夏天故事

日々感じること、考えることを書き連ねていきます。

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 7(最終回)

2013-02-04 21:30:00 | 雑感・その他
4.日本社会の異文化受容に関する問題
以上、北方氏による『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する問題意識を3点に分けて整理した。だが、一番の問題は前述の3点に根本的に横たわっている、「自身が受け取りたいものしか認めない」ということではないだろうか。
インドのカレーを食べたある日本人が、「こんなのカレーじゃない。日本のカレーが一番おいしい」と言い放った、という話を聞いたことは無いだろうか。またはキムチの国際表記を韓国がKIMCHIと主張したのに対し日本側がKIMUCHIにするべきだ(そうでないと日本人は発音できないから)として論争が起こったという話を聞いたことは無いだろうか。キムチに関しては、韓国側がキムチは「発酵」してあるものであり、日本のキムチは浅漬けの漬物だから違う物だと主張していたが、日本側はどちらも同じ『キムチ』と考えたため起こった論争だった。
両事例とも根底には、日本に異文化が流入して日本に同化した末、日本に同化したものがオリジナルとされて、本来のものを認めないという流れがある。これと同じことが水滸伝にも起こっているのだ。
そしてこのような流れが起きるとき、本場がどこかに限らず、無意識の中で文化が優越しているとしているほうが優先的にオリジナルとなり、劣っているとみなされる方は排除される。つまりカレーやキムチの場合、インド及び韓国と日本の文化間の争いであるが、受容する日本人の多くは日本文化のほうがインドや韓国の文化より優れているという無意識下での認識があるために、本場のカレーやキムチが排除される傾向にある。ヨーロッパの文物に対してカレーやキムチのようなことが起こらないのはこのためである。
(フランス料理やイタリア料理に対して上記のような例はあまり聞かない。むしろ昔はすべてスパゲッティですんでいた食べ物が、パスタだの何だのとより現地にあわせた呼び方になっているのは逆の現象が起こっているためだ。)
水滸伝の場合も同様である。日本人である北方氏が作った『水滸伝』と中国民衆が作り出した水滸伝を比べた場合、日本文化と中国文化の争いになるわけだが、北方氏の『水滸伝』で留まって「原典を読んだことがない」という声が多いのも、どこかで日本文化>中国文化という価値判断がはたらいているからではないか。そして、それは「自身が受け止めたい」水滸伝像でしかないのにもかかわらず、原典が駆逐されるという現状につながっている。
さらに、水滸伝に関して「自身が受け取りたいものしか認めない」という心理を許すもう一つの要因は、水滸伝が日本ではマイナーだ、ということにある。
『三国志』(ただし三国志演義ではないことに注意!!)のようにメジャーであれば、このような大規模改変自体許さないであろう。例えば「豊穣な近現代小説の歴史を踏まえて」解体改変を加えた結果、魏・呉・蜀の大連合が司馬氏と戦うなどという筋書きの小説になった場合を考えてほしい(それに近い『龍狼伝』という漫画はあるが『三国志』とか三国志演義というタイトルでは無い)。その小説をそのまま『三国志』もしくは『三国志演義』というタイトルで売り出し、しかもそれが「○○版『三国志』が然るべきのちに、中国版『三国志』に代わって定本になる」などのうたい文句で宣伝されていたら、どうだろうか。日本中にいる多くの『三国志』ファンは、三国志として許容できるであろうか。
三国志演義にはしないような改変を平気で水滸伝に行い(ただし山田氏によると呂布の性格は変えたらしい)、それを水滸伝として評価することができるのは、単純に日本では水滸伝が『三国志』ほどメジャーではない=受ける批判もそう多くないからだろう。似たような現象はテレビドラマ『西遊記』にもみられる。沙悟浄は河童じゃないし、白馬にもきちんと意味と役割があるが、日本のドラマシリーズではわからない。ドラマでは猪悟能(猪八戒)の元の姿である天蓬元帥が中国社会ではどれだけの存在なのか(その天蓬元帥が猪悟能として取経しに行くことの意味もあわせて)、81という数字も全くわからないのにタイトルだけは『西遊記』というのは本当におかしな話なのだが、『西遊記』として通ってしまっている。西遊記も日本では内容があまり知られていないから平気でこのようなことが行われるのだ(ただし西遊記の場合、「あれは日本のテレビ局が作った『西遊記』だ。原典は別にある」という判断がしやすい)。
『水滸伝』の改変も『西遊記』の改変も、三国志の改変でたとえるなら、そもそも漢が滅びず魏も呉も蜀も誕生しなかったり、諸葛亮が蜀を簒奪し、関羽は曹操に捉えられたとき寝返ってそのまま魏の高将になるや、司馬を抑えて自身が三国を統一して皇帝になったりといった改変などよりもさらに破天荒なものなのだ。そのような改変を許してしまうばかりか、改変物を水滸伝として評価してしまうのは、結局のところ水滸伝(や中国文化)には興味がないから、もしくは水滸伝(や中国文化)を下にみているからなのだろう。
だから「自身が受け止めたい」水滸伝像でしかないのにもかかわらず、『水滸伝』を水滸伝として評価できてしまうのである。
そしてこのような傾向は、水滸伝と『水滸伝』に限らず、日本社会のいたるところで、沖縄を含むアジアの諸文化に対して見られる。


5.終わりに
以上、問題を整理してみた。北方氏『水滸伝』が無批判に水滸伝として受け入れられているのは、日本において水滸伝がそんなに有名ではないこと、中国の文学であることに甘えているからではないか。
つまり、三国志のように有名になりすぎている場合(しかも日本の『三国志』の場合、吉川英治の小説版が大きすぎる)は、『水滸伝』のような改変をしたら受ける批判が多くなるし、欧米の文学に対しては『水滸伝』のような改変をする発想すらないだろう。
結局、中国の文化を日本の文化より下にみる部分がどこかにあるから、『水滸伝』を水滸伝として無批判に受け入れることができるのだ。それは山田氏のような『水滸伝』を水滸伝として推す文章のいたるところで垣間見える。
このことが一番問題なのではないだろうか。


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39 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
記事拝読 (花和尚)
2013-06-14 13:54:52
はじめまして。
ブログの「北方水滸伝」に関する記事、とても面白く拝読しました。
 私は、もう半世紀近く昔、図書館で出会った子供向けの水滸伝(出版社不明)の面白さに魅せられてからのファンです。子供ながら生意気に本物を読みたいと思い、当時1冊100円ぐらいだった岩波文庫の吉川幸次郎訳を買って初めて大人の世界に触れたのを懐かしく思い出します。
 水滸伝は大好きで、日本テレビが中村敦夫主演で制作したものも、「こりゃかなり違うな」と思いながらも、楽しむことができました。横山光輝の漫画にしてもそうでした。また、20年ほど前に中国中央電視台でドラマとして制作されたものも、「遇洪而開」から始まったわけではないのですが、ドラマとしての脚本にするための創作挿話がちりばめられているものの、原典を尊重したものとして楽しむことができました(もっと長い最新作が出ているようですね)。創作挿話にしても、菜園に出入りしていた魯智深の取り巻きが高衙内に「ちょっとした復讐」をしたり、武十回の潘金蓮事件を彼女の視点から描いたりというように、「ホントはこんなこともあったんじゃない」という描き方や、林冲の死を招安直後に持ってくるなど、ドラマ制作者の新解釈や工夫として好意的に捉えることができるものです。
 その後出版が始まった北方水滸伝は、彼の「三国志」の描き方、特に主要人物の死の描き方が一人称になっており、独白から死因になる病が推測できる部分(例:諸葛亮の死は過労による心筋梗塞:心筋梗塞を患った私自身の経験といちいち符合)は彼の力量を感じさせるものであったことから、「水滸伝」でも一人一人の登場人物に巧みな挿話を入れたストーリー構築になるのではないか、と期待して読み始めました。黄巣の流れを汲むと思われる塩闇商人の組織が描かれるなど、歴史に学んだ小説になるのかなと思いながら2―3冊読み進んでいったのですが、貴殿同様、途中で読むことが出来なくなりました。
 過去の名作を換骨奪胎するということは別に構わないと思うのですが、原典の世界観を全て否定した内容に辟易としたのです。あれは水滸伝ではなく、登場人物の名前と時代背景がタマタマ一緒になっているだけの、全く別の物語です。かれは歴史ある創作をグチャグチャにし、誤解を恐れずに言えば、原作者の名前を盗んでいると思わざるを得ません(もっとも、それが通用するのは夜郎自大の国の中だけですが)。
 そう思って、読むことも止め、買った本は悉くBookOff送りとなり、忘れかけて10年が経ちましたが、昨日たまたま、このブログに行き着き、私と同じ思いを持っている方に出会えた喜びから、コメントをお送りする次第です。私などよりも、ずっと的確に「北方水滸伝」の問題点を指摘しておられる、原典をこよなく愛しておられる方と巡り会うことができ、とても嬉しく思っています。
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Unknown (はぬる)
2013-06-14 21:20:07
花和尚さん
コメント有難うございます。

>原典の世界観をすべて否定した内容
たとえ小説としていかに優れていようとも、原典の世界観を否定してしまうのであれば、『水滸伝』を名乗ってはいけないはずですよね。
「盗んでいる」という表現は言い過ぎではないと思います。
ですが、日本の市場における「水滸伝」は彼の小説が独占している状況です。
中国の新作水滸伝が最近、レンタル開始されましたが、そのPR雑誌にも一番始めに北方謙三氏のものがきている始末です。
本当に水滸伝をPRするのであれば、吉川幸次郎氏や駒田信二氏が翻訳したものを紹介すべきなのに、それらは影も形もありませんでした。
このような状況は、日本の文化レベルの後退と解釈することも可能だと考えています。本当に残念な状況です。

しかしながら、これらの考察を通して、花和尚さんのような、水滸伝が好きな方々と意見のやり取りをしたり話し合うことができて、大変嬉しいです。
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何とあの岡崎由美教授が!!! (叢雲乃飜)
2013-07-08 11:40:25
こんにちは(叢・ω・)ノ


お久しぶりッス<m(__雲)m>


今日知ったのですが岡崎由美教授が江戸時代に輸入され、
翻訳された明代の演劇「水滸伝」を整理し出版なされるそうです。


これは真の水滸伝ファンには涎が出る程の情報と思い記載したのですがご存知でしたか?


待ち遠しくて待ち遠しくて溜まらん(笑)



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Unknown (はぬる)
2013-07-08 20:29:14
叢雲乃飜さん

おぉ~明代の演劇「水滸伝」ですか!
読みたいですねぇ~~~

この情報、知りませんでした。

李進義とか阮進とか小旋風より席次が上の黒旋風なんてのも読めるんですかねえ…

興奮必至の情報ありがとうございます ^0^
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退店行動 (高給)
2013-08-31 07:09:46
北方水滸伝で検索したら出てきたんで、気になって凄く楽しく読ませて頂きました。

なぜ、コメントかこんなに少ないんでしょうか。理解出来ないですね~、ホントに。


批判コメントがゼロとは。

あっ、、
批判する価値ないもんねww

水滸伝じゃなくてよくね?←本気ですか?この本を読んで、貴方の好きな水滸伝に辿りつく人もいるだろうに。

勝てん誇示←本気ですか?ギャグですよね。

確かに別物です。でも、原本つまらないですからね。



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Unknown (はぬる)
2013-09-01 20:18:21
高給さん

コメントありがとうございます。

>水滸伝じゃなくてよくね?←本気ですか?この本を読んで、貴方の好きな水滸伝に辿りつく人もいるだろうに。

「はい、確かに北方『水滸伝』から水滸伝にたどり着く人もいるでしょうね。それで?北方『水滸伝』が水滸伝でなければならない理由は何ですか」とだけ答えてもいいのですが…

確かに水滸伝にたどり着く人もいるでしょう。その人にとっては北方『水滸伝』が入り口として機能したことは否定しません。
が、多くの人は北方『水滸伝』でとどまっているばかりか、日本において水滸伝とは別物の『水滸伝』が跋扈していることも確かです。
そして、それがオリジナルとは違う、北方氏のものだ、とはっきりわかる形で提示されていて、かつ北方氏も出版社も、そして北方『水滸伝』ファンも違うもの(比較の対象になりえないもの)として扱うのであれば別にこんな文章書きません。
水滸伝の延長線上になりえないものを勝手に持ってきて『水滸伝』と称するからおかしいんじゃないの?と疑問を呈しているだけです。

>勝てん誇示←本気ですか?ギャグですよね。

意味がわからない…と思ったら、なるほど、私のブログ名を「かてんこじ」と読んで漢字を当てたんですね。
え~…私は何と戦っていて、何に勝とうとしているのでしょうか?やはり意味がわからない…。
勝手な当て字をつけて、勝手な妄想をするなんて、まさに北方氏が水滸伝のキャラクターたちを勝手に変えたことと同じことを実践なさっているんですね!!!!

なお、読み方についてはこちらから示したことはございませんので「かてんこじ」でも「なつてんこじ」でもいいのですが、私としては中国語風に「しゃぁてぃぇんぐーしー」と読んでいただけると嬉しいです。

>確かに別物です。でも、原本つまらないですからね。

「でも、原本つまらない」から何なんでしょう…
別にあなたに「原本を面白がれ」と強要した覚えはないですし、あなたに「北方氏の『水滸伝』を面白いと思え」といわれる筋合いもありません。

また、別物ならやはり北方氏『水滸伝』は原典とは別物であることがすぐわかるようなタイトルなりにするべきでしょう。
そして、この一文で確実に北方『水滸伝』の読者には水滸伝に対して傲慢で不遜な方がいるということがはっきりしたわけです。

この一文で、私の主張を2点も補完するなんて、高給さんはなんてすばらしいんでしょう!!!!!!!!!!







…つーか、これで批判したつもりなんだろうか…
批判する価値ないなどと言いながら、反対の立場から書かざるを得なかったって言うのは、よっぽど北方氏の『水滸伝』がお好きなんでしょうね…
きちんとした批判なら、いくらでもしてもらってかまわないのですが、この「高給」さんのような、批判にもなっていない(個人の感想文でしかない)、でも批判したつもりのコメントを受け取ると、私の「北方氏の『水滸伝』を水滸伝として評価する」人たちに対する評価はより下がるだけだし、北方氏『水滸伝』を水滸伝として認めてはいけないという判断はより硬くなるだけなんですが…
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Unknown (ささ)
2013-09-07 00:16:09
はじめまして
水滸伝で検索したらこのブログが出てきたので興味深く読ませていただきました
個人的には水滸伝に忠実な作品に飽きてたこともあり、この作品が好きですが原作と違いすぎてダメというなら仕方がないと思います。そこは個人個人の感性一つ
ただあえて反論するなら

・アジアを下に見ている
・水滸伝が有名ではない

の2点でしょうか

北方氏の作品の傾向として「男の生き様(死に様)を書く・タブーへの挑戦」
が挙げられるかと思います
ハードボイルド作品を端緒にから最近はタブー視されがちな南北朝期・中国物の歴史小説等、作品の幅を広げており、
南北朝期の作品では後醍醐天皇を愚かだが大きな男として描き、三国志や楊家将等では水滸伝ほどではなくとも原作と大いに違う人物設定で描かれています
水滸伝の大幅な改編はアジア蔑視などではなく北方氏の姿勢に拠るものかと。

また、中国の古典小説は古くから輸入されたものも多く、日本文学に大きな影響を与えました。
三大奇書を始め、封神演技・岳飛伝・楊家将・金瓶梅等は現在でも著名な作家が多く書き、日本人に愛され続けています
中国の古典小説は欧米文学なんかよりよほど日本に根付き、日本人にとって身近なものと思いますが。。

水滸伝に関して言えば江戸期は滝沢馬琴・山東京伝・上田秋成等の作品に多大な影響を与え、
近代・現在では吉川英治氏の小説や駒田信二氏・吉川幸次郎氏の翻訳等を始め柴田錬三郎氏・津本陽氏・杉本苑子氏等錚々たる文豪があるいは原作に忠実に、あるいは大幅に改編され出版されました
勿論、小説だけでなくゲームや漫画・アニメ・梁山泊を冠した団体等、広く人口に膾炙されています
あまりに多くの作家が書き飽和状態(原作に忠実な作品が多すぎる)がゆえに敢えて全く違った世界を描いたという見方も出来ると思います
北方氏レベルならわざわざ剽窃せずとも十分売れてますし、北方水滸伝がオリジナルと思う粗忽者はそうそういないでしょう。
日本式のカレーやキムチの方が本場のものより好きだという人が多くとも日本がオリジナルだと思う人はほぼ居ないし、万が一、そう思ってたとしてもすぐに気づくレベルの話かと

それに、世界観が全く違う水滸伝はこれだけじゃありません。
例えば杉本氏の悲華水滸伝では登場人物がお互いに「君」付けで呼び合うような代物ですし、水滸伝を題名にいれ内容は現代や未来といったものも数多く見受けられます
また、作品は違いますが陳舜臣氏の秘本三国志では劉備と曹操が結託してたり。
まぁ、それが良い悪いは先にも書いたとおり個人個人ですが。。ただ、それでアジア蔑視はちょっと行き過ぎかなと

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Unknown (はぬる)
2013-09-07 21:25:19
さささん
はじめまして
コメントありがとうございます。

お答えする文章を書いたのですが、長くなりましたのでエントリーとしてあげたいと思います。

ご一読いただき、またさまざまなご指摘をいただければと思います。
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はじめまして (もく)
2013-09-21 23:58:07
北方水滸伝、通常の水滸伝(施耐庵作 駒田信二訳)や横山氏の漫画両方読んだ立場からしたら
まず北方氏の我慢して最後まで読んでみたら?って思います。
私は北方水滸伝を兄に借り、その時にどんどん戦死していく水滸伝と聞いて「108人揃わないなんて、そんなの水滸伝じゃねー!」って思ったけど、面白いですよ。

元々ファンタジーな通常水滸伝をリアルにしたらこうなるな~って感じでしょうか。
終盤大半が空気になってしまう通常版と違い、一人一人丁寧に描かれていますし。

、「(遇洪而開がないなんて)こんなのカレーじゃない。日本のカレー(通常の水滸伝)が一番おいしい」

と食わず嫌いせずに一度食べてみることをおすすめします。
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小説としての評価と水滸伝としての評価 (はぬる)
2013-09-22 12:48:22
もくさん
はじめまして。
コメントありがとうございます。

小説としては、非常に面白いものなのだと思います。

う~ん…私が感じる違和感は小説として、ではないんですよ。
例えるなら、
牛乳を飲もうとして冷蔵庫の中の紙パックの液体をコップに注ぎ、飲み干すとします。
それが牛乳なら何でもないのですが、牛乳だと思っていたものが、実は飲むヨーグルトだった時ってすごい違和感を感じますよね?
そのとんでもない違和感…それと似ていると思います。
ヨーグルト自体は美味しいんですよ。
でも上記のような状況では、うわ!なんだこれ!となってしまいます。

で、北方謙三氏の"水滸伝"はヨーグルトであるにもかかわらず、「牛乳だ」「昔の牛乳よりずっとうまいだろう」
と言って憚らないわけです。
これが、北方氏や彼の"水滸伝"を水滸伝として評価する人たちの問題点ではないかと思いますが、いかがでしょうか?
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