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カフカ『変身』を「身体」から読み解く

2006-08-17 15:00:10 | Weblog
 
カフカ『変身』を「身体」から読み解く
 
ファイル名 :819NpQABsx.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7062.html)
 
目次

1. はじめに 
2. 身体の改造と目的
3. グレゴールを苦しめた抑圧
 3.1. 窓の存在
 3.2. 部屋・間取りに見る家族関係
4. マゾヒズム
5. 結論
 
本文の内容一部
1. はじめに
 カフカの作品はこれまで様々な解釈がなされてきた。宗教や思想を表現したものであるとするものや、社会・心理現象を反映するものと説明されてきた。しかし、カフカは、「徐々にそのより深い諸前提が理解され、今日でもドイツではほとんど完全に未知に近い」(マルティーニ)とされている。 
 高橋(2003)は「カフカ作品は様々アプローチを許容しながらも、特定の解釈による絶対的な解答を決して許さない。これはおそらくカフカ文学の持つ多義性、象徴性、…「開いた形式」 に由来していると思われる(12)」としている。また「カフカの読者は、読み始める前に持っていた多くの既成概念を捨て、作品の意味を自分で丹念に問い続けなければならない(16)」とも述べている。
 では、カフカの作品『変身』における、「巨大な褐色の虫」が何を象徴しているのだろうか。カフカの生きた時代背景を見てみると、第一次世界大戦が勃発し、その後のヨーロッパ、特にドイツには、危機や破局の意識はやがて文学における表現主義の運動と結びついた時代だといえる。人生とは危険で不安定な、更に矛盾だらけで分裂した苦悩の多いものとしてとらえられていた。このような状況の中で生まれた作品『変身』には、19世紀から20世紀にかけてのシオニズム運動やユダヤ人国家建設運動の激しくなった時期に特殊な環境に置かれたユダヤ人であったカフカ自身が経験したアイデンティティだと読み解くこともできるだろう。しかし本レポートでは、このような既成概念を捨て、「身体(改造)」または「身体のクイア化」というキーワードから読み解いてみたいと考える。つまり、ある朝、主人公のグレゴール突然に巨大な毒虫に変身してしまうが、これはグレゴール自身が望んだものであり、それにより政治的身体を得て、その上で自らの主張を行ったのではないかという考えに立ってこの作品を考察する。
 
キーワード
身体, 改造, クイア化, マゾヒズム

創造性と伝統について

2006-08-17 14:59:33 | Weblog
 
創造性と伝統について
 
ファイル名 :4KOI0GB0kN.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7061.html)
 
 
本文の内容一部
 創造における伝統の役割について少し関心が持てたので、自分なりの考えをまとめてみようと思う。個人的な話であるが、私はギターをやっていて、自分の芸術との関わりは音楽を通じてであると思うので、その都度音楽の場合(主に軽音楽)のことを考えながら伝統と創造について考えていきたいと思う。さて、最初に断ってしまうが、伝統は創造において必要不可欠なものであるという考え方については、納得できる部分も多々あるが、どちらかというと反対である。が、気を悪くせずに読んでもらいたい。自分なりに、創造というものに対する考え方を示したつもりだ。
 いきなり最初に伝統が必要不可欠だとは思わないということを書いたが、自分の音楽活動はというと、(少なくとも今のところは、と注意書きしておくが)どっぷり伝統に浸かっていると自覚している。私はいわゆる軽音楽をやっているわけだが、いくら独自のものをやろうとしたところで、ギターとベースとドラムとヴォーカルでバンドを組み、誰かが考え出した音階の上で曲を作ろうとした時点ですでに伝統の枠内、もっと言えば「人マネ」である。それでも人がやっていないようなことをやればそれが創造なんだといえば確かにそうかもしれないが、私はそれは創造性の中のほんのひとつでしかないと思う。モダニスト達のことは何も知らないが、彼らがそんなものは創造ではないと言うのであっても、その考え方も十分に納得できる。つまり、彼らとはそもそも「創造とは何か」というものに対する根本の考え方が違うのだと思う。そして私もどちらかというと彼らの考え方に近いと自分では思っている。反復による創造というのは例えば、誰かがオムライスを考え出し、それをヒントに、卵の中に焼きそばを入れてオムソバを作り出し、それをヒントに今度はパスタを入れてオムパスタを考え出すようなものだと思っている。
 
キーワード
伝統, 創造性, 芸術

アートの他領域への介入

2006-08-17 14:58:56 | Weblog
 
アートの他領域への介入
 
ファイル名 :hJLqLcFju9.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7060.html)
 
 
本文の内容一部
 アート(art)という言葉は「芸術」という意味であると同時に「美術」という意味も示す。このことからも、芸術といえばまず連想されるものは美術であるようだといえるが、人がそこに美的価値を見出せるのであれば、どんなものでも芸術に成りうる。さらにいうと、この「アート」という言葉は、そのまま「美的価値」という言葉に置き換えられるのではないかと思う。さて今日、このような「アート」とされるものと、そうでないもの(たとえば「娯楽」)との境は、次第になくなりつつある。アートがそうでないものの領域に介入し、そうでないものがアートの要素を取り入れる。ここでは、そのようなアートの他領域への介入について考えてみたいと思う。
 まずは、テレビゲームについて考えてみよう。昭和50年、日本で初のテレビゲーム『テレビテニス』が発売され、84年にはファミコン(ファミリーコンピュータ)の大ブームがおこった。この時、なぜファミコンが売れたのかというと、当時ファミコンを買った人達は「ゲームが面白いから。」と答えた。しかし考えてみると、ドンキーコングも、マリオも、ロードランナーも、他機種でも遊べるものであった。それがなぜファミコンのみ大ヒットとなったかというと、それらのゲームを、他機種が成しえなかった綺麗なグラフィックで表現してみせた技術があってこそなのである。
 さて、この頃と比べると、現代のゲームは圧倒的に進歩していることは周知の事実であるが、実はその進歩というのは、ゲーム性についてではなく、大部分はグラフィック、つまり「アート」についてなのである。今、ファミコンのゲームをプレイしてみても、はっきりいって面白いものは面白い。しかし、その映像を見れば、ファミコンのソフトだということは簡単に分かる。それほど現代とは差があるのだ。
 
キーワード
アート, 芸術, 美的価値

「やましさ」と「気まずさ」について

2006-08-17 14:58:19 | Weblog
 
「やましさ」と「気まずさ」について
 
ファイル名 :WgEp7GaD90.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7058.html)
 
目次

はじめに
「やましさ」の性格
「気まずさ」の性格
「やましさ」と「気まずさ」の関係
解決策とは
人生における「やましさ」と「気まずさ」
 
本文の内容一部
はじめに
 今回述べようとするのは、「やましさ」と「気まずさ」についてである。このふたつの事象の間にどういう関係があるのかというようなことについては後々ふれていくとして、まずはなぜこのようなテーマをとりあげるに至ったかということについて、簡単に述べておくことにする。人間、素直に生きるのが一番良いのだと考えている人は大勢いることと思うが、ではいつも素直に自分の気持ちを表現できている人が果たしてどのくらいいるだろうか。おそらくそんな人間はめったにいないのではないかというのが筆者の考えるところである。では気持ちを表現しようとする際の障害というのはどんなものであるかというのを考えるとき、もちろん多種多様な障害が存在するわけだが、その中に「やましさ」や「気まずさ」というものが考えられると思うのだ。そして筆者が考えるところ、このふたつは最もやっかいな部類に属する障害である。
「やましさ」の性格
 やましいという言葉は通常、「やましいことはしていない。」というように、良心に恥じるところがあるとか、うしろめたいとかいう意味で用いられる。また、この言葉は動詞「病む」が形容詞化したものであって、気分が悪い、病気であるという意味でも使われる。昔の人は、良心に恥じるところがあるのは心の病気であると考えたのかもしれない。それはさておき、多くの場合、人は心にやましいことがあるとき、本心を語ることができない。言い換えれば、本心を語れない事情にある状態がやましい状態だといえるかもしれない。よって、一般的な「やましい状態」というのは、本当のところを隠すために必死で嘘をついたり、そしらぬふりをしたりしている状態であるといえよう。ここで重要なのは、やましさを感じているということは、相手の言葉や意図するところ、もしくはその場の状況というものが、自分に十分に伝わってきているのだということである。
 
キーワード
やましさ, 気まずさ, 対人関係

マッカ巡礼と四国遍路

2006-08-17 14:57:42 | Weblog
 
マッカ巡礼と四国遍路
 
ファイル名 :G0VF3udxn1.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7057.html)
 
目次

・その始まりについて
・巡礼者
・服装や持ち物
・何をするのか
・何のためにするのか
 
本文の内容一部
 日本人は概して宗教という意識が薄い。仏教徒がそのほとんどを占めているのは間違いないが、各々がそのことを意識することは少ない。仏壇が家庭にある家の場合は、習慣として毎日仏壇の花や水を取り替え、拝みもするであろうが、現代では仏壇がない家も多く、そういった人たちが、自分が仏教徒であることを意識させられるのは、葬儀や法事という場においてのみである。そんな宗教意識の薄い日本人に対して、ムスリムの自分がイスラーム教徒であるという意識は、比べ物にならないほど高い。それは「神」・「天使」・「経典」・「預言者」・「来世」・「天命 」の6つからなる六信と共にイスラームの重要な基本である、五行が日常に入り込んでいるからである。イスラームの基と呼ばれ、実践面を尊重するイスラームの大切な基準をなす五行のうち、「信仰の告白」と「礼拝」は毎日行われている。それも礼拝は日本人が仏壇に向かって拝むのとはまったく違う。日本人が仏壇に向かって拝むのは「ドゥアー」といわれる個人個人の祈りに近い。それに対し五行の祈りは「サラート」といわれ、形式も時間も定まっており、どんなに忙しくとも忘れてはならない。日常に義務として宗教的行為が行われていれば、宗教意識が高まらない方が不思議である。それほどにムスリムと宗教意識の差がある日本人であるが、日本にも「巡礼」は存在する。西国三十三箇所のような寺院を巡るもの、熊野詣でのように神社を巡るもの、また山岳信仰もそれにあたる 。今回はその中でも有名と思われる四国八十八箇所を巡る、いわゆる「遍路」を「マッカ巡礼」と比較してみようと思う。
・ その始まりについて
 マッカ巡礼の始まりは不明だが、マッカ巡礼はムスリムの五行の1つであり、コラーンに義務として記されている。コラーンはマッカにあるカアバ聖殿は、人類のために初めて建てられた家であると説き(3章90節)、「その内部には数々の明白な御徴がある―(たとえば)イブラーヒーム御立処など。
 
キーワード
イスラム, 巡礼, 遍路