TEAM HAYASAKA

四国八十八か所巡礼お遍路の旅 第13回 ST4S復活 

26.6.15(日)
愛車ドゥカティ、車検を受けて復活。バッテリー、タイミングベルト、ステムベアリングを交換した。これでツーリングはいつでもOK!




ピカピカになったST4S


昼からは、南予へ巡礼に出掛ける。
まず、「道の駅みま」へ。




ジャンボにんにくなど、地産品が多数ある。


三間町出身の有名人


畦地梅太郎展


さわは、今日はかき氷を食べていた。


かほ



第41番札所龍光寺
<龍光寺>
大同2年に弘法大師が巡錫中、稲束を背負ったひとりの白髪の老人と会った。「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であると感得、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とし、開創したと伝えられる。
三間平野は、南予有数の穀倉地帯だ。五穀を司る稲荷大明神は農家の守り神として信仰を集め、商売繁盛のご利益もあると商人からも崇敬された。
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。
階段を登るが、前回の岩屋寺に比べれば大したことはない。

鐘を撞く。


本堂


大師堂



第42番札所仏木寺
<仏木寺>
大同2年の頃、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した「般若心経」と「華厳経」一巻を奉納したと伝えられる。
その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。




鐘は必ず撞く。


本堂と大師堂。




徳島から来た女性のお遍路さんに、ナビが壊れたので次の寺まで案内してほしいと頼まれ、3人が乗っている軽四を第43番札所までD5で先導する。

三間町から山の中を抜け、西予市宇和町にある第43番札所明石寺へ、17時前ギリギリに到着。今日は最初の龍光寺から、大型バス2台でやってきたお遍路ツアーの人たちの前を行っていたが、納経所に行くとなぜかいつもツアーバスのお遍路さんの納経帳の方が先に山積みになっていた。ツアーの添乗員が先回りして、納経所に何十人分もの納経帳や白衣を持ち込んでいるのだ。
17時に納経所が閉まるので参拝する前に納経所に行くと、やはりここでも納経帳が山積みになっていた。徳島のお遍路さんたちといっしょに待つこと30分以上。一方、ツアーのお遍路さんたちは、後から来たのにさっさと参拝を終えて帰っていく。こちらはやっと記帳を終え、お詣りはこれからだ。
最初は腹が立ったが、ツアーを主催したという第2番札所極楽寺の若いお坊さんから丁重なお詫びがあったので寛容になる。
最も、このような光景はどこの札所でも見られることではあるのだが…。まだまだ自身の修行が足りないようである。


第43番札所明石寺
<明石寺>
この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532~571)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。
弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809~823)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の「法華経」を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。
以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。








本堂


大師堂


お遍路さんに今日も「ムチムチやねえ」と何度も声を掛けられたかほ。



第13回四国八十八か所巡礼の旅・・・第41番札所龍光寺、第42番札所仏木寺、第43番札所明石寺。



コメント一覧

はる
そうかな?
どっちに似ているか、自分ではわかりませんが…。
近々みんなと家族もいっしょにビアガーデン行きましょう。
もり
そっくり
かほさんは、ハルさんにそっくりやねぇ。さわさんは、お母さん似よね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「四国八十八か所お遍路」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事