ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

感染症、本当の恐ろしさ

2021年08月12日 | 沈思黙考

「怖さを知らないことが最も怖い」などと言うが、今まさにそのような状況ではないだろうか。
コロナ感染であるないに関わらず、本来入院すべき人が入院出来ない状態の継続・拡大、自宅療養や入院調整という名の病者放置。政府は以前から現状を過小評価することに必死のようだ。専門家といわれる各医療者組織の上層に位置する人たちも、いまひとつ強く発言できていないもどかしさも感じる。
この先、悲観的に準備しておいた者だけがマシな未来を迎えられるのだとすれば、今後の不都合なイメージを考えておくこともムダではないだろう。

【注意】筆者は医療従事者等ではなく、本稿では一般に公表されている情報をもとにした個人的見解を述べています。病気の予防や治療に関してはご自身の責任において判断してください。

誰もが生活・人生に窮するのが感染症

感染症の恐ろしさは、感染・発症した本人や家族の苦痛(場合によっては悲しみ)もあるが、忘れてならないのはその先にある「社会機能のマヒ」である。
それはつまり社会の状況が「ある一線」を超えてしまえば、感染していない人であろうが、ワクチン接種などで一定の免疫力を獲得した人であろうが、等しく生活上の影響を受けるということである。
現在すでに崩壊し始めている医療機能は、この社会機能の一部であることはいうまでもない。

ワクチンを打った人の中には「ワクチン打ったからイチ抜けた」などと言う感覚を持っている人もいるようだが、まったくもって悲しい誤解であることがわかる。社会全体としても改善に向かわなければ、個人レベルの生活維持・向上もままならないのが感染爆発なのだ。

ちなみに専門家の話ではワクチン接種者の約5%にはじゅうぶんな抗体がつかないという。またワクチンの効果が、期待するほど持続しないということもわかってきている。さらには実際に感染したとしても、感染を防ぐための高スパイクたんぱく抗体(S抗体)がそれほど出来るわけではないのだという。
むやみに脅すわけではないがワクチンを打っても、あるいは一度感染経験があっても、もう一度感染する可能性がゼロではないということになる。
「ワクチンを打ったからもう安心」などという考えは、罹患の可能性という面でみても誤りであることがわかる。

日本では感染症というものについて高校生の段階で学ぶことがある。それは、

  1. 第一段階で医療機関が機能破綻する
  2. 第二段階で社会機能がマヒする
  3. 第三段階で人々の世界観が崩壊する

ということである。このことは歴史と医学(疫学)の両面から証明されているといっていいだろう。
またこれらの変化はある時にサッと切り替わるのではない。いわばフェードイン、フェードアウトのように、「いつしか」移り変わっていく。また地域による差もある。
日本は部分的に第一段階に入っており、今後これが拡大していく可能性がある。それも加速度をもってである(現実にはさらに悪いことに豪雨などの自然災害も重なってきている)。

2021年8月上旬、現役世代のワクチン接種が十分進んでいない状況だが、仮に現役世代の多くが仕事に就けなくなると、それは社会機能が影響を受けるということになる。

具体的には、電車・バス・タクシーなどを運行する人の減少による間引き運転など輸送機関の機能縮減、電力をはじめエネルギーインフラの安定供給が危うくなる、携帯電話やインターネットを支える通信回線もメンテナンスや修理対応が間に合わない、もちろん最前線で接する医療者や救急隊員の減少、現場に出られる警察官の減少ということも考えられる。通販で物を買っても流通がマヒしていればいつ届くかわからない。コンビニへ行ってもモノがない。ゴミを出しても収集日が減らされており悪臭や害虫が人々を悩ませる。
例えばそんなイメージである。
しかし、人々が実感し始めるのは少しタイムラグがあるだろうから、「気づいた時にはもう遅かった」ということも可能性としては考えられる。

(追記:本稿を投稿した2日後東京都台東区は、まさに不燃ごみの収集が出来なくなったことを告知している)

昨年、「エッセンシャル・ワーカー」という新しい言葉を覚えた我々だが、社会はなにも労働集約的な仕事をする人々だけで回っているわけではない。またリモートで仕事を完了できる人々を足し合わせたとしても同じことが言える。

昭和の軍部とそっくりな日本のリーダー層

戦争であれスポーツ競技であれ、あるいは消費生活であれ、およそ問題解決の始めに必要なことは正しい現状認識である。
新型コロナウイルスの問題であれば、いまどこで何人が感染しており、その人々がどのような症状を呈しており、それぞれの症状に対してどのような対応が行われているのか、ということになる。

そして現状をできる限り正しく把握したなら、国家や自治体の持てるリソース(金・マンパワー・立法など広い意味で)をにらみながら、そのオペレーションを検討・実行するべく、哲学に裏付けられた英知といったものを注いでいくべきだ。

しかし残念ながら我々が住む国のリーダー層は、正しい現状を知りたくない、信じたくないかに見える。そんな姿勢をダラダラと18か月以上も続けている。
そればかりか、問題を過小評価できる部分にだけ目を向け「厳しい状況ではあるが、それほどでもない」といった、わけのわからない説明?を続けている。

学校や会社でプロジェクト・マネジメントをかじったことがない人でも、そこにはなんら科学的、合理的思考が存在していないことがわかるはずだ。
こういった姿勢は、昭和の軍部(特に陸軍)の姿勢とそっくりである。もしそうだとするならば、日本人がいつか見たような破滅を再来させるのではないかと筆者は危惧するのである。

現状をきちんと見ようとしないだけではない。戦力(対応・対策)の逐次投入、つまり「対抗策のチョイ出し」という点もよく似ている。
筆者は前回、感染拡大を火災に見立てた。初期段階にややオーバースペックな対応をとって徹底的に消火しなければ、やがてその小さな火は加速度を持って燃え広がり、熱風や有毒ガスの発生、逃げ遅れ、建築物の破壊や爆発、火災旋風など新たな問題を連鎖的に発生させながら、手の施しようがなくなってしまうという話だ。

先の太平洋戦争の一局面で言えば、アメリカ軍が迫ってきた南方戦線に川口支隊や一木(いちき)支隊など、小規模な兵集団をチョイ出しするばかりの白兵突撃(生身の人間が銃剣ひとつで敵の十字砲火の嵐の中へ走り込んでいく)を繰り返し、無残で無意味な結果を招いたこととも重なる(この戦争についてはこの時点よりも前に敗戦は決定的だったといえる)。

楽観論とは、しっかりとした科学的・合理的裏付けがあったうえで語ることが出来るものだ。それなしに初めから楽観的な態度でいることは、単なる阿呆である。
スポーツ選手などが「競技を楽しむ」と言っているのは、それまでの長い期間にわたって徹底的に科学的・合理的な戦略・訓練を積み重ねてきたうえでの一言なのである。素人がオイシイ所だけを真似しようとすれば、大ケガするのは当然のことだ。

残念な人々の行動様式

今回の新型コロナの特徴の一つは、本来なら専門家が扱う世界最先端の領域の事柄を、我々のようなシロウトが「ああでもない、こうでもない」と論じているところにある。
ワケ知り顔に語るのが好きな人もいるし、良かれと思って不正確な情報を広めてしまう人もいる。「信じるもの(人)しか信じない」という思いからか、広く情報を得たうえで自分のアタマで考えようなどとは思わない人もいる。考えることそのものが面倒くさいという人もいるだろう。

テレビは信用できないがネットは信用できるとか、大人は信用できないが友達は信用できるといった考えの人がある程度存在するという。
しかし、そういった単純化したものの見方しか出来なくなっていることこそ問題ではないだろうか。大切なのは複数の情報ソースから得た個々の情報を見極める力である。

ある事実が自分の前に提示された場合、それが「レアケース」なのか、それとも何らかの条件下で一定の割合で起きていることなのか、あるいは自分の場合にはどう当てはまるのかといった考え方が出来なければ、その時々の印象だけで振り回され、結局は誤った判断をしてしまう。

打つべきか打たざるべきか

ワクチン接種については、現役世代のなかで「様子見」しようという人が少なくないようだ。
もちろんワクチンを打つも打たないも(現在の日本では)個人の自由であることは明白である。しかしどちらを選ぶにせよ、それを選択したことによってその後に何が起きうるのかということを認識しておかなければならない。

一般にワクチンは、「感染しにくくなる」「たとえ感染しても重症化しにくくなる」ことについては間違いがないようだ。
いっぽうで副反応が起きる場合もあり、その状況や程度には個人差があるが、おおむね「許容範囲」のようである。
ではいったい、今を生きている自分はどうすべきなのか。悩んでしまうのも無理はない。

見落とされがちだが、ワクチン接種をするにしても見送るにしても、それは自分一人の問題では収まらないということを忘れてはならない。選択したことの結果は、必然的に自分の周囲にいる人たちをも巻き込むことになる。
接種しなかった人が感染するのは仕方がない(説明がつく)としても、その人が無症候のまま「運び屋」となって、誰かを苦しめたり悲しませたりする可能性をどう考えるか。打たないことを選択するということは、こうした可能性も選択したことになるということを考慮しておく意味はあるだろう。

また逆に、打ったことによって5年後10年後にどのような問題が起きてくるかを人類はまだ知らない。
仮にSF映画のように妄想を広げれば、世界中のワクチンを打った人々がその後遺症に苦しむ「この世」で、打たなかった人だけが働ける人類として生きていかねばならないのかもしれない。
しかし妄想ではない事実がある。それはコロナに感染したとえ軽症で済んでも、後遺症に苦しむ人々が一定数存在しているということである。

筆者の知人に50代までこれと言って病気などしたことがない、ガタイのいい健康そのものの男性がいる。「今までこれといったこともなかったのに、今さら異物を体に入れるのも・・・」といって躊躇している。
たしかにその不安な気持ちはわかるが、人類の誰もがこれまで経験したことの無い(だからこそ「新型」と冠される)ウイルスを前に、「今まで何ごともなかった」という考え方がはたして科学的・合理的であるかどうかを検討すべきだろう。

さいごに

経済対策とコロナ対策を両方同時にやろうというのは、もう手遅れではないだろうか。ダイヤモンド・プリンセス号の問題が起きていたようなタイミングであればその戦略もあったかもしれない。しかし「病者放置」そして「放置死」がここまで広がっている今、経済を減速させてでもまず徹底的なコロナ対策を打つことが肝要なのではないだろうか。生存の不安を抱えながら仕事をしていても、決していい結果にはつながらない。
もちろん、経済的痛手を受ける人に対して必要な支援をするのは当然である。そしてそのうえで、状況をにらみつつ緩やかに各種の規制や自粛要請を緩和していくのである。

ただ現政権に期待しても意味がない気がする。かといって党派性のあることを叫んでみても現実的な意味はないとも思う。
政治を監視しこれに意見を述べたり行動したりすることは非常に大切だが、筆者は同時に自分自身のものの見方や考え方をいま一度、点検してみることが求められているのではないかと思っている。

自分が信じたい物語を裏打ちしてくれるような情報ばかりに意識を向けていないだろうか。いつまでもリスクゼロを追い求めていないだろうか。いろんな言葉を吐き出してはいても、ではその自分の日常行動は矛盾していないだろうか。
「縁起でもないことを言うな」「まさか、そんな大げさな」などと言いつつ痛い目にあっているのが我々日本人の特質であることも忘れてはならない。

また「ウチらは地方だし田舎だし関係ない」などというのも浅はかな考えだ。今後、短期~中期に渡って「コロナ疎開」「コロナ移住」してくる人々が想像できるだけではない。産業を軸としたあらゆる社会システムが減速していく中で、地方への富の流入や再配分も急減し、ウイルスとは別の意味で限界に近づく地域が出てくる可能性がある。そもそも地方は医療基盤が都市とは桁違いだから、「少しのウイルス」で一気に地域的崩壊につながるリスクが高い。

今後、コロナによるものであれ他の病気やケガによるものであれ、必要な治療が受けられずに重篤化あるいは死亡する人が増えていく可能性が高いと、医療現場から悲痛な声が上がっている。TVのインタビューを受けるコロナ担当の医師からは「看取り」という言葉も出てきている。

必要な治療を受けられなかった人々が累々と積み重なっていく状況になって、はじめて我々は事の重大さに気づくのであろうか。だとすれば我々日本人は戦後七十数年間、本質的には何も成長・学習できていないことになる。


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