花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

今の堀川の源は

2013年08月19日 | 徘徊情報・洛中洛外
 本日は、烏丸北大路にちょいと用事。用事を済ませた後。宿題の堀川の水源を探しに行きます。烏丸紫明から鴨川へ。この通は結局帰りも通ることになるので、この部分の写真は後ほど。
 とにかく、賀茂川の土手に出ました。前回、高瀬川とやすらい川の取水口はすぐに見つかりましたので、今回も楽観視しておりました。



 ところが進めど進めどそれらしい排水溝が見あたりません。北山橋を過ぎて、御薗橋近くの若狭川の河口まで来ましたが、発見できません。


北山橋


若狭川河口

 いくら何でも、これよりも上に堀川の取水口ということもあるまいと、少し川を離れます。ここら辺りには豊臣秀吉が構築した御土居の北東部が残っています。



 今回初めて知ったのは御土居の北辺の堀は若狭川であったと言うことです。この川は現在は暗渠になっていて、賀茂川に流れ込むわずかの部分だけが地表に顔を見せています。




若狭川

 ここまで来たらと川を渡って上賀茂神社にお参りをします。鴨氏とか葛城氏とか、神山とか天神とか、いろいろと考えさせてもらえるお社ですが、本日もまた脳みそが熔けそうな気温ということで、さっとお参りして、さっと退散です。知り合いの巫女さんを探すこともしませんでした。





 賀茂川に戻り、今度は右岸を下っていきます。対岸から見て、見落としがないかどうかを確かめるためです。
 賀茂川ではサギのダンスが見られました。魚を浅瀬へ追い込んでいるようです。なかなかに知恵者であります。




対岸から見た若狭川河口

 土手の道の東側は植物園で、気温さえ気にしなかったら快適な道が続きます。見落としていた排水口を2つ見つけましたが、流れの向きとの関係から考えて取水口ではありません。




排水口1


排水口2

 結局北大路橋を渡って紫明通に戻ってきました。


北大路橋より

 ということで、紫明通が始まるところにあるポンプ小屋と汲み上げた水を落としている小さな滝、こやつが堀川の水源ということになるのでしょう。となると堀川は賀茂川から水を引いているのではなくて賀茂川近くで地下水を汲み上げて、これが水源となっているということなのでしょうか。


ポンプ小屋



 その後は紫明通の中央分離帯の中を細く流れていきます。中央分離帯の中を進むことは出来ますが、やなに入った魚のようなもので入り口は開いているけど、出口はありません。柵を乗り越えねばなりません。同じ動作を幾たびかしつる。





 暗渠部のマンホールには「堀川」の文字。これがずっとあるのだと思いましたが、このマンホールのみでした。





 堀川通に出たところには、後花園天皇火葬塚があります。前に回った淳和天皇の火葬塚に比べると随分と小さなものですが、その小ささそのものが後花園天皇のゆかしさを示しているように思われます。
 光厳院を深く敬慕し、日本史上最大のアホである足利義政の奢侈を諫め、崩御の後ご遺骨は遺詔によって京北の常照皇寺、光厳院の御陵の横に埋められました。常照皇寺の「気」のよさはこのお二方の御心のやさしさから来ているのでしょう。それが見抜けなかった司馬遼太郎はお馬鹿さん。



 堀川通りに出ても、今出川まで、中央分離帯の中を堀川は流れていました。ただ、中央分離帯の中を歩いているのは小生だけなので、車のおっさんからは好奇の目で見られているようで、少々恥ずかしい感じもします。



 裏千家の縄張りが近づいてくると、立派な十三重の塔が見えました。



 今出川が近づくと再び暗渠となり、そして今度は堀川通の東側から、最近整備されたプロムナードへと流れていくことになります。



 結局、本日はここでおしまい。バスで阪急の駅に出て、ゴーヤの天麩羅を食べに行きました。このところ、その近所で買えるドエルのロールケーキにもはまっております。ゴーヤの天麩羅とスルメの天ぷらとケーキとビール、夏はこれが一番でんな。




11 コメント

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堀川の水源は琵琶湖では (mfujino)
2013-08-20 00:30:09
gunkanatagoさん、お暑い中をご苦労さまです。
堀川の水源は、私はやはり紫明通と見ています。それと疎水の分線というのがどうも匂いますね。何れにしても暗渠化された水路から取水しているのではなかろうかと思います。疎水の分線が鴨川の下を潜って、それを汲み上げて堀川に流し込んでいるのではなかろうかと。ということは堀川の水は琵琶湖からきているのかもしれません。その意味ではポンプ小屋がどうもプンプン臭います。
ただ私はgunkanatagoさんの様な行動力がないのでネットをいろいろ見てましたら、こんなサイトがありました。http://www.kit.hi-ho.ne.jp/u2me2/kyo/sosui/02.html
水道局に聞けば一発で解決しそうなテーマではありますが、こうして足で調査すると聞いて得た答えだけではない発見もあり、これぞ徘徊の醍醐味でありんす。単一の答をだすのでなくて、答を求めてどう動くかが大切だという人生そのものの感じを抱きました。
ネットをいろいろ見てたら、gunkanatagoさんによう似た人がようけいいやはりますなあ(^_・)また、若狭川が登場しましたけど、京都の街中には暗渠が多いんやなあと改めて実感しました。
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面白いですね。 (gunkanatago)
2013-08-20 13:25:38
 mfujino様、コメントをありがとうございます。ポンプ小屋のところで、「はて?何の水を汲み上げているのだろう?」とは思いましたが、まさか琵琶湖疎水が賀茂川を越えて(というか、潜って)流れてきているとは思いませんでした。本当に面白いですね。地下には何があるかわかりませんね。と、いうことは高野川も越えているということになりますね。何にしても堀川を流れている水が琵琶湖からとはビックリですし、二条城辺りでこの流れを見ても「まさか」と思いますね。
 若狭川は、一度また遡ってみようと、その時に思いました。「こだわり」という点ではマニアの人々にはるかに及びませんが、飲酒前徘徊を楽しむということで(笑)。
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あくまで我が推測です (mfujino)
2013-08-20 14:51:07
gunkanatagoさん、上に書いたことはあくまで我が推測ですございます。念の為。

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わざわざすみません。 (gunkanatago)
2013-08-20 16:11:32
 mfujino様、ご丁寧にありがとうございます。何にしても、琵琶湖の水が堀川にというのは面白いですね。
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堀川に流れて消えし佳き日なり。 (道草)
2013-08-21 08:45:25
堀川の水源は、結局は謎ですか。子供の頃(戦前ですが)は、昔は船岡山から流れていた川や、と教えられていました。地元の身贔屓かも知れませんが、水源の一部となる自然に流れる川は、存在したのではないでしょうか。

目を瞑れば、一条戻り橋の下には、赤紫色の水が流れているのが浮かびます。その水は、中立売の石橋の下を潜って二条城の方角へ流れて行きました。
当時の堀川通は、車がやつと一台通れる程度の道幅でした。時々、荷物を積んだ馬車やリヤカーが通りました。休憩中の馬の鼻先に悪戯をして、大きな息を吹き掛けられて驚いたのも、昨日の出来事の様です。

堀川京極には食べ物屋が軒を集め、いつも好い匂いで溢れていました。空腹の悪餓鬼はそんな匂いを嗅ぎながら、狭い通路を徘回したものです。
堀川端には柳の木が揺れていて、涼しい木陰を作っていました。敗戦間際に強制疎開で立ち退きになり、あの懐かしい堀川通は姿を消しました。

そして、いつしか堀川の水も枯れてしまいました。最近になり、整備された水路にささやかな流れが復活しました。一条戻り橋の上流は自然の姿が残っていて、蛍が飛び始めたとか。
いずれ、堀川は蛍の名所になるかも分かりません。その頃には、gunkanatagoの水源探しも決着が付いている事でしょう。
もしかして、堀川商店街(旧堀川京極)では、旨いスルメの天麩羅が見つかるかも・・・。
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灯台もと暗しで (gunkanatago)
2013-08-21 13:34:40
 道草様、コメントをありがとうございます。昔の堀川通、小生は勿論見たことがないのですが、お書きいただいた様子に何か懐かしさを感じます。
 堀川の水源、ウィキペディアですか、結局これにどなたかが書いて下さっていて、mfujino様の言われるように琵琶湖疎水分線の水が賀茂川を越えて流れてきていると言うことです。地図では紫明通から賀茂川の反対側にきれいな弧状に水路が見られますので、いずれ見に行こうと思っています。
 さらにこの水路は高野川も越しているようです。このウィキペディア、当たりはずれが大きいようですが、今回は当たりですね。
 堀川の商店街、良い居酒屋があるといいのですが。
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Unknown (道草②)
2013-08-21 15:02:15
gunkanatago様←敬称漏れでした。深謝です。
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Unknown (Unknown)
2013-08-22 11:12:51
>豊臣秀吉による都市改造が行われた時期になると,賀茂川の他に新たに堀川の水源が開削された.堀川修景整備調査報告書(1983 年3 月:京都市)の資料によると,新たな水源は尺八池やその周辺で,大徳寺の濠を経由し堀川へ接続されていた.しかし,元禄期になると一旦尺八池とその周辺からの水源は絶たれ大徳寺の濠は空濠となる.天明期になると大徳寺周辺に水源が出来る.慶応期までには再び尺八池やその周辺が水源となり,これは
明治初期から中期まで続いたと考えられる.不純物や鉄分が少ない堀川の水は染物の糊落としや余分な染料を落とすといった染物の洗浄に適しており,江戸時代あたりから友禅染といった染物の町として栄えるようになった.染織物業界の好不況は水洗いが行われる堀川の水の色で判断されたいたほどであり戦前まで続いていた.堀川筋の地下水脈は,茶の湯の文化を生み出し多くの茶道家が庵を建てた.また,中流から下流域の七条,八条では農業用水として利用されていた.
明治時代中期頃に入ると,尺八池とその周辺からの水
源が絶たれるようになり大徳寺の濠は空濠となる.さら
に,大正時代に入ると,京都市三大事業(水利・上水事
業・道路拡張ならびに市電敷設)の一環として琵琶湖第
2 疏水建設が行なわれた.琵琶湖第2疏水完成に伴い,市電の開通による道路拡張がされた.さらに軽工業化や都市化,舟運が陸運に取って代わるようになったその結果,西洞院川や今出川等の河川や水路の多くが暗渠化されるようになり,京都市市街地における平安時代より存在していた人工河川は堀川と紙屋川のみとなった.堀川は賀茂川を水源としていたが,疏水分線と琵琶湖第2疏水が完成して以降,次第に賀茂川を水源としなくなり疏水分線から水源を依存するようになった.疏水分線の水は小川を経由して堀川に流されていた.
1935 年,京都大水害など度重なる浸水被害により,
1940~1950 年代にかけて浸水対策が実施され,堀川の流路も変更されるようになった.そして,都市化に伴う下水整備・流域の減少,水質の悪化(ヒアリング調査より判明)により1963 年,第2疏水分線と小川の廃止により水源が絶たれ3 面コンクリート化や暗渠化されるように
なった.
現在の水路が残されている部分は,上京区堀川今出川
の起点から中京区の御池通付近までと,西本願寺の築地塀の前の濠,近鉄上鳥羽口付近から鳥羽大橋の手前で鴨川と合流するまでである.御池通以南から西本願寺の築地塀の前の濠までは暗渠化され都市下水路の役割を担い,地上は幹線道路として機能している.昔の面影は二条城の石垣や一条戻橋,堀川第一橋に見られるだけとなった.
現在の堀川の状況は,堀川の下に降りて犬の散歩をしている人や絵を書いている人がいて3面コンクリート化さ
れているにも関わらず堀川を利用している人はいる.し
かし,堀川にゴミを不法投棄する人がいる,橋や壁に落
書きをする人がいる,鳩の糞害等の問題点が浮上している.大雨になると堀川の岸壁にある下水口から処理しきれなくなった下水の余剰水が堀川に流れてくる.そのため急激に水位が上昇する.しかし,雨が止んで2~3時間後には水量が元の状態に戻る.その際,悪臭が漂いゴミが残る.このような状況から,現在の堀川の状況ではアメニティ空間や防災効果の機能を果たすとは考えられない.<京都市のネットから引用しました。
紫明通りの滝のところ3回ばかり通りました。

ドエルのロールケーキぜ不食べて見たいです。
ゴーヤの天麩羅はワタをとらずにそのまんま揚げるのもおいしいですよ。
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ありがとうございます。 (gunkanatago)
2013-08-22 13:54:43
 unknown様、ありがとうございます。どなたかだいたい予測はつくのですが、万が一間違ったら失礼ですので、このまま返事をさせてもらいますね。京都市が、このような丁寧な説明をしていたのですね。別に何かあった訳ではないのですが、今まで公的機関とはほぼ無縁の状態で来ましたので、「行政を」という発想が小生にはありません。おおいに反省せねばならぬ処ですね。
 ということで、あらかた問題は解決しました。後は疎水分線に沿って歩いてみることだけですね。今まで全く知らなかったことだったので、大変うれしいです。尺八池というのも一度行ったことがありますが、改めてまた訪ねてみたいと思います。
 ドエルのケーキ、阪急沿線で集合の時に持っていきますね。包丁も要るなあ。
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憑かれるということ (浮舟)
2013-08-22 18:15:10
 今回は、堀川の源流を訪ねて、土地勘のないものには口をはさめない細かい内容です。unknownさんの怒涛の解説とソースの提示には参りました。国土交通省の河川担当者かと思えるような博識ですね。
 よく知っている人に聞くのがてっとりばやいんですが、 実際に現場に行き、イメージを膨らませる醍醐味がたまりませんね。
 記事の中で、堀川の上にある中央分離帯の上を、徘徊堂さんが歩いていたら、車を運転する人たちが怪訝な顔をしたというくだりがありました。
頭をかすめた歌があります。
♪京都 大原 三千院 恋に 疲れた 女がひとり~
替え歌です。
♪京都 堀川 ポンプ小屋 川に憑かれた 男がひとり
熱中する、さらに取り憑かれたようになる。が、他人から見たら怪訝なことでしょう大事なことではないでしょうか。
 実は私も、本を読んだ後、取憑かれたようになって、いてもたってもいられなくなり、現場へ急行したくなる人間でした。
昔、佐野眞一のノンフィクション「東電OL殺人事件」を読んで、東京渋谷の殺人現場のアパートを見に行ったことがあります。夜行バスで大阪~東京を追復しました。誰かに聞き込みをしたわけでもなく、今は無人になったその木造アパートをながめ。アパートの地下にある居酒屋で一杯飲んだだけですが・・
 その殺された女性はかつてエリートでしたが、彼女の精神崩壊の過程に同情したのと、逮捕されたネパール人は、まちがいなく誤認逮捕だと思ったことが、動機です。そのネパール人が、冤罪として、最高裁で無罪判決が出た時は、うれしかったです。
 居酒屋では刺身と、ポテサラをたのみました。ははは。その夜のおどろおどろしい記憶はいまも残っています。



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