ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

見渡せる技術者がいない

2020年07月07日 | 情報・通信システム

いまやコンピュータやインターネットをまったく利用しない企業や組織はほとんどないだろう。そこで必要になってくるのは技術者と呼ばれる人たちだが、個別の技術がわかる人は余るほどいるのに、状況を踏まえてその全体を見渡せる技術者がいない。そのためか、安易に無料サービスを使ってテレワークを始めたために、自ら情報漏えいリスクに身を投じている企業などもみられる。

スペシャリストとゼネラリスト

昭和の終わりごろ、つまり1985年頃だろうか、分厚い就職情報誌がいくつも刊行され、情報処理業界も「景気のいい人手不足」状態であった。コンピュータをまったく知らない学生でも大歓迎という求人広告が、そういった就職情報誌にあふれかえっていた。

そこでよく踊っていたキーワードに「スペシャリスト」というものがあった。
「〇〇のスペシャリストになろう!」といったフレーズが多用され、情報処理技術の分野において何らかのスペシャリストになれば、ゆるぎない競争力が自分につき、輝かしい未来が約束されるかのような空気を漂わせていた。

スペシャリストとは、つまりその分野の専門家ということだ。
しかし裏を返せば、その専門の範囲でしかものを考えたり、仕事をしたりすることが出来ないともいえる。専門外のいろいろなことを視野に入れ、考えあわせて総合的に判断・推進していくという能力はほとんど期待されない。

いっぽう、ゼネラリストは多分野の知識を持つ博学な人のことである。「何でも屋」といえば安っぽく響いてしまうが、幅広い知識や経験を持っている。
ただし、個々の分野についてはスペシャリストほど深い知識があるわけではなく、いわば「広く薄く」わかっているというような人である。
このゼネラリストが、状況や事情をも考えあわせて総合的に判断するセンスを持ち合わせていれば、責任者に助言をしたり、自分が主導して物事を推進したりすることもできる。

スペシャリストばかりの情報処理業界

当然のことだが、スペシャリストの発言というのは正確である。
しかし正確であるがゆえに、しばしば対象範囲の限定があったり、前提条件があったり、はたまた例外があったりする。そんなスペシャリストの話をじっと聞いていると、何かいいわけじみた事ばかり聞かされているような苛立ちを感ずることさえある。

昨今は新型コロナウイルスの問題で、おもに疫学・医学の専門家たちがマスメディアに頻繁に登場する。しかし聞いていると、結局自分はどうすればよいのかわからなくなってくることがある。
スペシャリストは、(あたりまえだが)間違ったことを発言できないがゆえに、結局は「外出は控えなければいけませんが、運動をしなくなるのはいけませんね」といったような言い回しになってしまいがちだ。

情報処理の分野で言えば、「〇〇社製の△△システムは、これこれの理由で優れている」と的確に説明できるものの、それで事がうまく進まない場面になると、「あ、これは当初の要件定義に沿った製品仕様ですから」と言って切り捨てるようなものともいえる。批判はできないかもしれないが、悲しい話ではある。

「仕様ですから」と切り捨てられた中小企業の社長などが、「じゃぁ、オマエはいったい何者なんだ。専門家じゃないのか」と切れるようなシーンも見かける。しかし、専門家なのだから専門外のことは考慮しない、できないのである。

情報処理のゼネラリストを探せ

どうも昭和の終わりごろ以来、日本の情報処理業界は特定分野のスペシャリストばかり養成してきたようだ。全体の状況を見渡して発言・助言ができる、ゼネラリストタイプの技術者の必要性をきちんと考えてこなかった。

例えば、特定のベンダー(メーカー)の製品しか知らない技術者、特定の言語環境しか知らない技術者、クラウドには詳しいがその反対のオンプレミスを知らない技術者、ソフトウェアなどの基本技術層(ベースレイヤー)を知らないために上層の表面的な部分で悩み続ける技術者、Webのデザイン・設計はわかるがデータベースがわからない技術者……。
さまざまな技術者はそれぞれのタコツボに入って、じっと出番(仕事)を待っているような状況に思える。

もちろん、彼らスペシャリストが悪いわけでは決してない。ゼネラリストが極端に少なすぎるのだ。
しかしゼネラリストは簡単には育たない。あらゆることを薄く広く学ぶ期間が必要であるため、すぐには稼ぎ出さないからだ。あるいはゼネラリストというものは、育てるものではなく、本人が完成させていくものであるといえるかもしれない。
いきおい経営側としては、短期間でスペシャリストを養成し、その技術が旬の時期に稼ぎまくって使い捨てるような動きになりがちだ。新しい別の技術が台頭してくれば、次の世代の技術者を促成栽培するか、それこそ派遣会社から「レンタル技術者」を借りればいい、という論法になる。

こんな状態では、情報システムの導入に失敗する企業がたくさん出てきても不思議ではない。
システム導入の失敗はすなわち経営上の投資ミスである。失敗は隠したいのが常だから、内部で無理やり説明をつけてしまう。結果として失敗事例は学習されず、意識改革もできず、システム投資に失敗しつづける企業が絶えないのである(失敗していること自体に気づいていない企業も多数)。

そうして、日本企業の情報システム利活用は、いつまでたっても行き当たりばったりで、古くて、非効率なまま放置され、従業員はそんな社内システムに振り回されながら本業に精を出すという、まことに奇怪なビジネススタイルが常態化していく。

対策

長い目で物を見る、という考え方は、言い古された常識となっている。ところが、経済状況も情報処理技術もめまぐるしく変化している時代では、それは容易なことではない。企業を支える投資家なども、「ゆっくり確実に成長してくれればいい」などと悠長なことはいってくれない。

ではどうするか。
私は、中高年の優れた技術者を探し出せばよいと考えている。
確かに、世代的に人数も多く玉石混交であることは間違いない。古い技術に安住してしまい、新しい技術を学ぼうとしない者もいる。しかし長年の経験で視野の広い知見を持ちながら、年齢というただ一つの物差しで自動排除され、異なる業界に埋もれてしまっている「人財」が必ずいる。
ただこれは、決して「定年」問題を言っているのではない。情報処理業界では、30代、40代で現場から引きはがされ、もとより管理職になる道など設定されていなかったために、他社や他業種を転々としてしまうような人が、構造的に大勢いるのである。そこを見極めて自社に相応しい人財を探し出すことは、まともな経営者や業務管理者なら難しいことではないはずだ。

じつは経済状況が変化しようが、情報技術が発展・変化しようが、一貫したものの見方や考え方というものは確実に存在する。その一つには「何のため」といった考え方もあるだろう。情報システムを利活用する企業は、あくまでもビジネス・オリエンテッドにものを考えなければならない。例えばそういったところに的確に助言できる人財は、自らを振り返る部分が大きくなった中高年技術者の中にこそ存在しているのである。

「コンピュータやインターネットの問題は若い世代の専門分野」という脊椎反射的な理解がされている組織は、結局のところその情報システムと、それでメシを食っている企業に振り回されることになる。
幅広い知見を持った人財を得て、きちんと本来の業務に資するような体制を取らなければ、その企業の先行きは決して明るくない。


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