲゼルシャフト的でもあるような実体の結晶であると言う(14)。これは、商品はゲゼルシャフト的すなわち孤立的・個別的なものだが、価値はその個別性を解消せずに孤立性を止揚したゲマインシャフト的なものであるということの、きわめてまずい規定である。

マルクスは、商品から始める。しかも、階級関係ではない私的交換の商品から始める。しかし、商品の私的交換は、階級関係がなければ存在しないことは、マルクスが以前に確認したことである。

マルクスは、階級関係ではない商品から始め、階級関係ではない貨幣を説明し、階級関係ではない剰余価値の創出を論証する。階級関係は、剰余価値の創出の謎が暴露された後で、初めて明らかにされる。

このような、マルクスの叙述の展開の方法は、いわゆる上向法や弁証法によってなされたものではない。マルクスの社会観によってなされたものである。

マルクスにとっては、社会が基準であり目標である。マルクスは社会を、独立した個人的人間たちの関係としてのゲゼルシャフトを、求めるのである。それは、没個性的な、非自立的な、類的一体性としてのゲマインシャフトから発展したゲゼルシャフトの進歩性に対する、絶大なる讃美である。

マルクスは、ゲゼルシャフトの成長期の思想家であった。ゲゼルシャフトが全世界に拡がりを見せようとする時代の、思想家だった。

たしかにマルクスは、ゲゼルシャフトの進歩性と共に、その矛盾をも看取した。しかし、ゲゼルシャフトを絶対的なものとすることによってマルクスは、その矛盾そのものがゲゼルシャフトであるとはせずに、矛盾を止揚したものもまたゲゼルシャフトであるとしたのである。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その18

2021年03月09日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その18

 

6、階級の抽象

 

マルクスは社会を、個人と個人との連関の様態として捉えた。それは、没個別性としてのゲマインシャフトからの、個人的人間の発生であった。さらにマルクスは、社会における個人が、階級に規定されて、階級的諸個人としてのみ存在していることを把握した(『哲学の貧困』)。

ところが『経済学批判要綱』以降のマルクスは、諸個人の階級的規定を、曖昧にするのである。それは、マルクスの階級規定そのものが、生産(労働)的規定であると共に政治的規定でもあるというところにある。マルクスは階級を、実在的土台において規定すると同時に、上部構造における行動(政治闘争)においても規定しようとするのである。だが、上部構造(社会の上部)においては、資本家も労働者も共に人間であり、対等で同等な人格である。

階級的観点が揺らぐと、社会は、階級に規定された諸個人の連関ではなく、単なる諸個人の連関とみなされる。