大江山の鬼退治は、敢えて言うと老の坂山地に跳梁跋扈する盗賊の群れを征伐したところに話の根本があると思われるのですが、であればこそ酒呑童子の子分どものうち、茨木童子等が残党として京都で活動するというのが解る訳で、丹後の大江山を根拠地としていた者が、親分がやられた後に、度々都に出てきて云々というのは、ちょっと合理的ではない。
この大江山の鬼退治の伝説は大層メジャーなものですが、パパの満仲と異なり頼光には、その他に例えばその根拠地であった北摂地方の土地に根ざした伝説がない。ただ小生の勉強不足に過ぎぬのかも知れませんが、頼光の伝説や説話には地方色というか、そのようなものが希薄な感じがするのです。
写真は、池田市の伊居太神社にある「頼光手植えの松」の名残です。もう何十年にも前に枯死し、今は幹の一部が保存されているのみならず、何の説明書きもありませんから下手をすると、そのままこれが何なのか解らなくなる怖れもあります。口碑というものは、しっかりと伝承されているものもありますが、圧倒的多数が日々消えていきます。ここに再た記すことで、その命が後数十年は伸びるかも知れませんね。但し、松の木が本当に頼光の時代のものかどうかは、定かではありません。清和源氏の根拠地たる北摂に於いても頼光の存在感というか、ああここで息をして生きていたのだなあということを偲ばせるものは、この木ぐらいなのです。
勿論、本拠地であった多田院には酒呑童子の首を洗ったという「首洗い池」、名刀「鬼切丸」等が残されていますが、遺物としての「鬼切丸」については、その伝承を疑う人もいます。また、「鬼切」の名称については、異なる伝承もあり、北野天満宮にも同名の刀があるようです。ところが、ここを一歩出ると頼光腰かけ石ぐらいあってもよさそうなのに、そういうものが見あたらないのです。
この奥に首洗いの井戸がある
比喩的に言いますと、兵庫県の川西市に入ると、至る所に満仲が居る。頼光の影は誠に朧であるというところです。やはり、これは満仲のように早くに引退・出家して多田新発意と呼ばれ、現に多田院の地で亡くなったのではなく、藤氏の権力が最も進展した時期に於いて、その軍事力を担当し、三条天皇の東宮大進として中央で活躍したことが大きな原因でしょう。
悪くいう人は「摂関家の犬」というような言い方をするのですが、であるならば我々は全て「会社の犬」、地方公務員ならば「京都市の犬」ということになりますので、こういう言い方はすべきではない。幾つかの伝承が生まれる背景には、やはり頼光本人の個性の輝きのようなものがあったに違いないと思われます。その証拠に、息子の頼国になると史料では確認できても、もはや何の伝説も持たず、寧ろ源家の中心は、頼光の弟の頼信の系統に移っていってしまいます。
その原因は、やはり「都の武士」であったからだと思われます。唐突ではありますが支那の歴史は、ある意味では北方の遊牧民が作ってきたといってもよい。モンゴル高原の一角に製造工場でもあったように、次から次へと新しい民族が現れ、歴史をこしらえていった。日本でも、武士として勇名を馳せるには辺境で活躍することが大切なのです。源頼光は、国司も歴任しましたが、遥任が多く、あまり都を離れていない。まあ、在庁が発展するに連れて現地に赴いたところで、別にしっかりと政治をするわけではなくなりましたが、それでも現地に赴けば、その地に子孫が広がる基を作ることができるのですが、美濃守として美濃に現実に赴任しても、その後美濃源氏として広がったのは弟の満政の子孫で、頼光の子孫は北摂と京都の間に残るのみなのであります。「都の武士」は、やはり「公家化」してしまうということなのでしょう。
今回は、その都の武士たることを露骨に示す「土蜘蛛退治」などを記そうと思っていたのですが、とろとろと述べるうちに時間となりやした。
この大江山の鬼退治の伝説は大層メジャーなものですが、パパの満仲と異なり頼光には、その他に例えばその根拠地であった北摂地方の土地に根ざした伝説がない。ただ小生の勉強不足に過ぎぬのかも知れませんが、頼光の伝説や説話には地方色というか、そのようなものが希薄な感じがするのです。
写真は、池田市の伊居太神社にある「頼光手植えの松」の名残です。もう何十年にも前に枯死し、今は幹の一部が保存されているのみならず、何の説明書きもありませんから下手をすると、そのままこれが何なのか解らなくなる怖れもあります。口碑というものは、しっかりと伝承されているものもありますが、圧倒的多数が日々消えていきます。ここに再た記すことで、その命が後数十年は伸びるかも知れませんね。但し、松の木が本当に頼光の時代のものかどうかは、定かではありません。清和源氏の根拠地たる北摂に於いても頼光の存在感というか、ああここで息をして生きていたのだなあということを偲ばせるものは、この木ぐらいなのです。
勿論、本拠地であった多田院には酒呑童子の首を洗ったという「首洗い池」、名刀「鬼切丸」等が残されていますが、遺物としての「鬼切丸」については、その伝承を疑う人もいます。また、「鬼切」の名称については、異なる伝承もあり、北野天満宮にも同名の刀があるようです。ところが、ここを一歩出ると頼光腰かけ石ぐらいあってもよさそうなのに、そういうものが見あたらないのです。
この奥に首洗いの井戸がある
比喩的に言いますと、兵庫県の川西市に入ると、至る所に満仲が居る。頼光の影は誠に朧であるというところです。やはり、これは満仲のように早くに引退・出家して多田新発意と呼ばれ、現に多田院の地で亡くなったのではなく、藤氏の権力が最も進展した時期に於いて、その軍事力を担当し、三条天皇の東宮大進として中央で活躍したことが大きな原因でしょう。
悪くいう人は「摂関家の犬」というような言い方をするのですが、であるならば我々は全て「会社の犬」、地方公務員ならば「京都市の犬」ということになりますので、こういう言い方はすべきではない。幾つかの伝承が生まれる背景には、やはり頼光本人の個性の輝きのようなものがあったに違いないと思われます。その証拠に、息子の頼国になると史料では確認できても、もはや何の伝説も持たず、寧ろ源家の中心は、頼光の弟の頼信の系統に移っていってしまいます。
その原因は、やはり「都の武士」であったからだと思われます。唐突ではありますが支那の歴史は、ある意味では北方の遊牧民が作ってきたといってもよい。モンゴル高原の一角に製造工場でもあったように、次から次へと新しい民族が現れ、歴史をこしらえていった。日本でも、武士として勇名を馳せるには辺境で活躍することが大切なのです。源頼光は、国司も歴任しましたが、遥任が多く、あまり都を離れていない。まあ、在庁が発展するに連れて現地に赴いたところで、別にしっかりと政治をするわけではなくなりましたが、それでも現地に赴けば、その地に子孫が広がる基を作ることができるのですが、美濃守として美濃に現実に赴任しても、その後美濃源氏として広がったのは弟の満政の子孫で、頼光の子孫は北摂と京都の間に残るのみなのであります。「都の武士」は、やはり「公家化」してしまうということなのでしょう。
今回は、その都の武士たることを露骨に示す「土蜘蛛退治」などを記そうと思っていたのですが、とろとろと述べるうちに時間となりやした。