子安観音寺から見えていた神社の方へ行ってみます。
子安観音寺から完全に塀で仕切られているので、一旦道路に出ます。
式内社、比佐豆知神社です。
拝殿。
誰もいませんw
御祭神は、五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神、天照大御神、天児屋神、誉田別命、伊邪那美神、速玉男神、事解男神。
境内社は、須佐之男神、大山祇神。
創立不詳。
江戸・寛政年間の「伊勢参宮名所図会」「伊勢路見取図」に書かれている。
観音寺境内(南側)の神社が比佐豆知神社です。
また、比佐豆知神社は「式内社」と呼ばれる神社でもあります。
「式内社」は、大和朝廷の国家統一以降の律令時代に成立し、全国に二千八百六十一社あり、毎年二月の祈年祭には国(朝廷)より幣帛が奉られた由緒ある古社です。
当神社には、平安時代の延喜五年(905年)より二十二年かけて編纂された「延喜式」(神名帳)に記載されている神社で、伊勢国・奄芸郡鎮座の十三社のうちの一社です。
江戸時代は、観音寺境内(南側)に木舘明神(木立明神)、神明社(三社)、熊野権現、天満宮、富士権現としてお祀りされていました。
名称が比佐豆知神社に変わったのは明治になってからです。
「延喜式神名帳」記載の神社は、「延喜式内社」と呼ばれます。
江戸時代中期以降、神道思潮(復古)の時代的流れとなるにつれて、「式内社」は律令時代(古代)に国家より幣帛を受けた古社として、特に社格が高くなりました。
しかし、「延喜式神名帳」では国・郡と神社名しか書かれておりませんので、律令体制が崩れて中世・近世となり、神社の所在地が不明の「式内社」も多く、
「神名帳」の神社名と違った社名で呼ばれている神社もあり、「式内社」の名前を復活しようとしても、鎮座地が郡内のどこにあるのかわからない神社が出来たわけです。
当神社の所在地は諸説ありましたが、寺家の観音寺境内の神社が一番有力な説でありました。
江戸時代中期頃の郷土資料である「伊勢参宮名所図会」「勢陽五鈴遺響」「勢国見聞集」「伊勢国誌」などの書物には「比佐豆知神社、白子寺家の観音寺境内にある」と
書かれています。
明治初年、木舘神明社が比佐豆知神社となりました。
明治四十年には、字竹ヶ鼻に鎮座の比佐豆知神社、神明社(三社)熊野神社(熊野権現)の三社が合祀されて比佐豆知神社となり、字竹の鼻に鎮座の山神社(二社)、
錠之口に鎮座の山神社、字小山に鎮座の山神社の合計四社の山神社と、字渚に鎮座の八雲神社(牛頭天王社)が合祀され、二柱神社として比佐豆知神社の境内にお祀りされ、
現在に至っております。
寺家の観音寺の創建は、奈良時代(天平年間)です。
その当初より、神社が観音寺の境内地にお祀りされていたかはわかりませんが、江戸時代には観音寺の境内社として、観音様とともに寺家の人々を守り(鎮守)として
信仰されてきました。
明治以前は神仏習合の時代で、観音寺僧侶が神社もお祀りしていたと思います。
明治になって、政府より「神仏判然の令」(神仏分離の制令)が出され、神社は遷座先(他所)を探すこととなりましたが、他所が見つからず、観音寺境内の一部を
そのまま借用しました。
そして、寺院境内の景観を保ち、その後一部神社境内地(現神社場所)となりました。
また、神社は神職が奉仕するようになったわけです。
観音寺と共にあった歴史をもつ比佐豆知神社を、今後も変わることなく次代に伝えたいものです(比佐豆知神社栞より)
境内の中央辺りに不断桜があるのがわかります。
ホツマツタエにアシツ姫が母姉の妬みゆえの策略に貶められ、
皇祖ニニキネに疑われてしまったお話があります。
そしてその疑いを晴らすために、桜に誓いをたてる場面が以下の文です。
白子宮に 帰り誓って
妬まれの わが恥すすげ
この桜 昔曽祖父
桜内大人 この花捧ぐ
大御神 大内に植えて
伊勢の道 成る離るるお
計ります 桜心あらば
わが孕み 仇種ならば
花萎め 正種ならば
産むときに 咲けと誓いて
「姉たちに妬まれ、偽りの噂によってかぶせられたわが恥を、桜よどうか漱(すす)いでおくれ。
この桜はむかし、曽祖父の桜内の大人が天照様の伊雑の宮に献上されたのです。
天照神はそれを東殿にお植えになり大内の宮とされました。その桜は、男女の伊勢の道が正しく行われているかいないかを占う桜です。
わが腹の子が、誤った罪深い子種であるのなら、桜の花よ萎みなさい。もし正しい子種であれば、子を産むときに咲いておくれ」
その後桜の花は、季節外れにもかかわらず、見事に咲き誇るのでありました。
こうして皇祖ニニキネの疑いが晴れ、アシツ姫はこの名を賜りました。
また姫は 子を産む日より
花断えず 故にコノハナ
サクヤ姫
アシツ姫がコノハナサクヤ姫という名を賜った「花断えず」の桜、すなわち「不断桜」のことが書かれています。
さらにコノハナサクヤ姫は三人の子を産み、立派に育て上げました。
母の乳お以て 養します
子安の神ぞ
母君の乳を得て三人の御子たちは育ちました。
お育てするうちにアシツ姫は「子安の神」として讃えられました。
比佐豆知神社の比佐豆知も、久ッ霊(ひさずち)、久しく続く霊力ともとれます。
これは不断桜のことを意味しそうです。
子安観音寺のお隣の、第一さくら幼稚園。
子供の元気な声が聞こえてきます。
今は古代の事はハッキリわかりませんが、いろいろな歴史があり、それが繰り返され、
忘れられては、思い出される。
歴史は必ずしも重なるモノでもなく、同じ場所でも違った歴史があるのものだと思います。
コノハナサクヤ姫が白衣をまとった観音様として祀られることもあるかもです。