元は邦訳が2003年に発刊されたもの。
2019年の現在でもなお"意識とは何か"という議論は未だ尽きていない。
ダマシオの描く構造は、身体の重視という点において、
私には腑に落ちるところが大きかった。
理解咀嚼して平易な言語にするのがとても難しいので、安直ながら
出版元のHPの解説を引用すると(乱暴な端折りで失礼します)、
表象が脳の中に形成されること、すなわち有機体が感情を持つことと、
有機体が「感情を感じること」とは違うというのがダマシオの議論の
重要なポイントです。
「感情を感じること」「感情を認識すること」のために決定的な役割を
果たすのが「意識」であるというのがダマシオの議論の構造となります。
引用できないけれど、表2-1が分かり易い。
自己については(以下本文から引用『』)、
著者が「中核意識」と呼ぶ、身体感覚がもたらす基盤のような意識は
コンピュータ上で常時動いているデフォルトのプロセスにも似ている。
「拡張意識(拡張された意識)」は「中核意識」なしには成立しないとしている。
社会活動や生産活動などは拡張意識なしには存在しえない。アプリケーション。
興味深い記述『中核意識の作用範囲は「いま・ここ」である。』。
認知症が進んでいくと「いま・ここ」度合いが高くなっていくのは、
稼働している意識が中核意識寄りになっていっているということなのかな。
やがて中核意識も失われる頃、ホメオスタシスが調整できなくなって
生物としての基礎機能が失われて生存が危うくなっていく。
『つねに変化する自己は中核自己の感覚である。重要なのはそれが変化する
ことではなく、それがつかの間ではかないこと、それは継続的な再製と
再生を必要とすることだ。一方、同一のままであるように思える自己は
自伝的自己である。』
憑き物落としのごとく爽快。
そして
『その知識の所有者の心の中に、他の有機体の心の中のイメージの
経験に相当するものを生み出せるようには思えない。』
脳内のニューロンのはたらきを誰かから誰かにコピーできたとしても、
『イメージの「経験」を手にしてはいない』
とも言っている。
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意識と自己
アントニオ・ダマシオ 著
講談社学術 2018/06 (2003年刊「無意識の脳 自己意識の脳」改題)
出版社: 講談社
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000276019
(2018.12.23)
脳出血で意識を失いその後生命を閉じていくのを目の当たりにしたから、
第一章で著者が意識の問題への関心が生じたくだりを読んだとき、
少しギクリとした。本は読み手を呼ぶ。そうしていつも助けられている。