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回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

ドリームキャッチャー

2021年03月20日 16時35分54秒 | 日記

どう考えても合理的ではない行動をすることがある。例えば、一言訳を言っておけば誰にも非難されないのにそれをしない、あるいは、ここで引き返せばまだ間に合うにもかかわらずそのままずるずると引き延ばしてあえてその時機を逃してしまう。昨夜見た夢はそんな筋書きだった。まだ子供の頃の自分が親にも告げずに家を出て友人と旅行に出かける。一泊二日の友人との旅行だったのだが、その友人と別れてからも家に戻らず、更にもう一晩を外で過ごしてしまう。友人と一緒のところまでであれば、まだ何とか親に説明がつくのに、更に伸ばすことによってますます不可解な行動になってしまう。まるで自分で自分の首を絞めるようなことを何故しようとするのか。合理的な理由もなく、次々に道を踏み外してゆくような、あるいは、奈落の底に自ら落ち込んでゆくような取り返しのつかないことの積み重ねをするのか。そんなもうどうしようもなくなった状態に追い込まれて(自ら追い込んで)しまったところで目が覚めた。

生まれつき臆病な性格だったので、実際には一度も家出のようなことをするようなことはなかった。いや、考えたことすらなかった。もちろんそんなことをすれば親が悲しむだろうということは分かっていたということもある。しかし、そもそも、そういった気持にはならなかった。いずれ親元を離れることになることは分かっていたし、それ以前にどんな短期間にせよ行方不明になるようなことは考えもしなかった。

ただ当時の友人の中には頻繁に親と争いになり家を飛び出して、時には自分の家に来ることもあったから、そういった小さな家出があるということを知らなかったわけではない。しかし、派手な親子喧嘩をした後に、さほど心配した風もない親がやってきて、自然な様子でその子と一緒に帰るのを見ていたら、ずいぶんとさばけた家族なのだな、と思ったものだ。

一方、羽目を外して人生が変わってしまった知り合いもいる。ロンドンに駐在していた時、東京から出張者があることを知らされて準備をしていた。旅程では、彼は初めにイタリアを訪れその後スペインを経由して最後にロンドンに来るということになっていた。しかし、イタリアに到着する予定日になっても彼が現れないということで騒ぎに。まず、イタリアの同僚が東京に聞いてみると予定通り出発した、と。それでは何かの理由でスペインに先に行ったのかと思いスペインの同僚に照会したがそこにも現れていない。最後に自分の所に照会の電話があったのだが、もちろん来ていない。

そのうちに、彼の乗った便はオランダ経由だとわかり、彼の足取りはそこで途絶えている。そこでオランダの同僚に知らせて、心当たりのホテルを調べてもらったが見つからない。万策尽きて、オランダ警察に届けたところ、何と、彼は東京とオランダの飛行機の中で泥酔し、手が付けられなくなって空港⇒警察で保護されたというのがわかった。今なら大きなスキャンダルである。やっと彼を見つけ出したが既にそれまでに数日が経過しており、彼の出張予定はすべてキャンセル、即刻帰国ということになった。その後どのような処分がなされたのかは知らないが程なく彼の消息は日本でもわからなくなってしまった。

大の男が出張の初めから人事不省になるまで酒を飲む、というのはどう考えても合理的な行動ではない。彼はどこかの時点で、超えてはいけない一線を越えてしまったのだろう。世の中を見渡せば決して珍しくはないのだろうが身近でこういうことが起きるとつくづく人間とは時として不合理なことをする生き物であると思わないではいられない。

さて昨夜のような夢を見たのは自分の中に、いまだに不合理なものに突き動かされるような何かがあるからなのか、あるいは無意識の中に押し込まれてきた何かがあるのか。いままで合理的に生きてきたと、しっかりした足元だと思っていたのが、実は脆いものだということを思い起こさせるためだったのか。

かつて、どうもこのごろ悪い夢ばかり見ると言ったらアメリカの友人がくれたのが北米に伝わるおまじないのドリームキャッチャー(Dreamcatcher)。言い伝えでは、これを枕元に吊り下げておくと『悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去り、良い夢だけが網目から羽を伝わって降りてきて眠っている人のもとに入る』と。

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アンテナ修理

2021年03月19日 15時36分15秒 | 日記

一週間ほど前に家の周りを歩き、何気なく屋根を見たらテレビのアンテナに少し異常が。衛星放送用の皿型のアンテナとは別に地上デジタル用に矢のような形をしたアンテナが設置されているのだが、その先端から、ケーブルが支柱を離れて風に揺らいでいる。こんなに不安定なことはないはずだ。このまま放置しておいてそのうちケーブルがはずれてしまっては面倒だ。このアンテナ、8年ほど前に家の外壁を塗り替えた時に新調し、外壁を担当した建設会社がその工事もしてくれたので、修理の話をどこにもって行けばよいか判らない。

修理を頼む心当たりもないので、たぶん無理だろうと思いつつ近くのヤマダ電機へ行くことにした。まずは、スマホで状態の分かるような写真を数枚撮って。新しい電気製品を買うのならともかく、こういった細かいことには電機量販店がまともに相手にしてくれるものかという予想に反して、売り場にいた初老の店員にスマホの写真を見せると、もちろん修理の手配ができる、と。

そして費用は修理だけなら、状態にもよるが大体一万円くらいだがどうするかと聞くので、その程度であれば安心料として適当だ、では頼みたいというと早速その場からどこかに電話をしている。3日後には修理に行ける、という相手の応諾を得て申込書に記入した。彼からはその日朝に工事業者から電話は行くので、時間を打ち合わせてほしい、と。

それで今朝、若い男の声で電話。これから30分ほどで修理にうかがうが都合はいかがかと聞いてきた。あらかじめ予定していたことでありそれで頼むというと時間きっかりにマスクをした若い男がきた。アンテナを見上げて、やはりアンテナの支柱に固定しなければいずれ切れてしまうだろうと言い、料金は屋根の上という高所作業料が5000円、出張料が2000円、作業料は簡単なので1000円、それに消費税がかかって合計8800円。

もちろん異存ないから工事をしてくれと頼むと、高所恐怖症の自分なら目のくらむような屋根の上にするすると登ってゆき30分もしないで工事完了した。念のためということで、5か所ほど支柱にケーブルがしっかりと結び付けられている。これで風が吹いて揺れる心配もなく当面安心だ。彼は料金のやり取りはしないので、その量販店に行ってこの金額を支払ってくれ、と。こういった、ストレスのないきちんとしたサービスは気持ちがいい。

今回の事から、イギリスとのこの種のサービスの違いを痛感した。数年前、ロンドンの家の洗面所の改装をしようと思い、近くのホームセンターへ行ってみた。ショールームには所狭しと魅力的な洗面所用の部材がそろっている。その中で気に入ったのがあったのでそれを注文し、据え付けまでの工事も一緒に頼む、といったところ、取り付け工事業者は自分で見つけてくれ、こちらは商品を売るだけだと。商品を売るというのは、据え付けて使えるようにしてはじめて終わるもの、という日本の常識は通じない。どこか紹介してくれないかと言っても、そういった紹介はしていない、勝手にネットか電話帳で調べてくれという何ともサービスのよくない話だ。四苦八苦して、どうにか据え付け工事業者を見つけて、その商品の到着する数日後になるように工事を依頼。その間、洗面所の新しい部材は玄関に置かれたままだった。

やっと工事の日が来たのだが、工具が不足したと言ってその日は何もできず一日遅れ、やっと翌日に始まった。この時工事に来た男はブルガリア出身のクリス。仕事の手際が悪いし、頻繁に携帯からどこかに電話をしている。聞けば彼のガールフレンドが乗ってきた車の中で待っている、という。気の毒な話だが、さすがにそんなことまで構ってはいられない。ずいぶん時間がたってようやく工事が終わった。一応の技術は持っているのだろうがお世辞にも職人技とは言えない、最低限の仕事。それでいて料金は、相当に高い。しかし、ほかに選択肢がないのだからしかたない。友人にこの話を話をしたら、この国ではもうそうするしかないとあきらめ顔で同情してくれた。多分かつての労働党政権の時に組合の要求で、この種の仕事の独占的な権利を与えてしまったのだろう。そして、販売業者が工事の仲介をすることも禁じてしまったようだ。こんな制度のせいで不便をこうむるのは一般消費者だ。

イギリスのEU離脱後も、既に定住しているEU市民はそのまま在留できるようだから、クリスと彼のガールフレンドは今でもイギリスのどこかで水回りの工事をしているのかもしれない・・・。

今、玄関で咲いている花をいくつか。

 

 

 

 

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クリスタル

2021年03月18日 17時59分47秒 | 日記

特に進んで口にしたわけではないのに自分の車の車検が通らなくなったことを何かの拍子に知った知人から、いくつか車の紹介が来た。どのパンフレットも上質の紙に、これまたきれいな写真と、モデルと思しき見目麗しい男女・幸福せそうな家族が楽しそうに写っている。写す角度も、その車が最も機能的に見えて、時代の最先端を行っていることを誇示しようとしている。また、写されている場所にもこだわりがある。パームツリーの並木の続く海辺のリゾート地だったり、高層ビルの灯りが煌めく大都会の夜だったりと。

こうしてみると実に多種多様な車が売られていることがわかる。驚くほど高額なものから、ぎりぎりまで値段を下げたと思われるようなものまで。今や車で優越感を感じるとか、豊かさの(ステータス)シンボルなどではない、と言われるけれども、そこには大きな違い、言い換えれば格差が感じられる。すなわち豊かな人にとっては高額な車から廉価なものまで、本人の主義主張によって何を取るかの選択の余地があるが、そうでない人にとっては、かなりの程度値段によって選択が絞られる、ということだ。

格差というものがまさに目に見える形になるのが飛行機の座席。最近の国際線では、座席およびサービスの違いによってたいがいエコノミー、プレミアムエコノミー、ビジネス、そしてファーストとクラスが4つもある。自動車と同じように、たぶん富める人はそのどれかを選ぶことが出来る。しかしそうでない人はその選択の余地はあまりない。何しろ、時によってはエコノミーとファーストの運賃の違いが10-20倍もあるのだから。

長く付き合いのある中東の友人、彼は大変な金持ちなのにもかかわらず、その子供たちにはエコノミークラスにしか乗せない。彼自身と夫人はいつもファーストクラスに乗っているのだが、彼は子供に分不相応な贅沢をさせるのは良くないという信念を持っている。親が、家が豊かだ、というだけで自身には収入のない子供に必要以上の贅沢をさせないという、自立を促すという考えは正しいと思う。さらに言えば、子供は大人に比べれば、狭い席であってもそれほど疲れないし、疲れたとしてもすぐとれるからだ(いやむしろ、疲れることを感じる方がいいのだ、とも)。

この、飛行機の座席にヒントを得たのではないかと思うが、航空会社が顧客の囲い込みのために常連客に与えるステータスにも数段階がある。例えばJALなら、普通会員、クリスタル、サファイア、ダイヤモンド、という風に(さらにこれがいくつかに細分化されている)。それぞれ、搭乗回数などによって、多く利用すればそれだけ高いステータスの会員になることができ、それに対応したサービス(様々な局面でそれ以外の乗客に優先される)を受けることが出来るというものだ。

人間にはどこか、人より優越したところにありたいという願望があるのだろう。そしてそれが働く意欲につながることもあるのは確かだ。その心理に応えるものの一つがステータスサービスなのかもしれない。

ポプリでも入れて飾っておくのが良さそうなこのクリスタルの小物入れはアイルランド、Tipperary社製。ずっしりと重く手作業でのカットが鮮やかで、その宣伝文句として「Crystal of Kings」とある。大きく出たものだ。ただ、同じクリスタルでもJALの場合には入門直後のステータスなのだが・・・

 

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廃車

2021年03月17日 17時31分07秒 | 日記

今日は24年間乗り続けてきた(途中、海外駐在のために休眠していた期間もあるが)自分の車の車検満了日。先日このブログに書いたが、検査したところ一部の部品に不具合があり(走行にはとりあえず支障はなかったのだが)車検が通らず、かつ、交換する部品もないということでついに廃車となった。今日午後、いつも整備に出している自動車販売会社に引き取られていった。これまでの走行距離は12万キロほどしかない、そのほとんどはゴルフ場と空港への行き帰りに使われたもの。特に羽田空港では予め登録しておけば駐車場を予約できるシステムがあり、旅行から帰ってきてそのまま自宅に戻るのには大変都合がよかった。

この車を買った24年前はバブル崩壊、山一證券が破綻した金融恐慌の始まりの時期。こんなことはもうすっかり記憶の霧の中に霞んでいる。バブルからコロナまで黙々と走り通したことになるか。

この車を手放して当面は車なしの生活となる。それもなんだか新鮮。今はゴルフにも飛行機を使った旅行もできないから特に不便は感じないはずだ。コロナがまだ猛威を振るっているこういう時期に車を手放すことになったのは何か運命のようなものを感じる。コロナ禍によって生活が変わり、車の意味も変わるのかもしれない。車庫のなかにはタイヤの跡がまだ少し残ってはいてそのがらんとした風景が寒々しい。主をなくした車庫は、そこに大きな空洞でもできた廃墟のように見える。

下の写真はマッチボックス社ミニチュアカーで1931年製フォードモデルA。このおもちゃ、ダイカストメーカーらしく土台は頑丈な鋳物でできている。早い時期のものなのか、Made in Englandと書いてある。90年前というこのくらい古い車(ミニチュアではない)だとまさにクラシックカーとしてマニア垂涎、となるのだろう。

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真実の口

2021年03月16日 17時40分18秒 | 日記

初めてローマに行ったときに見た、観光客ならだれでも訪れるというサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁にある「真実の口」。薄く開いているこの口に手を入れると、偽りの心がある者は手を抜く時にその手首を切り落とされるか、手を噛み切られるか、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。ミーハーな性質だからさっそく、オードリー・ヘップバーン主演の「ローマの休日」で世界的に有名になったこの口に手を入れてみたが、幸い何も起きなかった。これで自分は邪心を持っていないことが証明されたわけだが・・・

ただ、ここで手に怪我をしたとか、手が抜けなくなったという話は寡聞にして知らないので、この世は善男善女であふれているのだろう。あるいは悪党はそもそもここに手を入れたりしないからなのか。人を欺くことを恬として恥じない、フェイクニュースが溢れる最近は何が真実なのか、分からなくなってきている。政治家の発言も、SNSの記事でも、一旦「真実の口」を通すようにしてはどうだろう。

この「真実の口」にかぎらず、ヨーロッパでは頻繁に人面だけの彫刻を見かける。神話に登場する神の顔を描いたものが多いのはそれなりに理由があるからなのだろう。こういった彫刻は壁に彫られていたり、あるいは水飲み場に彫られた顔の口が蛇口になっていたりする。イタリアの街で夜、街灯の薄暗いところを歩いていて急にこういった彫刻が目の前に現れたりすると思わずぎょっとしたものだ。もっとも最近ではこういう彫刻にも(マスク着用を啓発するために)マスクをつけさせているところもあるようだから、怖がることもなくなってきたかもしれない。

こういった顔だけや体の一部だけの彫刻は、日本ではあまり見かけないように思う。日本の彫刻は(ほとんどが仏像ではあるが)どんなに小さくても人体全部を表わしている。田んぼの中にある案山子だってちゃんと全身があるではないか・・・そのせいか(強引だが)、洋品店のショーケースの中にある頭のないマネキン人形や手袋用の手だけのマネキン?を見るとどうも違和感を持ってしまう。

顔が彫られているもので、真鍮の台の上に磁器の花瓶をのせたこの置物は、在英中に骨董屋で買ったもの。実際に花を挿したことはなく、玄関の飾り物になっている。ここに彫られている、ギリシャ神話にでも出てきそうな男の口は今にも何か話し始めるようだ。そこから出てくるのが真実だけならばいいが。

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