大阪市内ほとんどの街歩きをカバーしていそうな「大阪あそ歩」を参考に歩きました。(2017.03.30)
江戸時代の遊里は、江戸の吉原・京の島原・大坂の新町は有名です。
大坂の新町は、現在も町名として残っています。
西区の西長堀から新町まで歩いてみました。
出発は、地下鉄西長堀駅です。
木村蒹葭堂邸跡です。隣には、大阪市公文書館もあります。
『木村蒹葭堂(1736~1802)は文人、画家、本草学者、蔵書家、コレクターで、北堀江瓶橋北詰の造酒屋の長子として生まれ、通称は坪井屋(壺井屋)吉衛門といいます。書斎庭に井戸を掘ったときに葦(蒹葭)が出て、それを愛でて号としました。幼少の頃から好学多芸で、文学、絵画、本草学、篆刻、物産など万物に精通し、蘭語も得意で、 蘭学者番付に名が載るほどでした。交友も広く、「蒹葭堂日記」には延べ9万人もの来訪者が著されています。寛政2年(1790)55歳のときに酒造統制違反で町年寄役を罷免され、伊勢に転居しますが、これは寛政の改革で大坂商人の勢力を弾圧しようという幕府の意図があったともいわれています。しかし2年後に帰坂し、船場呉 服町で文具商を営むと稼業は栄え、以前にも増して隆盛となりました。享和2年(1802)に没して、天王寺区の 大応寺が墓所です。膨大な蔵書は幕命で昌平坂学問所に納められ、現在は内閣文庫に引き継がれています。』
土佐公園があり、北側に土佐稲荷神社もありました。
『当地は長堀川沿いで、かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われていました。古くから屋敷内に稲荷社はありましたが、享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営しました。廃藩置県後の明治6年(1873)には、元・土佐藩士で新政府高官となっていた後藤象二郎の斡旋で、坂本龍馬の海援隊の経理を担当していた岩崎彌太郎(1835~1885)が「三菱商会」を設立。土佐藩の負債を肩代わりする条件で、船3隻を入手して海運業を始めました。これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりで、要するに土佐稲荷神社は三菱創業の地ということになります。このとき彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリーダイヤ)を作り、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリーダイヤは入っています。神社には岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、 神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。また当地は江戸時代より桜の名所として有名 で、宝井其角の「明星や桜定めぬ山かつら」の句碑があります。桜の木々は大阪大空襲で全焼しましたが (灯籠などが焼けこげているのもその名残です)、戦後、若木が植えられ、現在は復活しています。第12代 横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存しています。』
西長堀団地です。司馬遼太郎氏や森光子氏が、お住いになったそうです。
『昭和32年(1957)に日本住宅 公団が建設しました。東京都に造成された晴海団地高層アパー トと並び、日本住宅公団による高層住宅の第一号で、11階建て のマンモス団地です。関西における公団高層住宅の先駆けで、 当初の入居者には著名人が多 く、作家の司馬遼太郎、作詞家の石浜恒夫らが入居していまし た。司馬遼太郎は産経新聞夕刊連載の『竜馬がゆく』(1962~ 1966)をここで執筆しました。』
左は西側、右は東側から。もちろん、新しく建て替えられてます。
2枚めの資料と重なってきます。
玉造橋交差点です。
『かつてあった玉造橋が交差点名の由来です。玉造 の名は17世紀半ば、大坂城・玉造口の与力・同心が 増員のため、ここに移転させられたことによります。』
伯楽橋です。
『明治41年(1908)、市電東 西線開通に合わせて架橋。 西詰めに開かれた松島遊郭の圧力で 、昭 和15 年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。伯楽というのは『荘子』に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しを見分ける名人のことで、そこから牛馬の売買・仲介者、病気などを治す医者のことなどを指す言葉になりました(伯楽の音変化で博労、馬喰ともいいます)。木津川が日本全国の物産の集積地になると、このあたりは陸上輸送の拠点になり、荷馬車の業者が集まったことから、そのような橋名になったと推測されています。』
西区役所に戻ると、すぐ近くに細野ビルヂングがあります。
『「細野組」の営業部として昭和11年(1936)に建築されたものです。細野組は明治5年(1872)生まれの細野濱吉氏(瀬戸内海の家島出身)が創業した建設会社で、御堂筋の道路工事、大阪築港、芦屋六麓荘の総合開発、芦屋学園の創立などを手がけました。現在のビルオーナーは細野房雄氏で、一時は、老朽化のためにビルを壊して新しいビルを建てようと考えたこともありましたが、改めてビルの魅力に気づき、たった一人で、1つ1つ手作業で修復しました。現在は、オーナーの人柄と味のあるレトロビルに魅せられて、学生からアーティストまで様々な人が集い、アートイベントなどが行われています。 また「大阪楽座事業」の歴史的建造物にも指定されています。』
新なにわ筋、鰹座橋交差点です。
『鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられています。鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれました。江戸時代 は鰹座橋と玉造橋の間に土佐藩大坂蔵屋敷があ り、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木などが大量に陸揚げされ、盛況を極めました。』
大阪市立中央図書館です。(この図書館に来ることも、目的でした。詳しくは、後日。)
『昭和36年(1961)に大 阪市制70周年記念事業として旧・大阪市立中央図書館が建てられ、 平成8年(1996)に現在の建物に建て替えられました。蔵書数344 万冊、年間700万人の来館者がある全国有数の公立図書館です。』
大阪の昔からあるお菓子に“岩おこし”があります。名店あみだ池大黒です。
『文化2年(1805)創業。長堀川畔には西国大名らの蔵屋敷が建ち並び、年貢米を運んできた船が数多く停泊していました。あみだ池大黒の初代・小林林之助氏は、その船底にたまる余剰米に目をつけて、おこしの原料にすることを思いつきました。日露戦争時には、明治天皇より戦地への慰問品として送られる恩賜の菓子として阿弥陀池大黒のおこしが選ばれ、3代目・小林利昌氏は不眠不休で生産に励んで35万箱を3ヶ月の納期内に完納しました。おこしは兵隊達の人気を博し、昭和20年(1945)まで宮内省御用達となります。全国各地から集められた 約3500体の大黒様を集めた蔵は、第2次大戦の戦火でも焼け残りました。』
落語「阿弥陀池」に出てくる阿弥陀池・和光寺です。
『阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇6年 (600)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。元禄11年(1698)、堀江川が開削され、 堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智善上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りしました。境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の涅槃会や、4月の仏生会の植木市は、こと賑やかであったといいます。』
白髪橋交差点まで戻りました。
『鰹座橋と同じく、元和8年(1622)から明暦元年(1655)までの間に架設された橋梁と考えられています。北詰は現在の新町3丁目、 南詰は現在の北堀江3丁目にあたり、どちらも当時は白髪町でし た。橋名の由来は、新羅船がここに着岸して、後世、それが訛って白 髪町・白髪橋となった説(『摂津名所図会大成』)や、土佐藩が自国の 白髪山から木材を伐出して、当地に材木市場を設けたのが由来とする説(『西区史』)などがあります。江戸時代には阿弥陀池の和光寺と、寺の東側に繁昌した16軒の水茶屋への参詣遊山の人で賑わっ たといいます。』
この辺りは、大阪木材市売市場発祥の地があります。
『元和8年(1622)頃、土佐藩の申請で材木市が立売堀川で始まり、土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると、西長堀川でも材木市が許可されて、土佐、日 向、紀州、阿波、尾張など諸国の材木が集まり、西長堀橋南詰から富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけて浜側は、昭和 にいたるまで年中、材木市が開かれました。戦後、水質汚染が進み、舟運利用が減少したため、西長堀川は埋め立てられましたが、今でも堀江界隈を丹念に探索すると、材木商の看板などが点在しています。』
ここまで歩くと疲れました。大きな道に挟まれた緑地帯の木陰で休憩を取りました。
長堀通りの中央緑地帯・長堀グリーンプラザです。
少し東へ、地下鉄西大橋駅付近です。
間長涯天文観測の地です。この間読んだ「天文御用十一屋」シリーズですね。
『間長涯(1756~1816)は江戸中期の暦学者・天文学者です。名は重富、字は大業、家は長堀の十一屋という質屋で通称を五郎兵衛といいました。麻田剛立から天文学を学び、師の剛立から推薦されて、江戸に行って寛政9年(1797)に、寛政暦を完成。その功で幕府から直参取り立ての話が出ましたが、これを辞退して大坂に帰りました。大坂では英国製の観測器具、技術を研究して、富田屋橋で天体観測に従事。長涯が橋中で観測を始めると、町民が通行をとめたといいます。 卓越した観測技術は、弟子の伊能忠敬にも伝えられ、日本地図作成に大いに役立ちました。「間長涯天文観測の地」の碑は大阪市によって長堀川ほとりに建てられましたが、長堀川埋め立てでグリーンプラザ内に移されました。』
ここにも橋がかかっていました。西大橋です。
長堀グリーンプラザの橋名板や記念碑群です。
『西長堀川は昭和48年(1973)6月に埋め立てられて道路になった。寛永2年(1625)に掘られてから348年の川の歴史を閉じた。その名残の橋の名板や記念碑が長堀通りの中央緑地帯・長堀グリーンプラザにいくつも残されている。 白髪橋から東へ、大阪木材市売市場発祥の地の碑、問屋橋の名板、富田屋橋の名板、間長涯天文観測の地の碑、西大橋の 名板、そして四ツ橋記念碑と上繋橋・下繋橋・吉野屋橋・炭屋橋の記念碑などである。』
3枚目の資料です。
新町南公園と砂場跡の碑(麺類店発祥の地碑)です。
『秀吉が大坂城を築城したときに、大坂の各地に資材置き場が設けられたが、新町には砂類の蓄積場があった。工事関係者が多く集まり、その人々に麺類を提供する店「いずみや・津の国屋」などが開業したと古文書にある(天正12年・1584 年)。本邦麺類店発祥の地であるとして、大阪のそば店誕生四〇〇年を祝う会が建立した碑が新町南公園にある。』
新町南公園の北には、新町演舞場と新派壮士芝居
『戦争で焼けるまで新町演舞場は新町廓の芸妓たちが踊りを披露した舞台であった。春の浪花踊は京都の都をどりと同じで、大阪の春を告げた。戦災後、演舞場は書籍取次業の大 阪屋となったが社屋の一部に演舞場の外観がそのまま残されている。新町演舞場はかつて高島座、そして新町座といい、木造の芝居小屋で新派劇発祥の地である。角藤定憲は 21歳のとき旧派歌舞伎に対抗して新派を唱え、改良演劇と して自由民権運動の政治批判の壮士芝居をここで演じてみ せた(明治21年・1888)。明治の新興演劇は大阪の新町か ら起こったのである。』
と資料にありますが、演舞場の外観は新しくなったように思いました。
右が、角藤定憲 改良演劇創始の碑です。
築50年以上の木造日本家屋を見て、
四ツ橋筋を渡り新町北公園行きました。
西側に、新町九軒桜堤の跡碑(右)と千代女の句碑(左)が並んで立っています。
『近松の「夕霧阿波鳴渡」に登場する吉田屋は九軒町にあり、道路沿いに 桜堤の石垣があって、人々は遊里の夜桜を楽しんだ。その堤はこの碑 の辺りからなにわ筋を越えて、吉田屋があった現フーセンウサギ本社 屋の南側道路へ続いていた。夜桜見物は昭和初期まであったという。』
『(だま)されて来て (誠)なりはつ桜
もとは九軒町の西端にあったが、何度か移転され、現在は北公園に ある。九軒町の東端には芭蕉の次の句碑があったが、戦災で行方不 明になったままだ。 春の夜は 桜にあけて しまいけり 芭蕉』
公園の南向こうの角に、初世中村鴈治郎生誕の地碑もあります。
『幕末のころ(万延元年・1860)、扇屋のひとり娘・妙(たえ)と店に出入りしていた歌舞伎役者・三代目中村翫雀との間にできた子が、後に関西歌舞伎界を支える初代中村鴈治郎である。「心中天網島」の治兵衛を演じて「頬かむりの中に日本一の顔」と言われた名優。その三男が二代目鴈治郎、その長男が三代目鴈治郎でいまの四代目坂田藤十郎、人間国宝。初世鴈治郎生誕の地の碑が北公園の南西角にある。』
百田宗治の文学碑もあります。
新町通りです。
四ツ橋筋を渡り阪神高速道路の高架下に、
新町橋
『江戸時代の新町廓は、北は立売堀南通り、南は長堀通り、東は西横堀(四つ橋 筋)、西は現在の新町2丁目あたりの塀で囲まれた地域で、ここに遊女たちが閉じ込められていた。外界との出入りには 東口大門と西口大門が開かれていた。東の大門の先、西横堀川に架かる橋が新町橋で、寛文12年(1672)の創建。大門の通りを瓢箪町と言ったので、瓢箪橋とも言われ、船場の商人街、道頓堀の芝居小屋と結ぶ唯一の通路であった。順慶町、心斎橋から新町へ、通う人の群れを 当て込んで一六の夜店がたった。これは 戦前まで大阪名物といわれて続いていた。』
隣に、西六(さいろく)平和塔があります。
『満州事変から太平洋戦争への出征や空襲で亡くなったこ の地区の人々を慰霊するために昭和32年(1957)に地 区連合会によって建てられた。西六(さいろく)とは、西区 で北の西船場、江戸堀、靱などから6番目の地区になるという意味で名付けられた地区名(もともとは小学校区)。 立売堀、新町、西長堀の3町よりなるが、どれも由緒ある 古名で代表名を決められず、西六となった。』
このあたりを新町と言います。
『秀吉が天下を統一して大坂に城を築き、大坂のまちの建設をはじめたころ、戦いに疲れて大坂に集まった武士たちに大坂の色里を公認 した。これが遊郭の始まり。その後、大坂の夏の陣で崩落した大坂城を二代徳川秀忠が再建した。再建工事に集められた各藩の武士たちのために、風紀の乱れを案じた大坂城主松平忠明が散在する遊所を 一か所に集めた。これが公認遊郭・新町の始まりである。起源は京都嶋原、江戸吉原よりも古いといわれる。江戸時代より各地の公認・非公認の遊所の比較が行われてきたが、新町は東の大関(最高位)であるという記録もある。このあたりは 芦原の湿地帯で海へ水路が続いていた。西鶴の浮世草子、近松の浄瑠璃などにたびたび描かれ、多くの文人たちが訪れている。』
有名な太夫は、夕霧太夫です。
『遊女には、太夫、天神、鹿子位、端女郎の位階があった。扇屋の夕霧は歴史上もっとも有名な太夫として名を馳せている。本名はお照。京都の生まれで、京都嶋原の扇屋に抱えられていたが、扇屋が大坂新町に引越したときに夕霧もやってきた。このとき19歳。「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」(西鶴『好色一代男』)とされるほどの美形で「しとやかな格好で肉つきよく、地顔でも色白く、すがめでも情深く、酒も飽かず飲み、歌ふ声も好く、琴三味線に通じ、文句気高く、長文書き、物ねだりせず、人に惜しまず、手管に長けて、浮名が立つと止めさせ、のぼせあがると理をつめて遠ざかり、身を思ふ者には世間のことを意見し、女房のある者には合点させ、魚屋、八百屋までよろこばせた」(同)という。こうして、夕霧は、吉原の高尾、嶋原の吉野と並んで三大名妓といわれるようになった。しかし、大坂へ来てわずか6年後、病に倒れて25歳の短い一生を終えた。延宝6年(1678)の正月6日である。墓は下寺町浄国寺。鬼貫が「この塚は柳なくともあわれなり」という句をおくっている。歌舞伎では坂田藤十郎が「夕霧名残の正月」を舞台にかけた。33回忌には近松門左衛門が浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を書き、その名を不朽のものとした。』
新町のお茶屋
『新町廓の揚屋では、吉田屋、高島屋、茨木屋などが大きく、 置屋では扇屋(東・中・西)、くらはしや、つちや、つの井などのお茶屋があった。17世紀後半には2200人の遊女が ひしめいていたといわれる。繁華だったのは、伏見町の遊女屋を移した瓢箪町と玉造の九軒茶屋が移ってきた九軒町などである。瓢箪町に扇屋が3軒、九軒町に吉田屋があった。新町は江戸の吉原と並んで高級花街であり、お茶屋は高級武士や富豪商人の社交の場でもあった。』
最後は、四ツ橋です。記念碑だけがあります。
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