大井川流域の索道・林用軌道 など中部圏の産業遺構史料調査&探索、趣味のボヤき

投稿頻度は多くありませんが、ゆっくり気長にお読み、お待ち頂けますと幸甚に存じます。

ブログ休業のお知らせ

2020-08-10 12:44:00 | 趣味のボヤキ
皆さま如何お過ごしでしょうか。
猛暑が続く日々ですが、暑さにヤられず頑張りましょう。

当ブログですが、私の諸事情ですが、長期出張に入りますので、10月半ば(予定)までお休みさせて頂きます。ご理解の程、よろしくお願い致します。

秋には川根電力索道の本格調査も予定しておりますので、ご期待頂ければと存じます。

それでは、良い夏を。



画像は夏を感じられる上市町釈泉寺の農業用水路。




奥井川の林業 搬出編

2020-08-06 14:10:00 | 探索記録
奥井川の山林は、人里離れた辺地であり、名の通り原始林と呼ばざるを得ない。
遥か昔、大倉財閥の大倉喜八郎が付近の山林を買収、林業事業に着手してからは、木材搬出や大井川を利用した流送は大変難儀であったと予想が付く。
東海紙料(現 特殊東海フォレスト)は明治40年に創立、直径の三双組が奥井川の山林搬出を担当、同43年まで行われた。その後は大倉氏の直営事業となる。

年を重ねるにつれ、搬出される材木の種類も変化し、三双組頃はシラベやトウヒが主であったが、次第にツガになりつつあった。
搬出された木材は、全て向谷貯水池(水門)へ貯蔵され、一般的な販売先は島田の木材業者(小林製材ほか)であった。一般向けのパルプ材も販売されていたそう。

奥井川山林の開発について

本格的な作業準備は明治43年3月より開始され、木材流送を実施する業者が集まり、作業員賃金、生活用品(仕送物品)の価格を決定後、作業計画を組んだ。
4月上旬、入山祝賀を執り行い、事業所に出発した。椹島の事業所ができたのは大正12年のこと。それまでは木賊、その後は中ノ宿(椹島下流)であった。


作業員、物資は今の登山ルートとは違い、山梨身延〜早川から大島、雨畑を通過し、俗に言う(所ノ沢越え)をするのが通常であった。(この頃は畑薙の開発はまだ入っていない。)
昭和8年、事業所が二軒小屋に転所してからは、早川新倉〜転付峠のルートが主流となった。

二軒小屋事業所。遠望に田代堰堤を望む。

竣工当時の田代堰堤。


次第に開発は進み、大正13年には入山作業員796名を記録、大正8〜15年の平均値は589名、昭和2〜14年の平均値は510名となる。
事業所や宿舎、倉庫などの建築物も順を追って奥地に建てられてゆき、大正6年〜昭和13年までに建設されたのは高瀬島(中ノ宿下流)に25棟、沼平(高瀬島上流)に26棟、中ノ宿に27棟、椹島43棟、二軒小屋37棟ほか183棟に及んだ。

地形的な考察から、他の町村と隔離されており、所得の貧しい井川村民にとって雇用機会が与えられ、その意義は大変大きい。山林奥地における大規模な木材搬出に係る作業員、流送作業員の雇用も増加。奥山への中継地として集落では商店、宿を営むものも増え、貨幣的流動も多くなり、村を潤す結果となった。

次第に搬出手段は索道に切り替わる。(次回、発電施設開発と流送手段の変化について、)



寸又の幻の温泉(湯山温泉場のこと)

2020-07-04 13:25:00 | 探索記録
かつて、寸又峡大間川に湯山温泉が有ったことはご存知だろうか。今では夢の吊橋や、大間ダムなどでその地名が有名になった今、寸又峡温泉の原点とも言えるその温泉場をご紹介。

大間ダム落成記念絵葉書より大間堰堤、その上流を望む。



まず先に寸又峡温泉の概要
寸又峡温泉は大間川上流湯山澤から湧出せるものを本川根町によって大間に3km余り引湯したものであります。
泉質は硫化水素系単純硫黄泉 43℃湯量毎分500L、なめらかな肌触りは美人の湯として珍重。
(国民宿舎パンフレットより抜粋)

※大鉄発行の寸又山荘パンフレットでは硫黄泉42℃、湯量毎分400Lとある。


全盛期の湯山温泉場


湯山集落は明治22年に林業の拠点として開発され、温泉として発足したのは31年のこと。
今の寸又峡温泉も大間川湯山から引湯(引湯管による送水)をしている。(37年に設備工事完了)
湯山温泉の由来は温泉噴出地の地名から由来する。

落成後の第二富士電力大間川吊橋(画像は初代、現在の飛龍橋にあたる。)


昭和初期の離村では、大村4戸、滝浪2戸、安竹、望月の8戸の移転が決定。何も小長井、大間、中川根地区に移転。(昭和11年国土地理院地形図に基く。)

最後に
寸又峡温泉の源泉も大間川湯山の湯という事を心の片隅に置いて頂き、心ゆくまで秘境寸又の温泉を愉しんで頂きたい。

川根(志太)電力索道のこと ② 受電など

2020-06-20 18:21:00 | 探索記録

川根電力索道の受電(電気関係)について


索道運転当初の計画として、中平停車場に蒸気発電タービンを設置(20kw)した。

しかし大正15年、索道の延長計画に伴い笹間川に水力発電所建設計画の浮上。笹間村と伊久身村への電力供給権利の許諾を受けたが発電所建設計画は白紙となった。

というのも、笹間村日向から発電所位置測量及び、15年初頭には水路隧道工事を着工していたが、たったこれだけの発電量(計画では150kw)に対する設備が過剰(建設費の増加)であり、発電所を建設するよりも東海紙料の所有する地名発電所より受電を受けた方が安上がりと、川根電力索道株式會社取締役から提案され同年に中止とされた。

よって中平の蒸気タービンは廃止、笹間村と伊久身村へ配電設備を設置し、川根索道の電力供給拠点として送電を開始。(〜昭和2年頃まで)(発電モーターは伊久身、地名、前山の3箇所)


↗︎小僧淵より川根電力索道を眺望

   稼働全盛期の索道の鉄塔が伺える。


索道の動力については、起動時にはそれなりの負荷が掛かるが、一旦動いてしまえば荷重で下る力が働くのでスムーズに搬器が動けばそれほどの大きな力は必要無かった。

当初、索道自体民間の需要は少なく設備もそれなりに大掛かりであった。

①記事にも記載したが、その後沢間までの索道延長工事が開始され、発電所建設資材運搬や民間需要に大きく貢献したが、大井川鐵道の開通、発電所の開所に伴う荷扱の減少に伴い索道は廃止に追い込まれた。


実は川根電力索道は、物資運搬の貨物索道としては全国で最長を誇る整備であった。



電力関係についてはこの情報が全てでは無いので、資料が纏まり次第この件については追記記事にて公開いたします。

凡その概要に関しては此方ページをご高覧頂ければと思います。古い情報故に考察のご参考になれば幸いです。



川根(志太)電力索道 株主報告会のこと (閑話休題)

2020-06-13 23:46:00 | 探索記録
拝啓豫テ御通知申上置候通リ本日藤枝町役場會議場ニ於テ當社第〇〇回定時株主總會相開キ左記ノ通リ承認及決議相成候間此段御通知申上候也

川根電力索道株式會社
取締役    八木乙吉

承認及決議事項

第一號議案
昭和九年上半期營業報告書、財産目錄、貸借對象表及損盒計算書承認ノ件

第二號議案
昭和〇年上半期利盒金處分ノ件

原案可決

以上

毎年上半期(1/1〜6/30)、下半期(7/1〜12/31)の2回にかけて行われていた川根電力索道株式會社の株主総会。今と変わらぬ様に、郵便にて株主の元に上記の様な内容の書簡が届けられた。






当時の會社経営状況や、停車場別の索道荷扱数や、品目別での数量も記載されている。


閑話休題