作家 氷室 瑠璃 

ひまわり畑は脱原発の象徴 。
世界中の核廃絶を願い執筆活動中!
リアル瑠璃をツイートしています。

心で話す「風の電話」 岩手・大槌町 遺族と犠牲者つなぐ…  心の中に生き続ける大切な人へ伝えたい思いを… 

2013-09-30 23:50:09 | 岡山へ移住支援情報
 心で話す「風の電話」 岩手・大槌町 遺族と犠牲者つなぐ


東日本大震災で千二百人余の命が失われた岩手県大槌(おおつち)町の海を望む高台に、電話線がつながっていない電話ボックスがある。

会えない相手に思いを伝える「風の電話」。震災から十一日で二年半がたつが、今日も誰かが風に乗せ、大切な人と心を通わせている。 (高橋貴仁)

 白枠の電話ボックスに、ダイヤル式の黒電話が一台。黒電話の横には、「風の電話は心で話します」と記されている。

ノートも備えられ、訪れた人が思いをつづっている。

「あの日から 二カ月たったけど、母さんどこにいるの? 親孝行できずにごめんね。あいたいよ。絶対みつけて、お家に連れてくるからね」

「貴方(あなた)の白髪がとにかく懐かしいです。私はこれからの生活に全力を出して貴方の娘を守って行きます」

 受話器を手に静かに話し掛ける人や、泣き続ける人。訪れても、躊躇(ちゅうちょ)して電話ボックスに入れない人。いまも一人また一人と訪れる。

 風の電話は、ガーデンデザイナー佐々木格(いたる)さん(68)の自宅の庭で、花に囲まれている。

佐々木さんは震災前、いとこをがんで亡くした。悲しむ家族を癒やそうと、二〇一〇年冬、不要となって譲り受けた電話ボックスを庭に置いた。

「暖かくなってから、周りに花を植えて完成させよう」。春の訪れを待っていたら、震災が起きた。

 多くの命が奪われた。「遺族と亡くなった人の思いをつなぐことが必要と思った」。

震災の混乱も収まらない一一年四月、急いで電話ボックスの周りに植栽した。

 うわさは人づてに広まり、次第に人が訪れるようになった。

「気丈にしている人でも、実際は心の中で泣いている人が多い。心情を吐露することで、少しでも苦しみから楽になってほしい」と佐々木さん。

風の電話を知った東京の出版社から、本の提供を受けた。これをきっかけに、庭に立てていたれんが造りの二階建ての小屋を図書館にすることを決めた。

児童書や絵本を置き、「森の図書館」と名付けた。一二年四月に開館し、蔵書は六千冊に上るという。

佐々木さんは「本当の豊かさや、心の問題を考える時代にきている。風の電話や森の図書館は心のインフラだと思っています」と話している。



    この記事を読んで、ブログに載せたいと思いました。

   それは、「戦禍の子」の心を受け取った時の事を思い出したからです。

   生きている者と、亡くなった少女との会話が現実に存在するわけは無いのかもしれない…

   「風の電話は心で話します」この言葉をかみ締めています。

   心で受け取った少女の願い「私たちの転生する未来に核はいらない!」
   
   ヒロシマ、ナガサキ… そしてフクシマ 核の悲劇は私たちを悲しみと苦しみの極に追い詰めてゆきます。

   私たちは、その悲しみと正面から向き合わなくてはなりません。

   そして、放射能の処理、原発の処理、地球環境の再生…

   脱原発ははじめの一歩です。希望の芽は必ず心に芽吹きます。諦めないで…本当に望む未来を心に描きましょう! 

                                       瑠璃

   
    

福島第一元作業員の「遺言」詳報 東電、信用できない。 昔も今も変わらぬ原発体質の真実!

2013-09-30 22:53:03 | 脱原発に一票
前回「戦禍の子」第3話 十字架を背負った男の中で「人形峠」でのウラン採掘工夫たちの現場の証言を綴りました。

人を人とも思わぬ扱い…使い捨ての道具か何かのように人の命を軽んじる体質はこそが、「原発」そのものなのです。

「原爆は、人間を使った人体実験であった。」この受け入れがたい真実から目を背けたからこそ、「原発」を正当化し「核の平和利用」という言葉に騙され

続けてきたのだと思います。人類に課せられた課題は「核」を手放す事だと思います。脱原発はそのはじめの一歩です。

福島原発は人災です。下記の「遺言」からも立証されるでしょう。

福島第一元作業員の「遺言」詳報 東電、信用できない

 2013/9/13 16:13  神戸新聞

 福島第一原発事故が起きたとき、1号機内部にいて、今年8月にがんで亡くなった元作業員の木下聡さん(65)の証言は次の通り。

 ‐事故当時の様子は

 あの日は午後から、1号機で定期検査のための足場を組む作業をしていた。1階には私と同僚の2人。4階に元請けと協力会社の4、5人がいた。

 最初の揺れはそれほどでもなかった。だが2回目はすごかった。床にはいつくばった。

 配管は昔のアンカーボルトを使っているから、揺すられると隙間ができる。ああ、危ないと思ったら案の定、無数の配管やケーブルのトレーが天井からばさばさ落ちてきた。落ちてくるなんてもんじゃない。当たらなかったのが不思議。

 4階にいた人たちは水が大量にゴーと襲ってきたと言っていた。それが使用済み燃料プールからなのか、非常用復水器が壊れたからなのか、そのときは分からなかった。

 皆で集合して、1号機から脱出した。地震が起きてどれぐらいだったかな。必死だったからはっきりしないけど、10分ぐらいじゃないかな。

 途中の様子も恐ろしかった。タンクはぼこぼこ倒れてるし、潮が引いていて、これは津波が来ると思った。沖のテトラポットがむきだしになっていた。敷地内にある元請けの事務所に戻り、装備品を返して、まとまった班から解散になった。

 正門を出た。いつもなら浜側の道を通るが、陥没していたから、山側の道を行った。あのまま浜の道を通っていたら、津波にやられとった。

 東電は「全電源喪失と地震の揺れは無関係」と言っているが、そんなのあり得ない。謙虚に検証する姿勢がないと、安全神話が復活する。

 そもそも、運転開始から40年になる1号機の老朽化はすごかった。重要器具は定期検査で交換するが、周辺の装置はそのままだ。追加、追加でどんどん配管を増やし、耐火構造にするために防火剤を塗りつけるから、重量は半端じゃなかった。設計基準を大幅に超えていたはずだ。

 建屋のコンクリートも相当劣化していた。インパクトドライバーを当てると分かる。ずぶずぶと刺さって、粉は真っ白。鉄筋をモルタルで塗り固めるときもクレーンで流し込むだけ。本来はバイブレーターを使うが、竹の棒で突っつくだけ。施工はひどいものだった。だから水素爆発で粉々に吹き飛んだ。

 ‐東電への思いは

 ずっと世話になったが、今は言っていることの半分も信用できない。事故後の対応については新聞をずっと切り抜いている。「4号機の建屋、問題なし」という記事があるが、そんなのうそっぱちだ。あれだけ揺れて「問題なし」だなんて。

 事故後の対応は全てメーカー任せだった。正常に作動していればメルトダウンを防げた可能性がある非常用復水器(緊急時に原子炉の蒸気で冷却)も、当直の社員は使い方を知らなかったって言うんだから。当直の人は、中央制御室の操作はできても、せっかくの冷却装置を使えない。訓練もしていなかったって言うんだから、恐ろしい話だ。現場にいた私らに明確な指示があれば、対応できたはずなのに。

 3月には仮設の配電盤にネズミが入って停電する事故があった。侵入を防ぐ初歩的な施工ができていない。熟練した作業員が線量オーバーで入れなくなっているから。今後も事故は起きるだろう。

 人生のほとんどを原発に捧げてきたのに、情けない。のんびり暮らそうとした途端、病気が分かった。体力は元気なときの10分の1になって、ペンも持てなくなった。

 だけど、簡単には死ねない。納得できない。俺は俺で、じたばたして生きてみせる。

(聞き手・木村信行)

嘘で塗り固められた 安全神話 原子力発電所は 早晩内部から崩壊する「砂上の楼閣」に過ぎないのです。全国の原発施設も例外ではありません。

第二、第三の悲劇を食い止めるために「脱原発」で一つになりましょう。瑠璃

絵とあらすじで綴る戦禍の子。第3話  十字架を背負った男 (岡山と原発の歴史をたどり 今思う事…)

2013-09-28 13:38:54 | ブログ小説「戦禍の子」

絵とあらすじで綴る戦禍の子。 

【第3話 十字架を背負った男】
   

 あらすじ

 夜になると人も近寄らぬ寂しい峠道… その峠には「この世とあの世を繋ぐ異界への入り口」そんな言い伝えが今も残っている。

いつごろからだろうか… 峠の頂上から少し下ったあたり、そう首の無い母子地蔵の辺りを、

身の丈の倍以上もある石の十字架を背負い、ずりり…ずりりと引きずりながら闇の中から突然現れ、いずこかへと消えてゆくという者がいると…

峠を彷徨う亡霊か、はたまた狐狸の仕業かと… 噂は噂を呼び今では誰一人近づくものはいない。


 それだけではない、村人たちがその峠に決して近寄らぬにはもう一つの深い訳があるのだ。


「死の山」だからだ。その辺り一帯は鳥も虫けらすら住めない死の森… 放射能に汚染された森なのだ。

かつて村人たちはみな目に見えぬ放射能(奇病)に怯え村を捨てた。先祖代々の土地を、山を捨てたのだ。

そして生き残った村人達は山向こうの谷あいの集落に逃れた。


 その峠ではかつてウラン鉱山が採掘され、一時はウラン特需に沸きかえった時代があった。

ところがあの忌まわしい事故の後、原発施設は見捨てられ放置されたまま廃墟と化した。

掘り出されたウラン鉱石のぼた山は、野ざらしのまま放射能を垂れ流し続けている…

わずか100人足らずの村の、半数以上が十年にも満たぬまに次々と死んでいった。

村人を苦しみ続ける奇病が、放射能によるものだと気付いたのはずっとあとからの事だ。
 
 少女が迷い込んだセカイで見たものは… 十字架を背負った男とは… 


 
 【物語の概要 と 時代背景】 第3話 十字架を背負った男

十字架を背負った男の舞台は、原発発祥の地「人形峠」であり、また原発を抱えている全ての市町村の象徴です。
 
1954年~1990年 そして、2011年現在まで、少女の魂は過去から未来へと原発に翻弄されてゆく村の様子を垣間見るのです。

自分の命を奪った『原爆』が『原発』に姿を変えて人々を苦しめていることを知りました。

広島、長崎の原爆投下で、敗戦を迎えた日本は、「核のないセカイ」へ向かったのではないのか?

 

              原爆戦没者の慰霊碑に刻まれた誓い


          安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから



 ついに約束は果たされず、65年の歳月が過ぎた。広島、長崎に投下された「原爆は」「原発」と名を変え、

核の平和利用の名の下に、国策として庇護され増殖していた。戦後の復興、高度成長時代、所得倍増計画、バブル…

拝金主義政策を隠れ蓑に、取り返しが付かないほどまでに… なんの保証も無い安全神話に踊らされてきたのだ。


 そんな時代、誰が「原発」の危険性に、真剣に関心を向けただろうか?警鐘を鳴らす者の言葉に誰が耳を傾けただろうか?

そして、広島、長崎の被爆者の体験を、誰がわが事と受け止めただろうか?

放射能の恐ろしさを身をもって体験した多くの国民がいる事など、省みようともせず突っ走ってきた責めは誰にあるのだろう…

 私は中学校の修学旅行で長崎に行きました。その当時は広島か、長崎が修学旅行の定番だったと思います。

卒業アルバムを開いてみると、巨大な平和の像、みんなで折った千羽鶴を捧げる様子、浦上天主堂の写真がありました。

遠い記憶を手繰り寄せても、平和学習の記憶すら印象に残っていません。

 そんな私たちが大人になり、親の代で造ってきた「原発」の甚大な被害を被り、その途方も無い処理を引き継がなければならないのです。

誰も逃れる事はできません。原発推進派、原発反対派と云えども、呉越同舟なのです。

 私は、高知で生まれ育ち、妊娠8ヶ月で岡山へ来ました。少女からのメッセージは高知で書きとめたものです。

娘が生まれ、幼稚園に行くようになって、初めてメッセージを読み返しました。2008年頃です…

その時ですら「原発って何だろう? 危険って何の事だろう…」原発に対して浅い知識のかけらも持ち合わせていませんでした。

まして「戦争や、原爆は」ニュースで聞くだけの過去の出来事でしかないのです。

 毎日の生活と子育てに追われ、目先の事意外目に入らない毎日に追われていました。

そんな日常の中で、原爆で死んだ女の子からのメッセージの話を真剣に聞いてくれたのは主人だけでした。


「戦禍の子のメッセージは、何よりも大切な事だから、きちっと書き上げて送り出してよう!」

そういって、背中を押してくれました。


そのメッセージとは一言で言えるほど短いものでした。


「原発と、原爆は同じもの、あたしの転生する未来に核はいらない!」



少女は2011年の未来を生きているわたし達に,過去から原発の危険性を警告してきたのです。



「もう、時間がない… 時間がないの…… 瑠璃早くメッセージを伝えて!」


時間が無いとはどう云うことなのか?何故急ぐのか?皆目検討がつきませんでした。

そして、しぶしぶながら、主人の言いつけを守り、毎日机に向かい書き始めたのが「戦禍の子」です。

書いてゆく中で私自身が、「原発」と言うものの危険性を初めてを知ってゆきました。

物語を通して、疑似体験をするように少女とともに体験してゆきました。

ここで云う体験とは、追体験と思ってください。体験者の体験を追いかけ、心で感じ考えるということです。

実体験の無い者には、体験者の気持ちや、体験はわからないのです。感受性で受け止め考える事しか出来ないのです。



 この事がきっかけで、日本の原子力発電所の歴史や、問題を考えるようになりました。

それは、この物語をブログにアップするようになって、「戦禍の子」の物語の検証をしてみようと思い始めた2011年の事です。


その時、お力を貸してくださったのが、西江清吾「放射能のゴミはいらない!県条例を求める会」の方です。

岡山県の高レベル廃棄物拒否運動の先陣に立ってこられた方です。

物語の事を理解してくださり、参考にと3冊の貴重な冊子を届けて下さいました。

その3冊とは、

 「原発のゴミはどこにいくのか 最終処分場のゆくえ」狙われている現地からの報告 青森、北海道、岐阜、岡山
 
 「原発ゴミの危険なツケ 最終処分場のゆくえ2」 原発はトイレ無きマンション。

 「漂流する原発ゴミ あなたうけいれますか」今も狙われている中国山地。

 被災地からの移住者が大阪に次いで第二位の岡山ですが、実は、福島や、茨木以上に危険性を孕んでいた土地なのです。

岡山に避難された方々とも、この真実を共有し、共に学び合い「脱原発」の実現に力を合わせられればと思います。

今、大切なのは力を合わせて、一つの方向に力を結集する事だと思います。そのために繋がる事が始まりです。

 下記記事も引用させて頂いたものです。 

 
         日本の原子力開発の歴史



戦後日本は、非核三原則を掲げ、平和への道を歩んできたのではないのか? なぜ「核廃絶」を唱えながら「原発」を増やし続けてきたのだろうか…

ヒロシマ、ナガサキへの原子爆弾投下からわずか10年後のことである。その背景には敗戦国日本が強いられた「安保条約の存在」があった。
               

1954年 中曽根康弘(当時、改進党議員)が、原始力予算案を国会に提出。ここに日本の原子力開発が始まる。

 (同年、ビギニ環礁で、アメリカの核実験により、第五福竜丸が被爆。世界的に「原水爆禁止運動が高まる)

 
1955年  岡山、鳥取県境 『人形峠で』ウラン鉱床発見。

1956年  人形峠、東郷、倉吉の三鉱山でウラン探鉱と、採掘が始まる。

1958年  人形峠で、鉱山の抗夫、原燃職員が、放射能汚染を訴える。

1959年  伊勢湾台風では1千㎥ほどのウラン残土が田畑へ流出。
                        
1966年  日本は原発操業開始。

1967年  動燃は(旧 原燃)は、国産ウラン開発を断念。ウラン鉱山は閉山。ウラン鉱山は、膨大な放射性ウランを野ざらしにしたまま放置した。

1988年 『人形峠』周辺のウラン残土問題が発覚。鳥取(方面)では、1万6000㎥の残土から、最大31.5ミリシーベルト/年、が測定された。


【知らされなかった放射能の危険】

 当時、鉱山で作業に当たっていたのは、流れの抗夫と、近隣の村民たちであった。原燃からは放射能の危険性について一度も説明は受けなかった。

ガイガーカウンターを当てると何万カウントで鳴るような場所でマスクもつけず危険で過酷な労働だった。

とくに、何も知らぬ村民を、ラドンガスのたまった空気の通わない坑道の奥で作業をさせていた。

次々と原因不明の病に冒され、閉山後わずか二十世帯、100人の村人のうち11人が癌で死亡(全国平均の約26倍)にものぼる。

ただ、放射能が原因であるとはまだ誰も考えていなかったのだ。(ウラン鉱山従事者手記)より

それでも…まだ、原発を作り続けますか? 次に虫けらのような扱いを受けるのはあなたかもしれないのに… 瑠璃

戦禍の子 登場人物紹介

2013-09-25 20:48:52 | ブログ小説「戦禍の子」
戦禍の子 登場人物紹介



                           
イメージ 1 この物語の主役 「戦禍の子」

1945年ヒロシマに投下された原子爆弾で命を奪われた少女の魂の声。 真っ白のワンピースとウサギのサンダル。

腰まで届く長い髪の女の子の姿で瑠璃の夢に現れる。推定年齢10歳くらい。 


イメージ 2 十字架を背負った男(峠をさ迷う亡霊)
 
身の丈以上もある大きな石の十字架を背負った異形の老人。既にこの世のものではないが、背負った罪の重さにさいなまれ、

この世とあの世の境である峠(人形峠)をさ迷い歩く。


イメージ 3松と言う名の老人。

十字架を背負った男とは、竹馬の友(幼馴染)である。原発推進派でも、反対派でもない日和見主義の老人

。原発事故で息子夫婦と孫を失う。その後、原発反対の立場をとる孤独な老人。


イメージ 4御婆の樹。

かつて御神木として、崇め奉られていた古木。おおよそ2000年ほど昔からこの森を守り育ててきた鎮守森の守り神。

しかし、時の流れと共にその存在は忘れ去られてしまった。いま、原発開発の波が村々と共に御婆の森をも飲み込もうとしていた。


イメージ 5伝説の巫女

御婆の樹に宿る巫女の魂。かつて、この村に実在した巫女。類まれなる神力ゆえに、時の世の天下泰平のために、一命をささげた巫女。

御婆の樹とともに、神奈備(かんなび)の山々を守り続けてきた。戦禍の子の過去生(転生する前の魂を持つ巫女)である。

悠久の時を越えてやってくる巫女の魂を受け継いだ少女を、御婆の樹とともに待ち続けている。

絵とあらすじで綴る戦禍の子。第2話  待ち続ける家 (原発の歴史をたどり 今思う事…)

2013-09-25 19:25:20 | ブログ小説「戦禍の子」
 第2話 *待ち続ける家*の舞台

  あらすじ

 不思議なセカイに迷い込んだ少女は、次に転生するはずの未来にいた。 

村の者が決して足を踏み入れる事のない原野の中に、忘れ去られたように立ち尽くす廃屋があった。

少女は何かに引き寄せられるように近づいていった…

少女との出会いで廃屋は、遠い過去の悲しい記憶を甦らせると共に、少女に語り始める…… 

(補足説明)

少女の家族はかつてその家にすんでいました。家族三人で…。 何故そんな人里はなれた寂しい場所に、隠れ住むように…

父は原発の研究者でした。しかし、その研究がもたらす結果を知ってしまったのです。

そして、原発施設の青写真が描かれていた土地に家を建て、体を張って原発建設に立ち向かおうとしたのです。

平和な生活はそう長くは続きませんでした…

 
戦禍の子 第2話 待ち続ける家 の舞台 『人形峠』


第2話の舞台は、日本原発の発祥の地、『人形峠』です。岡山県と鳥取県との県境に位置するこの町で1955年にウラン鉱床が発見されました。

ここから日本の原発の歴史が始まったのです。

そして、今また『高レベル放射性廃棄物の地層処分場候補地』として、「人形峠」に白羽の矢が立ちました。(2010年)


●1987年 「ジオトピア計画」は、国(科学技術庁)が考え出したもので、「地底総合開発構想」とよばれました。

旧動燃がかかわり『高レベル放射性廃棄物の地層処分』とセットで、色々な施設や先端技術の研究、開発ができる施設を建設するプロジェクトです。

同年、岡山県久米町で、ジオトピア計画発覚。


●1990年には 『ワールドオアシス構想』とよばれ、当時、宇宙、海洋に次ぐ「大深度地下開発の時代の到来」ともてはやされた計画があった。

通産省の認可団体である「中国地域産業活性センター(会長 中国電力会長)が発表した地下都市構想で、

後に岡山県知事が、「放射性廃棄物処分場関連施設と誤解をまねく」として、県議会で反対の意思を表明したいわく付の施設。   

岡山県久世町で計画されていた。(同町で、1989年 『ハイウエイオアシス計画』も発覚している。


●2005年8月 岡山県は、県内のあらゆる自治体レベルで「高レベル放射性廃棄物を拒否」する事を表明する。

        他の、最終処分場予定地にあげられた市町村 

●2003年  福井県和泉村  高知県佐賀町

●2004年  熊本県御所浦町

●2005年  鹿児島県笠沙町  長崎県上五島町 ほか

地震大国日本で、なぜ地層処分をしなければならないのか? 


    【原発推進の立場から 原子力委員会、原子力安全委員会】

1980年 ロンドン条約の国内発効で、放射性廃棄物の海洋投棄が禁止される。

それに伴い原子力委員会は、陸地処分を方向づけたためです。

1999年、核燃料機構は、「わが国における高レベル放射性廃棄物地層処分の技術的信頼性」2000年レポートを国へ提出。

地層処分の技術的可能性を裏付けた。

原子力委員会、原子力安全委員会が、安全と認め、経済産業省は、高レベル処分法案のよりどころとした。

●2000年5月30日 「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」が成立。

     【原発反対の立場から 原子力広報室】

●2000年7月20 「原子力広報室」は、「高レベル放射性廃棄物地層処分の技術的信頼性」批判の「カウンターレポート」を発表する。

     「原発は、原爆の材料生産施設にほかならない。」

 軍事物質のプルトニユウム。わずか5~8キロで原爆が作られる。

2010年末の時点で、すでに38tも貯蔵しているのが、日本の原発の実態である。

                       資料提供 原子力広報室

★(原発の歴史をたどり 今思う事…)

私たちの住む岡山の辿ってきた原発との関わりを知っていただきたいのです。

大阪についで避難、移住者(これからも増え続けるでしょう)の多い件です。

環境が穏やかだから、自然が豊かだから… 本当に住みやすい県です。

しかし、この岡山こそ、一歩間違えればフクシマになっていた可能性があります。

なぜならば、『核廃棄物の最終処分場』になっていたかもしれないのです…

岡山で無ければいいのか? いいえ違います。しかし、この瞬間にも、世界中から高濃度の核廃棄物が

知らぬ間に日本国内へ運び込まれているのです。火事場泥棒のようにドサクサに紛れて…

政府は、日本を『核の墓場』にするつもりなのでしょうか?

前回も書きましたが、「原発はエネルギー問題の解決のため」に作られたものではないのです。

「核兵器の材料を作るため」に造られたのです。

原発を推進してきた行政のトップ、地方行政のトップは、以下の記事の、「同じ穴の狢」なのでしょう。


ふくしま集団疎開裁判の会  9月22日 のツイッター記事から転載


高木毅衆院議員の父、高木孝一氏1983年の発言「原発は電源三法交付金や原発企業からの協力金があり、たなぼた式の金だ。

放射能の汚染で50年、100年後に生まれる子どもがみんな障害者でも心配する時代ではない」

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お金の前に人命とはなんと儚いものなのでしょうか…

今の政府が、どんなきれい事を並べようとも、本音は同じだと思います。

原発とは…いかに正当化しようとも人を、人類全てを加害し続けるものなのです。