花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

源満仲について①

2010年08月06日 | 茶話
 兵庫県川西市の市民ホールは「みつなかホール」といいます。初めて来た人は何から付けられた名なのか、今ひとつ判らないようですが、これは多田荘を切りひらいた源満仲の名からきています。JR川西池田駅前には、銅像も建てられて、ここ数年は満仲の功績を顕彰しようということになってきましたが、川西市が昔からこのように「満仲」を周知しようとしていたわけではありません。川を挟んで対岸にある池田市と比べると、文化政策に於いて500年は遅れている川西市ですが、近年、観光課にそれなりの人を得たようです。

          

          
          みつなかホール

 満仲は、六孫王経基の子とされていて、経基は清和源氏の祖ということですが、ここらあたり未だに判らぬことも多くあり、そう単純ではないようです。満仲の子の頼信の願文から、清和源氏ではなく陽成源氏であるとの論もありますが、それだけのことなら陽成天皇の父は清和天皇でありますから、そんなに問題ではない。経基の父が清和天皇の子である貞純親王か孫である元平親王かだけの違いになります。いずれにしても清和源氏を名乗っていて問題はありません。勿論、先祖をたどって行き着いた天皇の名を源氏の上に冠するというルールを厳密に用いるならば「陽成源氏」が正しくなります。貞純親王と経基の親子関係はかなり怪しい感じです。
 また、経基と満仲の父子関係もさらに怪しいところがあるようで、史料によっては経基の方が満仲よりも後に生まれたことになるものもあります。また、別伝では経基は897年生まれとあり、満仲が912年の生まれであれば、経基15歳の子として、当時の早婚を考えれば、納得できるではないかというところですが、経基が大きく関与した平将門の乱、その乱の端緒の段階で経基が京都に逃げ帰るのが939年、満仲は27歳になっているはずです。
 平将門の乱では、経基は武士として全くよいところがなく、単に命惜しさに京都に逃げ帰っただけですから、満仲の活躍する場がなかったにしても、経基はその後941年には藤原純友の乱を平定すべく出陣しています。29歳であり、武勇抜群の満仲がこういった過程で全く登場しないというのも不思議な話です。満仲の史料上の初見は960年といいますから、既に48歳になっています。(多田神社のHPではこの承平・天慶の乱に満仲が活躍した旨が記されていますが典拠がありません。多田五代記なる書物かと思われますが、これは江戸期の通俗軍談ですから、物語としては大変面白いものですが、史料として使うことはできません)
 経基の敵であった藤原純友が伊予の豪族高橋氏の出身である可能性が高いように、満仲も本来は北摂の有力豪族で、何らかの方法を使って経基と擬制的な親子関係を結んだ可能性もあるのではないかと思われます。後述する多田院のある兵庫県川西市には火打という地域があり、近年は廃れましたがなめし革の生産で有名だったところです。江戸時代の頭、浅草弾左右衛門が幕府に提出した上申書には自らの遠祖の出自は此処であると書いています。これは余談として、当時の武装と言うことを考えると皮職人、皮細工は必要不可欠のものです。満仲がこの軍事産業までを押さえた一大軍閥であったとすると、その当人が都からポッとやってきただけの貴族のボンチとは到底思えないのです。ただ、帰順した蝦夷を住まわせたものがそのように革細工を行う地域となっていったという説もあり(これらは後代の差別の淵源)、そうなると満仲の頃よりも子孫の頼義・義家あたりまでしか火打との関係は遡れぬかも知れません。
 さて、満仲その人でありますが、歴史学なんぞという仮面を被った向きからは「摂関家の走狗」などといわれ随分と評判が悪いのです。969年におこった安和の変において右大臣源高明に謀叛の意思有りと密告したとされていて、その密告という行為が武士にあるまじきことと受け止められているようです。しかし、これとて満仲を祀る多田神社のHPでは「源高明の叛逆を未然に鎮圧せる功」となるわけですから、現代日本の多くの人の祖である満仲を必要以上に貶めることはやめておきましょう。
 その多田神社、雰囲気としては昔の「多田院」という言い方の方がぴったりときます。写真は神社の東南の隅を写したものですが、石垣などは後世のものであるにしても、なんとなく武士の居館の趣が残っています。満仲の住まいであったものが、その死後に寺となり、さらに神社となったもので、本殿の裏には満仲の墓も残されています(最近見せてくれへんぞー)。
 満仲は晩年出家し、多田新発意(しんぼち)といわれたそうですが、貴族社会からは殺生を事とするものが何を今更と揶揄されたようなところもあります。が、素朴主義を信奉する小生らにとっては大江山の鬼退治の頼光やその父満仲、今昔物語集の「馬盗人」で描かれる頼信・頼義父子、そして八幡太郎義家等は半神的な英雄であります(というよりこれら5人が多田院の祭神)。兵庫県の川西市一帯には源家の家人であった摂津渡辺党の子孫であろうと思われる人も多く住み、満仲はやはり満仲公なのであります。尾崎士郎は「人生劇場」の中で、参州吉良港などでは吉良の仁吉は白馬に乗った英雄としてイメージされていたと述べています。北摂の川西・能勢・猪名川・三田などでは、源氏の武将は「武士の中の武士」というイメージで語られています(反面名月姫伝説が語る如く平氏は評判が悪い)。
 この満仲に関する伝説を取り上げていくのですが、先にも述べましたように満仲を貶めるつもりは全くありませんので、今も残る多田御家人の方々はどうぞご寛恕願います。多田御家人の多くは満仲直系の多田行綱が追放され、その子基綱が承久の乱に連座して処刑された後は守護直属となったようです。具体的な名字は挙げませんが、川西市や池田市、猪名川町や能勢町などで字名と同じ名字を名乗る人は多田御家人の子孫である方が多く、多田神社が主宰する「清和源氏子孫会」にも多く賛助されいます。いつの日か、北摂の山野に源氏の白旗が翩翻とひるがえり、武門の名を世に知らしめる日があるのだろうかなどと思うのは我がアナクロニズムの所産でありましょうか。

 トップの写真は多田院の西南の角 


6 コメント

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歴史の国に生まれながら・・・。 (道草)
2010-08-07 10:56:33
源満仲は、かなり昔に源氏の中興の祖・多田満仲(ただのまんじゆう)として覚えた(教えられた)記憶があります。当時(生存中)は、このような呼び方をしたのでしょうか。源頼光も〝みなもとのらいこう〟と覚え(させられ)ています。徳川慶喜も〝とくがわけいき〟ですし。
それより、現代日本の多くの人の祖である満仲・・・とはどう言う意味でしょうか。我が家などは、明らかに百姓の出の姓ですが。
吉良の仁吉も任侠映画(清水次郎長)でしか知りませんが、白馬に乗った英雄像ではなくて、博徒の親分(人望はかなりある)としての、娯楽イメージしかありません。こうして徘徊堂さんの記事を拝見していますと、日本の歴史教育が如何に疎かにされているか、と痛感せざるを得ません。
地方史でさえそうです。mfujinoさんにも言ったことがありますが、周山城址や宇津城その他京北地区の歴史や風土など、私の小~中の在学中に、誰からもどの先生からも、一言も話を聞いたことがありません。自分の古里の歴史でさえ、自ら興味を持って調べないと、無知のまま一生を終える・・・歴史国家の名が泣くようです。
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遺伝子 (gunkanatago)
2010-08-07 13:17:13
 道草様、コメントをありがとうございます。「ただのまんじゅう武士のはじまり」等といういろはカルタもありますね。われわれの二親は当然2人ですが、祖父母は4人、曾祖父母は8人となり、少し遡ると先祖(遺伝子を受け継いだ)の数は膨大なものになります。現在、生きている日本人の殆どの人は満仲の遺伝子を幾ばくか受け継いでいると考える方が自然です。
 道草様の遠祖が公文屋敷に絡む方であれば、伝承では物部氏ですが、中世には例えば宇津氏等の地侍とも婿入りや嫁入りがあったものと考えられます。宇津氏は遡れば土岐氏だったと思いますが、さらに遡れば満仲に至ります。その先は清和天皇ということであれば、現在の皇室が日本の各氏の総本家のような位置にもあるということになります。
 何世代かがこの山城国や丹波国で営々と暮らしてきたとあれば、満仲の血はより濃く流れているものと思われます。
 けれどもそれは満仲に限らず、桓武平氏の祖である桓武天皇の血もほとんどの日本人には流れているでしょうし、中臣鎌足に至ってはほぼ100%現代の日本人に幾ばくかのDNAを受け継がせていると思います。
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日本史は必須でない (mfujino)
2010-08-09 17:49:37
gunkanatagoさま、 私めは平安時代には殆ど興味がいかず、今回のお話しにはついていけません。断片的になりますが多田銀山の多田などはこの話に関連するのでしょうか?
納豆ロード→源義家→前九年の役→安倍貞任と興味に任せながら連鎖的に本を読んだりしていますが、炎立つの作者高橋克彦さんの影響でしょうか、源義家には武士を感じさせてくれますが、その父頼義には野蛮性を感じたりしております。
historyという訳ですから歴史を楽しむのは小説が一番、実証面はgunganatagoさまなどにお任せしておきましょう。
道草さまは地元の歴史についてふれられていますが、私が不思議に思っているのは、日本史が高校で必須履修科目でないことです。なんか東京都が必須にするということがニュースになった様記憶があります。ということは今までは必須でなかったということなんですよね。義務教育でないからということなのでしょうか?でも、自分の国の歴史を教えないって、こんな国ってあるのでしょうか?
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日本史必修へ (gunkanatago)
2010-08-09 18:58:40
 mfujino様、コメントをありがとうございます。まあ、そうおっしゃらずに平安時代も面白いですよ。小生は桓武朝や嵯峨朝における怨霊の形成や源氏・平氏を始めとする軍事貴族に興味が偏っていたのですが、繁田信一著「殴り合う貴族たち」を読んでからは藤原氏一門もおもしろいなあと思うようになりました。藤原道長などはめちゃくちゃな奴で、今までより好きになりました。安倍貞任等前九年の役については平凡社の東洋文庫から「陸奥話記」が出ていたように思います。
 多田銀山、多田の名は同じ多田から来ています。当時の鉱山は、現在の銀山町からさらに東の現在一庫ダムのある辺りまで広がっていたようです。一庫ダムの辺りならば多田のすぐ北ということになります。
 世界史が必修で日本史が必修でないと知ったときには小生も愕然としました。学問のための学問である国家形成論や中世史論などはどうでもいいけど、我々の先祖の有様は何らかの形で教えるべきですね。民俗学のようなものでもいいと思うのですが。
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土岐氏 (ささ舟)
2010-08-11 15:20:52
gunkanatagoさま、難しくてとてもコメントできません。高校で日本史を取得していないアホがここにいますから^^
満仲は清和天皇の曾孫にあたるのでしょうか。水尾の叔母から清和天皇は若くして位を譲リ僧になってここ水尾に住まれ亡くなられた。と聞いたことがありました。土岐氏で思い出したことがあります。昔、ある縁談の聞き合せで、土岐姓の方が、家柄のことを暗に言われて、「お淑やかな方をよろしくおたのもうします」と願われました。清和源氏に繋がるかどうか判りませんが、当地は曽我部町に数軒土岐姓があります。確か光秀と同じ紋所だそうです。
>500年は遅れている川西市ですが、近年、観光課にそれなりの人を得たようです。
なるほど、拍手です!わが町も思い当たる節がありまする。


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すみません (gunkanatago)
2010-08-18 12:51:08
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。また、お返事が大変遅くなり申し訳ありません。曽我部の土岐さんは間違いなく清和源氏だと思われます。亀岡から本拠地の多田はすぐ近くですから、満仲や頼光等も上洛時には西国街道まで出るのではなくて、亀岡経由で山陰道に出たと考えられます。その際には清和帝の御陵にも詣でたと思われます。
 明智光秀も土岐の末流といわれていますが、その光秀がかくも亀岡や福知山において顕彰されているのは源氏であることも一因かも知れません。
 ここ数日、亀岡の街中を何回か車で走りました。本当にしっとりとした良い町ですね。車から降りるとガーンと暑さが襲ってきます。あの特有の日射しの強さは何なのでしょうね。
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