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障害者とスポーツ「障害者の親しめるスポーツルール」

2006-08-17 15:03:14 | Weblog
 
障害者とスポーツ「障害者の親しめるスポーツルール」
 
ファイル名 :lPffazabEA.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7068.html)
 
目次

車椅子使用者:剣道
 ●試合は車椅子を固定して行う
 ●勝敗の決定
 ●試合時間
 ●試合の流れ
 ●競技場
 ●その他のルール
脳性麻痺者:バレーボール
 ● ボールはゴム風船を使用する
 ● 競技場と用具
 ● 選手の位置・チーム
 ● ボールの扱い
 ● 試合の流れ
 ● 反則
 ● その他のルール
視覚障害者:砲丸投げ
 ● 音源を置く
 ● 足止め材
 ● 試合の流れ
 ● 反則
 ● その他のルール
終わりに
 
本文の内容一部
車椅子使用者:剣道
●試合は車椅子を固定して行う
 ・車椅子の固定距離のとり方:選手は車いすのまん中にまっすぐ座り、肘を直角に曲げて相手にまっすぐに向ける。相手の剣先は、腕を完全に伸ばした時に、肘の近くの前腕の内端の上に垂直に届くようにする。この距離は各選手が交互にやって決める。
 ・両選手の腕の長さが異なる時には、計測は腕の短い方の競技者に合わせる。もし選手から不満が上がった場合は審判員が調停し、審判員の判断で最終決定をする。
●勝敗の決定
 ・試合は3本勝負を原則とする。試合時間内に有効打突を2本先取した者が勝ちとなる。
 主審が有効打突を宣言した場合に1本となる。(例「面有り」、「小手有り」など)
 ・通常の剣道と異なり、胴打ちはなしとする。
 ・一方が反則を二回行った場合はもう一方の1本となる。
 ・試合時間内で勝敗がつかない場合は、主に延長戦となる。
 ・延長戦は1本を先取した者が勝ちとする。
● 試合時間
 ・試合時間は3分を基準とする。3分試合を行い、1分休憩の時間をとる。延長戦も右に同じ。(通常は5分であるが、車椅子剣道は足を使わない分腕を酷使するので、3分で区切る)
 ・競技中、障害に伴う何らかの状態(たとえぱ不随な痙直)が起こった場合には、審判員は時間を限定しないで、回復のために十分な時間を与えることができる。このルールの適用によって不正な利益を得ないようにすることは審判員の裁量にまかせる。
 ・主審が「止め」または有効打突を宣言した場合、試合時間を測る時計は止まり、「始め」がかかるまでの時間は計測されない。
● 試合の流れ
 ・立会いの礼法、試合後の礼法は省き、車椅子の固定が終了してから、相手に向かい一礼し、竹刀を構え主審の合図を待つ。試合終了後は、竹刀を帯刀、一礼し終了とする。
 
キーワード
障害者, スポーツ, 楽しめる, 障害

コミュニケーション論-語句説明

2006-08-17 15:02:37 | Weblog
 
コミュニケーション論-語句説明
 
ファイル名 :f81bwNASBg.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7066.html)
 
目次

1:エディプス・コンプレックス
2:自己防衛メカニズム
3:他者の役割取得
4:第一次集団
 
本文の内容一部
1:エディプス・コンプレックス
 男の子が母親の愛情を独占したいと思い、父親をライバル視することと、父親をライバル視したことで罰せられるのではないかという不安との、心理的葛藤のことである。一方、女の子の父親への独占欲と、母親をライバル視することへの報復に対する不安との心理的葛藤は、エレクトラ・コンプレックスと呼ばれる。
 これらのコンプレックスは、正常に発達すれば、ライバル視している親と自分を同一化することで、自己を確立し、異性愛へとつながる。例えば、極端なマザコンで父親とは口もきかない、というような場合は、発達過程において何らかの異常があったと考えられる。また、独占欲を同性の親に対して持ち、異性の親をライバル視している場合は、同性愛へとつながると考えられる。
2:自己防衛メカニズム
 自己防衛メカニズムには、“抑圧”“昇華”“補償”“投射”“合理化”“転移”“同一視”の7つの方法がある。
 抑圧は、不快な考えや非道徳的な考えを、無意識のうちに心の深層に抑え込むことである。例えば、性的衝動が抑圧された場合、夢の中に性的と解釈されるようなものが出てくることがある。
 昇華は、本能的な衝動のエネルギーが、社会的に価値のある方向に向けられることである。例えば、芸術・宗教・スポーツなどである。
 補償は、本来の目的の達成が難しい時、欲求の対象を替えて充足することである。例えば、欲しいブランド品があるが、お金がなくて買えない時、似たデザインのものを探して買うような場合である。
 投射は、自分の欲求や感情が、対象の特徴や属性として感じられることである。例えば、自分が相手を敵視しているのに、相手が自分に敵意を抱いていると感じる場合などである。
 合理化は、もっともらしい理由で自分の行動を正当化し、罪悪感などを和らげることである。
 
キーワード
コミュニケーション, エディプス・コンプレックス, 自己防衛, 役割取得, 第一次集団

人間、笑い、死

2006-08-17 15:02:00 | Weblog
 
人間、笑い、死
 
ファイル名 :k2s9dgDVag.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7065.html)
 
 
本文の内容一部
 人間とは何であろうか。他の動物と何が違うのだろうか。他の動物は、本能だけで生きられる。ただし、本能と環境が完全に適合していなければ、生きられない。また、環境が変化しても、生きていけない。生きられる環境が限定されているのである。一方、人間はどこででも生きられる。これは、人間が優れているからではなく、本能が完全に欠如しているからだ。そのため、本能に適合する環境も存在しない。そこで人間は、理性や知恵で文化を作り、どこででも生きられるように発達したといえる。理性や知恵は、本能の欠如を補うためのもので、人間が他の動物より未熟だと示していると思われる。人間は、自然環境の内側に文化による人工の環境を作ったのである。自然環境で生きる負担を軽減してきた人工環境は時代とともに大きく複雑になり、逆に自然環境を圧迫し、現在は文明の自壊作用の時代となっている。
 
キーワード
社会学, 人間, 笑い, 死

家族関係論

2006-08-17 15:01:23 | Weblog
 
家族関係論
 
ファイル名 :zjNGhAfKv0.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7064.html)
 
目次

1.残された課題-養育機能\の終了とその後
 ●親の子離れ
 ●子の親離れ
 ●家族形態の選択
 ●空の巣の課題
 ●老年期の課題
2.まとめ-人生にとっての家族体験 
 
本文の内容一部
1.残された課題-養育機能の終了とその後
●親の子離れ
 子が思春期になり自我同一性が形成されてくると、親は子の養育責任から解放されて、子離れを果たしてゆく。しかし最近は、子が家を離れず、生活は親に依存している場合が少なくない。子離れを支えるのは、関心の主軸を親子関係から夫婦関係に移すことと、今後の人生の目標をもつことである。
●子の親離れ
 子から見ると、いかにして親の拘束を逃れるかが課題となる。しかし、子の依存性が強いと意識されにくく、親離れできない状態が継続しやすい。日本では、親離れの課題は無意識化されやすく、自立できる段階になると、単身生活をすることが望まれる。無意識部分の多い親子関係では、空間的な距離を設けないと、より良い関係の形成が難しいのではないか。
●家族形態の選択
 子の巣立ち後、夫婦だけの生活に戻らず、親子が家族として生活を続ける直系家族制への回帰という選択がされる場合がある。平成11年(1999)の国民生活基礎調査報告によると、「夫婦で」という選択と三世代家族の選択が各々約1/3、残りの1/3が単身及び未婚の子と同居になる。昭和55年(1980)と比較すると、直系家族制が減り、配偶者と死別後も核家族制を維持する人が増加している。
 この他にも家族形態には、二世帯住宅による同一家屋内での完全別世帯やスープの冷めない距離という極めて近い位置に住むという選択肢もある。二世帯住宅では、親と子の配偶者との関係がうまくゆかない場合、家屋の資産性によって住居の選択が事実上制約されるという問題がある。また、スープの冷めない距離という選択も、その表現に無意識的に混入させた直系家族的な思いが、親子間の相互依存性を自覚させる上で妨害になり、強すぎる親の介入が夫婦関係に影響を及ぼすことがある。
 
キーワード
家族関係, 瓜生武, エリクソン, 自我同一性, 空の巣症候群

家族関係論-指定図書の学習レポートno.1

2006-08-17 15:00:47 | Weblog
 
家族関係論-指定図書の学習レポートno.1
 
ファイル名 :oEVd2sHONA.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7063.html)
 
目次

学んだこと
 ・昔と今
 ・個人対個人
 ・母性原理と父性原理
 ・運命と意志
 ・相補性と共通性
 ・バランス
 ・線と円
 ・きょうだい
 ・一体感と自立
 ・「死」
 ・家族の課題
意見・感想
 
本文の内容一部
□学んだこと
・昔と今:①昔は、家族制度としての父性が、母性原理とのバランスをとっていた。現在では、母性原理のみが働く形になってしまった。②現在は国際化によって、母性原理と儒教的倫理に加え、西洋の父性が入り、親も子も明確な倫理観を持てずにいる。③人間の古来からの行為には、深い意味があり、それを知ることで災害を避けられる。
・個人対個人:①現在は、家族の安定を築くために、家族成員の個性のぶつかり合いが必要である。②日本人は、一つの場に2人がとけこむことは得意だが、個人と個人の関係形成は苦手である。場の外からくる人は全て侵入者と感じる。
・母性原理と父性原理:①母性原理=何ものをも「包含」する機能。父性原理=「切断」する機能。分類。②どちらか一方が優勢で、片方が抑圧・無視される状態が多いが、バランスがとれてこそ、有効である。
・運命と意志:①親子関係は、「運命的」に決定された絶対的なものであり、夫婦関係は、両者の「意志」によって決まると考えられている。実際には、「運命」と「意志」という2種の力が働いている。親子で、互いを親・子と認め合うのは「意志」である。②夫婦では、「運命」の力が働き、無意識のうちに自分に合う人を選んでいる。
・相補性と共通性:相補性は、両者の発展のために必要、共通性は関係維持のために必要である。両者が適度にバランス良く保たれることが重要。
・バランス:①日本は、明確に言語化された社会規範はなく、「身内」とのバランスを保つための曖昧な規範をもつ。②父性原理・母性原理も、運命・意志も、相補性・共通性も、バランスが大事である。
・線と円:①人間は「考える」時、直線型の論理に頼りやすい。実際は、自分を中心とした円の内・外で動いている。②自分の円型の心理に気づき、円の中心に自分を置かないこと、円の輪を拡大すること、が課題となる。
 
キーワード
家族関係, 河合隼雄, 母性原理, 父性原理

カフカ『変身』を「身体」から読み解く

2006-08-17 15:00:10 | Weblog
 
カフカ『変身』を「身体」から読み解く
 
ファイル名 :819NpQABsx.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7062.html)
 
目次

1. はじめに 
2. 身体の改造と目的
3. グレゴールを苦しめた抑圧
 3.1. 窓の存在
 3.2. 部屋・間取りに見る家族関係
4. マゾヒズム
5. 結論
 
本文の内容一部
1. はじめに
 カフカの作品はこれまで様々な解釈がなされてきた。宗教や思想を表現したものであるとするものや、社会・心理現象を反映するものと説明されてきた。しかし、カフカは、「徐々にそのより深い諸前提が理解され、今日でもドイツではほとんど完全に未知に近い」(マルティーニ)とされている。 
 高橋(2003)は「カフカ作品は様々アプローチを許容しながらも、特定の解釈による絶対的な解答を決して許さない。これはおそらくカフカ文学の持つ多義性、象徴性、…「開いた形式」 に由来していると思われる(12)」としている。また「カフカの読者は、読み始める前に持っていた多くの既成概念を捨て、作品の意味を自分で丹念に問い続けなければならない(16)」とも述べている。
 では、カフカの作品『変身』における、「巨大な褐色の虫」が何を象徴しているのだろうか。カフカの生きた時代背景を見てみると、第一次世界大戦が勃発し、その後のヨーロッパ、特にドイツには、危機や破局の意識はやがて文学における表現主義の運動と結びついた時代だといえる。人生とは危険で不安定な、更に矛盾だらけで分裂した苦悩の多いものとしてとらえられていた。このような状況の中で生まれた作品『変身』には、19世紀から20世紀にかけてのシオニズム運動やユダヤ人国家建設運動の激しくなった時期に特殊な環境に置かれたユダヤ人であったカフカ自身が経験したアイデンティティだと読み解くこともできるだろう。しかし本レポートでは、このような既成概念を捨て、「身体(改造)」または「身体のクイア化」というキーワードから読み解いてみたいと考える。つまり、ある朝、主人公のグレゴール突然に巨大な毒虫に変身してしまうが、これはグレゴール自身が望んだものであり、それにより政治的身体を得て、その上で自らの主張を行ったのではないかという考えに立ってこの作品を考察する。
 
キーワード
身体, 改造, クイア化, マゾヒズム

創造性と伝統について

2006-08-17 14:59:33 | Weblog
 
創造性と伝統について
 
ファイル名 :4KOI0GB0kN.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7061.html)
 
 
本文の内容一部
 創造における伝統の役割について少し関心が持てたので、自分なりの考えをまとめてみようと思う。個人的な話であるが、私はギターをやっていて、自分の芸術との関わりは音楽を通じてであると思うので、その都度音楽の場合(主に軽音楽)のことを考えながら伝統と創造について考えていきたいと思う。さて、最初に断ってしまうが、伝統は創造において必要不可欠なものであるという考え方については、納得できる部分も多々あるが、どちらかというと反対である。が、気を悪くせずに読んでもらいたい。自分なりに、創造というものに対する考え方を示したつもりだ。
 いきなり最初に伝統が必要不可欠だとは思わないということを書いたが、自分の音楽活動はというと、(少なくとも今のところは、と注意書きしておくが)どっぷり伝統に浸かっていると自覚している。私はいわゆる軽音楽をやっているわけだが、いくら独自のものをやろうとしたところで、ギターとベースとドラムとヴォーカルでバンドを組み、誰かが考え出した音階の上で曲を作ろうとした時点ですでに伝統の枠内、もっと言えば「人マネ」である。それでも人がやっていないようなことをやればそれが創造なんだといえば確かにそうかもしれないが、私はそれは創造性の中のほんのひとつでしかないと思う。モダニスト達のことは何も知らないが、彼らがそんなものは創造ではないと言うのであっても、その考え方も十分に納得できる。つまり、彼らとはそもそも「創造とは何か」というものに対する根本の考え方が違うのだと思う。そして私もどちらかというと彼らの考え方に近いと自分では思っている。反復による創造というのは例えば、誰かがオムライスを考え出し、それをヒントに、卵の中に焼きそばを入れてオムソバを作り出し、それをヒントに今度はパスタを入れてオムパスタを考え出すようなものだと思っている。
 
キーワード
伝統, 創造性, 芸術

アートの他領域への介入

2006-08-17 14:58:56 | Weblog
 
アートの他領域への介入
 
ファイル名 :hJLqLcFju9.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7060.html)
 
 
本文の内容一部
 アート(art)という言葉は「芸術」という意味であると同時に「美術」という意味も示す。このことからも、芸術といえばまず連想されるものは美術であるようだといえるが、人がそこに美的価値を見出せるのであれば、どんなものでも芸術に成りうる。さらにいうと、この「アート」という言葉は、そのまま「美的価値」という言葉に置き換えられるのではないかと思う。さて今日、このような「アート」とされるものと、そうでないもの(たとえば「娯楽」)との境は、次第になくなりつつある。アートがそうでないものの領域に介入し、そうでないものがアートの要素を取り入れる。ここでは、そのようなアートの他領域への介入について考えてみたいと思う。
 まずは、テレビゲームについて考えてみよう。昭和50年、日本で初のテレビゲーム『テレビテニス』が発売され、84年にはファミコン(ファミリーコンピュータ)の大ブームがおこった。この時、なぜファミコンが売れたのかというと、当時ファミコンを買った人達は「ゲームが面白いから。」と答えた。しかし考えてみると、ドンキーコングも、マリオも、ロードランナーも、他機種でも遊べるものであった。それがなぜファミコンのみ大ヒットとなったかというと、それらのゲームを、他機種が成しえなかった綺麗なグラフィックで表現してみせた技術があってこそなのである。
 さて、この頃と比べると、現代のゲームは圧倒的に進歩していることは周知の事実であるが、実はその進歩というのは、ゲーム性についてではなく、大部分はグラフィック、つまり「アート」についてなのである。今、ファミコンのゲームをプレイしてみても、はっきりいって面白いものは面白い。しかし、その映像を見れば、ファミコンのソフトだということは簡単に分かる。それほど現代とは差があるのだ。
 
キーワード
アート, 芸術, 美的価値

「やましさ」と「気まずさ」について

2006-08-17 14:58:19 | Weblog
 
「やましさ」と「気まずさ」について
 
ファイル名 :WgEp7GaD90.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7058.html)
 
目次

はじめに
「やましさ」の性格
「気まずさ」の性格
「やましさ」と「気まずさ」の関係
解決策とは
人生における「やましさ」と「気まずさ」
 
本文の内容一部
はじめに
 今回述べようとするのは、「やましさ」と「気まずさ」についてである。このふたつの事象の間にどういう関係があるのかというようなことについては後々ふれていくとして、まずはなぜこのようなテーマをとりあげるに至ったかということについて、簡単に述べておくことにする。人間、素直に生きるのが一番良いのだと考えている人は大勢いることと思うが、ではいつも素直に自分の気持ちを表現できている人が果たしてどのくらいいるだろうか。おそらくそんな人間はめったにいないのではないかというのが筆者の考えるところである。では気持ちを表現しようとする際の障害というのはどんなものであるかというのを考えるとき、もちろん多種多様な障害が存在するわけだが、その中に「やましさ」や「気まずさ」というものが考えられると思うのだ。そして筆者が考えるところ、このふたつは最もやっかいな部類に属する障害である。
「やましさ」の性格
 やましいという言葉は通常、「やましいことはしていない。」というように、良心に恥じるところがあるとか、うしろめたいとかいう意味で用いられる。また、この言葉は動詞「病む」が形容詞化したものであって、気分が悪い、病気であるという意味でも使われる。昔の人は、良心に恥じるところがあるのは心の病気であると考えたのかもしれない。それはさておき、多くの場合、人は心にやましいことがあるとき、本心を語ることができない。言い換えれば、本心を語れない事情にある状態がやましい状態だといえるかもしれない。よって、一般的な「やましい状態」というのは、本当のところを隠すために必死で嘘をついたり、そしらぬふりをしたりしている状態であるといえよう。ここで重要なのは、やましさを感じているということは、相手の言葉や意図するところ、もしくはその場の状況というものが、自分に十分に伝わってきているのだということである。
 
キーワード
やましさ, 気まずさ, 対人関係

マッカ巡礼と四国遍路

2006-08-17 14:57:42 | Weblog
 
マッカ巡礼と四国遍路
 
ファイル名 :G0VF3udxn1.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/8/D7057.html)
 
目次

・その始まりについて
・巡礼者
・服装や持ち物
・何をするのか
・何のためにするのか
 
本文の内容一部
 日本人は概して宗教という意識が薄い。仏教徒がそのほとんどを占めているのは間違いないが、各々がそのことを意識することは少ない。仏壇が家庭にある家の場合は、習慣として毎日仏壇の花や水を取り替え、拝みもするであろうが、現代では仏壇がない家も多く、そういった人たちが、自分が仏教徒であることを意識させられるのは、葬儀や法事という場においてのみである。そんな宗教意識の薄い日本人に対して、ムスリムの自分がイスラーム教徒であるという意識は、比べ物にならないほど高い。それは「神」・「天使」・「経典」・「預言者」・「来世」・「天命 」の6つからなる六信と共にイスラームの重要な基本である、五行が日常に入り込んでいるからである。イスラームの基と呼ばれ、実践面を尊重するイスラームの大切な基準をなす五行のうち、「信仰の告白」と「礼拝」は毎日行われている。それも礼拝は日本人が仏壇に向かって拝むのとはまったく違う。日本人が仏壇に向かって拝むのは「ドゥアー」といわれる個人個人の祈りに近い。それに対し五行の祈りは「サラート」といわれ、形式も時間も定まっており、どんなに忙しくとも忘れてはならない。日常に義務として宗教的行為が行われていれば、宗教意識が高まらない方が不思議である。それほどにムスリムと宗教意識の差がある日本人であるが、日本にも「巡礼」は存在する。西国三十三箇所のような寺院を巡るもの、熊野詣でのように神社を巡るもの、また山岳信仰もそれにあたる 。今回はその中でも有名と思われる四国八十八箇所を巡る、いわゆる「遍路」を「マッカ巡礼」と比較してみようと思う。
・ その始まりについて
 マッカ巡礼の始まりは不明だが、マッカ巡礼はムスリムの五行の1つであり、コラーンに義務として記されている。コラーンはマッカにあるカアバ聖殿は、人類のために初めて建てられた家であると説き(3章90節)、「その内部には数々の明白な御徴がある―(たとえば)イブラーヒーム御立処など。
 
キーワード
イスラム, 巡礼, 遍路