ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

ツライ記憶は忘れてしまえばいいのか?

2021年04月29日 | 沈思黙考

日本ではいま、本来ICU(集中治療室)に入るべき人が自宅に留め置かれている。メディアは「自宅(ホテル)療養」などという言葉を思慮なく使っているが、医師による往診や電話診療すらままならないのなら、明白な「放置」ではないのか。われわれ日本人は今回もまた、その犠牲が決定的なまでに悪化しない限り、起きている事の意味も理解できないのだろうか。そしてこの時代に学んだことをいつかまた忘れてしまうのだろうか。

自分さえ置き去りに生きる日本人

この大型連休中もふくめ今後なんらかの事故に巻き込まれたり、様々な理由で体調が悪化した場合、救急搬送が期待できなかったり適切な医療を受けたりすることが困難なのだとすれば、まぎれもない「医療崩壊」ではないだろうか。
いま、自分の地域ではどんな状況になっているか把握しているだろうか。

不安にさせることが目的ではないけれど、やはり問題意識や危機感が無さすぎる日本人が多いと感じている。「楽しいことに意識を向けましょう」というのも一理あるけれど、不都合な問題から目をそらし、ただやみくもに良い未来の到来を願ったり祈ったりしているだけでは、「これまで」と同じかそれ以上の悲惨を味わうことになるのではないだろうか。

筆者の言う「これまで」とは、具体的にはまずは先の戦争であり、また東京電力福島第一原子力発電所のメルトダウン事故をはじめとした大規模災害などである。
令和の時代を生きている我々日本人は、こういった難事を「国家的失敗プロジェクト」として学び、それを踏まえたうえで、いま自分が生きている、置かれている状況を考えてみる努力をしなければならない。

たとえば戦争についていうならば、祖父母の代でさえ当時の日本や日本人について考えてみることも、ましてや自分の子や孫に向かって語ることも出来ないありさまではないだろうか。
近代史の学習については3学期にあわただしく自分の体を通り抜けていっただけで、これを踏まえて現在の自分たちを考える発想すらない日本人が増産されてきた。

たしかに、自分や自分が所属する集団の「黒歴史」を考えたり直視したりすることは、大変につらいことである。
しかし問題から目を背け、考えることをやめたその先には、形を変えた再度の失敗が待っているだけではないだろうか。

自分レベルのプロジェクト思考

令和の日本では「経済か命か」とでもいうような構図で社会を見てしまいがちな空気がある。
たった10年ほど前、東日本大震災直後には「電力か命か」といった社会のとらえ方もあった。「この際、日本社会を強く束ねて引っ張っていくリーダーなら誰でも...」というような短絡的で単純な思考をベースに、強いリーダーの登場を期待する、ある意味危険な空気まで漂っていた。

なぜ日本人はそんな単純思考に陥ってしまいがちなのだろうか。筆者はその源泉は、日本人として敗戦を未だに総括していないことにあると考えている。
では総括とは何か。それは役所や研究機関などが「〇〇白書」のようなものを発行することではない。作家が小説を書いたり研究者が論考をまとめあげたりすることでもない。
今回のコロナのような大きな社会問題に直面した時、自分が直接の当事者であるかないかに関わらず、過去の失敗に照らして自ら学び考えることである。そして様々な場で自分なりに発言したり、行動したりすることである。「個人レベルのプロジェクト思考」とでも言おうか。

もちろん発言や行動と言ったって、なにか社会活動家のようになるとか、こだわり強く他人に絡みついていく人物になることではない。いろんな状況に応じて自分の考えや立ち位置を確認し、自分なりの言葉と行動で生きていくことである。

生きる価値と意味はどこに

アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦後、日本人は(政府の方針や政策もあって)経済的価値や物質的繁栄こそが人間として追い求めるものであるとすり込まれ、ほとんどそのことにしか意識を向けられないようになってきた。
しかしそれは「決して長続きする哲学ではなかった」と、もうそろそろ気づいてもよいのではないだろうか。

戦争にしてもメルトダウン事故にしても、深刻な問題を多様なかたちで未だに引きずっている。
しかし人類史に残るであろうこういった国家的失敗プロジェクトは、つまるところ我々日本人みずからが引き起こしたものとも考えることが出来る。なぜなら、目をそむけたくなる、考えたくもない自分たちの過去を、「見ざる、言わざる、聞かざる」、そして何かの、誰かのせいにして考えないことにしてきた結果だと思うからである。
そうして過去の失敗には出来るだけ意識を向けないようにしながら、水に流すように記憶を薄めながら、いまカネを稼いだ者だけが幸せに生き残れるのだと言わんばかりに突っ走ってきたのである。

「経済が回らなければ、飲食や旅行業の人を中心として国民生活はどうなると思ってんだ」。
「いや、カネか命かと言やぁ、そりゃ命だろ」。
などと正論の両極をぶつけあったところで、なにも未来は見えてこない。内部で憎しみ合い潰し合って自滅する、マヌケな集団のパターンである。だとすれば、そこで漁夫の利を得るのは周辺の国々かもしれない。それはなにも国が亡ぶなどと言った話ではなく、援助のような名目での(日本にとっては末恐ろしい)「借り」を積み重ねていくことである。
東日本大震災で米軍が行った「トモダチ作戦」に単純に感動している日本人もいるが、それはあくまでも冷徹に計算したうえで、米国にとっての利益になると判断したからこその行動なのである。たとえ軍事同盟があったにしても、人情で自国の軍隊を送り出すバカな国家などどこにもない。

話がそれた。
いま大切なことは、正論の両極をぶつけあうことではない。
日々の生活の保障(最低ラインの確保)を図りながら、検査、治療、予防(ワクチン)の体制を着々と整え、同時にゆるやかな経済にスローダウンすることを容認することではないだろうか。
少なくともアクセルとブレーキを交互に踏むようなことではない。それはウイルスの波状攻撃を政府が同じようになぞって、二層の波状攻撃で国民を痛めつけているだけだ。

私たちはどんな未来を選択するのか

コロナの収束までこの先何年かかるかわからないが、「ウイルス撲滅の勝利か、さもなくば玉砕(ぎょくさい)か」といったような単純な二項対立思考ではなく、スローダウンで切り抜けるという発想があってもよいのではないかと思う。
たしかにGDPは下がるだろう。しかし当面の影響を受けるのは投資家だとか大企業だとか、耐える体力のある集団や組織であり、ムダに金を保有している個人ではないか。それよりも今すぐ守らなければならない人、事、命があるのではないだろうか。

2020年の統計を振り返ってみると、コロナによる死者数は約3,500人だが、自殺者数は10代と20代の若者だけに絞っても5,000人を超えていた。このことが何を物語っているのかじっくりと考えたい。
ちなみに、その後コロナで死亡した人が急激に増え、2021年に入ってたった4か月で昨年累計の2倍近い死亡者を加えることとなった。また同じく2021年に入って3ヶ月で各世代合計の自殺者数はすでに5,274人に達している(警察庁統計3月末暫定値)。

もちろん、経済をスローダウンさせるといっても、国防や医療、警察や消防など、日本人の生存に直接かかわる部分には必要な資源を投入する必要はある。
しかし、一般の日本人が少し生活レベルを下げ、無駄な消費を控えたり制限されたりする覚悟が持てるならば、社会・経済を「縮退運転」にしつつ人の移動を抑え、感染症対策を効果的に進められたのではなかっただろうか。
消費が減退することによって衣食住が脅かされる人々には、そこをダイレクトに手当すればいい。なにも体力のある大組織や、利ザヤだとか価値の変動などで「生活費以外のカネ儲け」をする者に配慮する必要など、今の時点では無用だろう。
そしてこれは政治家たちだけの問題なのではなく、我々日本人一人ひとりの覚悟を持った思考力にかかっているのではないかと思うのだ。

そして

新型コロナウィルスのもっとも特徴的なところは、「無症候者による意図しない感染拡大行動」である。そして取り組むべき対象を把握せずに対策を打ったところでほとんど意味は無いわけだから、検査体制の充実は「いの一番」に行われるべきである。なのにその検査体制強化も、病床数の充実もこれといった進展がないままズルズルと1年が過ぎた。

その一方で「死んでも五輪開催」という態度を示す一群の日本人たち。自分たちの利益拡大、保身のためなら、日々の生活費を稼ぐことが精いっぱいの日本人の人生など知ったことではないと明言しているに等しい。

「五輪開催の可否はIOCが決めること」などと発言を繰り返すリーダーがいる。彼はいったいどこの国のリーダーなのだろうか。


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