白雉が落ちてはいないから

小野不由美先生著、十二国記の「白銀の墟 玄の月」(新潮社)のなぞを考察、ネタバレ含まれるため、未読の方はご遠慮のほどを。

【ネタバレ】(1)泰麒の角はいつ治っていたのか 王気が分かるようになったのはいつ?

2020-02-26 20:46:34 | くらし・趣味
※「白銀の墟 玄の月」のネタバレを含みますので、未読の方はどうぞ読了されてからご覧くださいませ

小野不由美先生の十二国記最新刊、「白銀の墟 玄の月」のクライマックスで、泰麒の転変に驚いた方も多いのではないでしょうか。
泰麒の折れた角の治っていた時期について、それがいつだったかの検証をしていこうと思います。

まずは泰麒の王気が分かるようになった経緯を確認しながら、角の回復時期を検証します。
私は泰麒の角の回復時期について、過渡的だったのではないかと考えます。
なぜなら、王気を感じる様子が、段階的に描かれていると見受けられたからです。

まず角が治ったと思しき印象的な場面が、州宰の士遜と対峙した際に起きた、突然の不調のシーンです。

”そのときだった。泰麒が微かに声を上げた。足が止まり、一瞬、大きく天を仰いでから、がっくりとその場に膝を突いた。”
”床に手を突いた泰麒は肩で息をしている。顔を覗き込むと何かに驚いたように眼を瞠り、床の一点を見据えていた。”[2巻 9章 p159,160]

この突然の不調の時点で、角が回復し、麒麟としての力が戻ったとみて間違いないでしょう。
この不調になって以来の習慣として、泰麒は天候にかかわらず朝には庭園の路亭に出向いて北に向かい、何かを祈るように一礼するようになります。[2巻 9章 p187~]
項梁は路亭で北に向かって礼拝する意味を泰麒に問うて、文州に向かって祈っているのだと返され、文州で消息を絶った驍宗様を案じていたのだと、納得しています。[3巻 13章 p21]
これは驍宗様の王気が感じられるようになったことの証左と思われます。


ではこの段階で角が完全に治っていたのでしょうか。
私はこの時点では未だ角が治りきっていなかったのではないかと考えます。
麒麟としての力が完全には戻っていなかったと思われる根拠に、驍宗様の弾劾の場面、泰麒の様子に不可解な箇所があります。

”耶利が御簾越し、玉座のほうへと視線を投げたとき、泰麒がはっとしたように左手を見た。東の楼閣を凝視する。視線を追って耶利もまた東の楼閣に目をやった。怪訝に思って見守っているとすぐ、楼閣の扉が開いた。”[4巻 24章 p376]

驍宗様が弾劾の場に引き出される場面で、泰麒が突然王気に気づいたかのようなシーンです。
今までも王気を感じていたのであれば、突然王気に気づくというのには違和感があります。
単純に驍宗様が近づいたから王気がはっきりと感じられただけ、とも解釈できますが、ここでふと「黄昏の岸 暁の天」のふたつの場面が思い出されました。
ひとつは蓬莱に渡った神仙が歪んだ者になる、という説明のくだりです。

”――私の存在がこちらにいるときのように、きちんと形を保つことができたのは、主上が近くにいたときだけでした」”[「黄昏の岸 暁の天」 4章 p253]

絶えず存在を拒もうとする蓬莱において、主上を捜しに蓬莱へ渡り、王である陽子がそばにいたときだけ、確固として存在することができた、という景麒の言葉です。

もうひとつは泰王と離れた泰麒を心配し、廉麟が延王に言ったこちらの言葉です。

”「私たちは、王がおそばにいなければ生きていられないのですもの」”
”「国のため、民のためにあるのは、むしろ王です。私たちはその王のためにあります」”[「黄昏の岸 暁の天」 5章 p365]

麒麟は王のそばでしか生きられず、王のためにあるのだと、さらには王との別離は身体を裂かれることだと、廉麟の心情にありました。
引き離された王と麒麟が近づくことにより、麒麟としての本来の力が発揮されるのである、そう考えると泰麒の不可解な様子も説明がつくのではないでしょうか。

驍宗様が弾劾の場に引き出され、泰麒に近づいたことにより、泰麒の麒麟としての力が強く甦ったのでは、と考えることができます。それゆえ、驍宗様が近づいたことを端緒に、これまではそれほど強くは感じられなかった王気を、はっきりと感じられるようになった、そう解釈できるのではないでしょうか。
驍宗様と再開して、ようやく泰麒の角は完全な回復に至ったのではないかと思います。
(考えすぎかしら)

十二国記、読む順番は?

2020-02-25 23:27:01 | くらし・趣味
「白銀の墟 玄の月」の謎の検証の前に、十二国記のシリーズの既刊のはなしを少しいたします。
往年のファンのみなさまも、最新作をお手に取る前に、既刊を復習されてから臨まれた方も多かったのではないでしょうか。

初めて十二国記を読まれようとされる方は、刊行巻数が多いため、読む順番に迷われるのではないかと思います。
ファンの間でも、刊行順に読むのがよいとされていたり、外伝や短編は読まなくともよい、など様々に意見があります。
特に、多くの方が指摘されている、Episode0の「魔性の子」については、後半で読むことを勧める意見も多く見受けられます。

個人的にはこちらのブロガーさんの記事がとても丁寧で、親切でおすすめです。


しかし、一ファンのエゴとして申し上げるのであれば、
「できればEpisode通りに、全部読んでいただきたい」
これに尽きてしまうのです。
もしミステリー小説などで、結末を知らずにドキドキしながら読むのがお好きな方などは、Episode通りに読まれることをおすすめいたします。
これは、十二国の世界を知らずに、終始振り回されることができるからです。
そしてそのように読むことができるのは、本当に一度きりなのです。

Episode順通りをお勧めするというのも、なぜなら十二国記のシリーズはそれぞれがチュートリアルになっているからです。
一枚ずつ扉を開けるように、少しずつ十二国の世界観を知り得ていける、そういうシリーズになっています。
新潮社によってEpisodeが0~9まで付されていますが、こちらは出版社が腐心して番号を振られたように感じます。

また、全部読んでいただきたいと勧めるのも、全ての既刊は「白銀の墟 玄の月」のためにあると言っても過言ではないからです。
短編においても、直接のストーリーに関わらずとも「白銀の墟 玄の月」に登場する仕組みなどの世界観を補完する内容であったりしますので、「黄昏の岸 暁の天」の前にはぜひとも読んでいただきたいと思います。
「黄昏の岸 暁の天」を読み始めてしまうと、もう心穏やかに短編集に手を付けるということができなくなってしまいますので…。

ちなみに、私は「黄昏の岸 暁の天」を復習せずに「白銀の墟 玄の月」に手をつけてしまったことを途中何度も悔やみました。
既刊を最後に読んだ時期がかなり遡るため、内容に曖昧なところがあったものの、先が気になりすぎるあまり途中で読むのを止めることができませんでした。
久しぶりに十二国記を読まれる読者のみなさまにおいては、「白銀の墟 玄の月」に臨まれる前に、「黄昏の岸 暁の天」をもう一度読まれることをおすすめいたします。

熱く書いてしまいましたが、これから十二国記をお手に取られるみなさまの、素晴らしい世界が広がります様、心より願っています。

【十二国記ブログはじめました】

2020-02-24 19:27:14 | くらし・趣味
※「白銀の墟 玄の月」のネタバレを含みますので、未読の方はどうぞ読了されてからご覧くださいませ

2019年年末、十二国記の「白銀の墟 玄の月」が刊行され、金波宮から北の空を見送っていた長年のファンのみなさまは、新作刊行に歓喜されたのではないでしょうか。
当方も寝食を忘れて貪り読み、何度目かの再読でようやく気持ちが落ち着いたところ、様々に残された謎について、検証をしてみようと、ブログをはじめました。

さて、多くの方が疑問に思っていらっしゃるのは以下の項目ではないでしょうか。

・泰麒の角はいつ治っていたのか
・玄管とは誰なのか
・耶利の主公とは誰なのか
・驍宗麾下の裏切り者とは誰なのか
・そして最大の謎、琅燦はなぜ阿選に与したのか

琅燦は自分の好奇心を満たすためだけに、尊崇する驍宗を裏切ったかのように描かれています。
たとえば阿選との会話の中の琅燦のこの言葉です。

”「驍宗様のことは尊敬しているが、興味には勝てない。私はこの世界と王の関係に興味があるんだ。何が起こればどうなるのか、それを知りたい」”[3巻 13章 p73]

まるで自分の興味を試すために戴一国が滅んでも構わないかのような物言いです。
しかし、はたして本当にそうだったのでしょうか。

遅読な上に遅筆ですが、ひとつずつ検証していきたいと思います。