奥井川の山林は、人里離れた辺地であり、名の通り原始林と呼ばざるを得ない。
遥か昔、大倉財閥の大倉喜八郎が付近の山林を買収、林業事業に着手してからは、木材搬出や大井川を利用した流送は大変難儀であったと予想が付く。
東海紙料(現 特殊東海フォレスト)は明治40年に創立、直径の三双組が奥井川の山林搬出を担当、同43年まで行われた。その後は大倉氏の直営事業となる。
年を重ねるにつれ、搬出される材木の種類も変化し、三双組頃はシラベやトウヒが主であったが、次第にツガになりつつあった。
搬出された木材は、全て向谷貯水池(水門)へ貯蔵され、一般的な販売先は島田の木材業者(小林製材ほか)であった。一般向けのパルプ材も販売されていたそう。
奥井川山林の開発について
本格的な作業準備は明治43年3月より開始され、木材流送を実施する業者が集まり、作業員賃金、生活用品(仕送物品)の価格を決定後、作業計画を組んだ。
4月上旬、入山祝賀を執り行い、事業所に出発した。椹島の事業所ができたのは大正12年のこと。それまでは木賊、その後は中ノ宿(椹島下流)であった。
作業員、物資は今の登山ルートとは違い、山梨身延〜早川から大島、雨畑を通過し、俗に言う(所ノ沢越え)をするのが通常であった。(この頃は畑薙の開発はまだ入っていない。)
昭和8年、事業所が二軒小屋に転所してからは、早川新倉〜転付峠のルートが主流となった。
二軒小屋事業所。遠望に田代堰堤を望む。
竣工当時の田代堰堤。
次第に開発は進み、大正13年には入山作業員796名を記録、大正8〜15年の平均値は589名、昭和2〜14年の平均値は510名となる。
事業所や宿舎、倉庫などの建築物も順を追って奥地に建てられてゆき、大正6年〜昭和13年までに建設されたのは高瀬島(中ノ宿下流)に25棟、沼平(高瀬島上流)に26棟、中ノ宿に27棟、椹島43棟、二軒小屋37棟ほか183棟に及んだ。
地形的な考察から、他の町村と隔離されており、所得の貧しい井川村民にとって雇用機会が与えられ、その意義は大変大きい。山林奥地における大規模な木材搬出に係る作業員、流送作業員の雇用も増加。奥山への中継地として集落では商店、宿を営むものも増え、貨幣的流動も多くなり、村を潤す結果となった。
次第に搬出手段は索道に切り替わる。(次回、発電施設開発と流送手段の変化について、)
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