源満仲に纏わる伝承の中で最も有名なものは「美丈丸と幸寿丸」の話でしょう。謡曲「仲光」(あるいは「満仲」)では、美丈丸が「美女丸」となっていますが、話の筋は同じです。満仲は息子たちのうち、美丈丸を僧にしようと思って中山寺に入れて修行をさせるのですが、僧になることに不満であった当人は一向に仏道修行に力が入りません。このことに癇癪をおこした満仲は、家人の藤原仲光に美丈丸の成敗を命じます。主命とはいえ主の子を殺すことはできず、仲光は懊悩します。そのような父の姿を見た仲光の息子「幸寿丸」が、自らがその身代わりとなることを申し出て、仲光は泣く泣く我が子の首を刎ねて満仲に差し出します。
勿論、話には後日談があり、仲光の息子が自分の身代わりとなったことを知った美丈丸は、心を改めて比叡山で修行し立派な僧侶となって名も源賢と改めます。そして、このことを満仲が知ったときに改めて仲光父子の忠義が顕れるということになります。この話にさらに観音霊験譚が加わり、伝承は膨らんでいきます。世阿弥作といわれる謡曲では恵心僧都まで登場することになります。
ただ、個人的な好みからいくと、自分の子の首かよその子の首か見間違うことはなかろうということで、今一この話には信頼がおけぬ。中国の忠節譚には主君のために我が子を料理して差し出す話などもあり、それに比べたらイヤらしさはましですが、それでも人情に逆らう話で、管仲あたりに言わせたら「仲光重く用いるべからず」ということになるのではないでしょうか(ちょっと唐突ですが)。
そうしたら竜馬に乗ってオロチと戦うというのは信頼できるのかというと、まあ、あったことにしておきたいという気持ちがはたらきます。主の子の命を救うことは、例えそれが他の犠牲を生むことになっても、それこそが最高の忠義と考えられた時代もあったようで、事情は異なりますが歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」でも菅原道真の家来の武部源蔵が、道真の子菅秀才の身代わりに松王丸の子小太郎の首を差し出すシーンがあります(勿論この段階では松王丸の子とはわからないのですが)。徳川家康が謡曲「仲光」を見るにつけ、織田信長の命令で殺させた我が子信康を思い出し、信康に切腹の命を伝えた家来に「あれを見よ。」とか恨み言を言った話が伝わっていますが、これも「まことにや?」と申すところ。
多田神社東門は武家屋敷の門のようである
さて、この仲光、その子孫は多田御家人筆頭の塩川氏の遠祖ということですから、都の軍事貴族と地方の国人層との紐帯の証として、このような忠節談が生まれてきたのかも知れません。そうしたら川西市畝野にある小童寺(源賢が幸寿丸の為に建立したとの伝あり)と、そこにある美丈丸・仲光・幸寿丸の墓はどう説明するのだということになりますが、同様の墓は満願寺にもあります。また、宝塚の普明寺にも仲光と幸寿丸の墓があります。さらに西宮にも墓があります。先ず伝承によると幸寿丸が首を刎ねられたのは15歳ということですから、もはや元服をしていてもおかしくない歳で、とても「小童」とは言えない。また、立場も死んだ時期もバラバラの3人が墓を並べていることも不自然です。まあ、仲光の忠義を後代の人は顕彰してきたのでしょう。しかしながら、鎌倉時代初期には多田行綱と基綱父子(源家嫡流)を見限って塩川氏を始めとする多田御家人は幕府直属となります。基綱なんかは承久の乱に連座して斬首されていますが、このときには一人の仲光も現れなかったのですね。それでも尚、この話が延々と伝えられたということは、この時期には既に満仲や頼光、義家というあたりは半神的な英雄になっていたのでしょうね。
話は変わりますが、この小童寺には渡辺綱の墓もあります。宝塚市の中の川西市の飛び地にある満願寺には坂田金時の墓、こういう立派な武者たちがこの界隈を闊歩していたと考えるとなかなか楽しいですね。
小童寺西門
小童寺本堂
小童寺にある十三仏板碑
そういえば、京都の芹生には武部源蔵寺子屋跡なるものがありますが、これは明治期に作られたものです。そこからいくと3人の墓なども所謂「お宮の松」の類であるかも知れません。小童寺は、満仲以後の歴代の摂津源氏のなかで、幼児期に我が子を亡くした人が建立したものと考えるのが自然でしょう。やはり源満仲は大鎧を着て戦う話が好ましい。
「清和源氏のふるさと川西市」とある
畝野寶來稲荷神社前の庚申塚
かといって、別段にこれらの伝承を伝える寺院や関係する人たちと揉めてやろうというのではありません。好みの点で小生には合わないということで、少々理屈をこねているだけです。多田院の神徳は身にしみて承知しています。かつて小生は、この社に京都南郊の神社の巫女を連れて行ったことがあります(神風連なもので)。その参拝する姿はやはり堂に入ったものでありました。その巫女さん、多田院には生まれて初めて来たのですが、その三日後に「どういうご縁か判らないが多田院で舞を奉納することになった。」と知らせが入りました。「ああ、源家の武将が彼の巫女さんを気にいって下さったのだなあ(詠嘆)。」ということで、「良い巫女さんを紹介したでしょう。小生のことも何卒よろしく。」とまで考えて、これでは女衒ではないかと大いに恥じた次第でありました。舞の当日、小生は行くことが出来ませんでしたが、源家の錚々たる武将の前では、巫女さんもさぞかし緊張したことでありましょう。(東多田に釣瓶火の伝承があります。そのうちに調べてご報告します。)
多田神社賽銭箱の紋は笹竜胆と三葉葵
写真は多田院の拝殿です。
勿論、話には後日談があり、仲光の息子が自分の身代わりとなったことを知った美丈丸は、心を改めて比叡山で修行し立派な僧侶となって名も源賢と改めます。そして、このことを満仲が知ったときに改めて仲光父子の忠義が顕れるということになります。この話にさらに観音霊験譚が加わり、伝承は膨らんでいきます。世阿弥作といわれる謡曲では恵心僧都まで登場することになります。
ただ、個人的な好みからいくと、自分の子の首かよその子の首か見間違うことはなかろうということで、今一この話には信頼がおけぬ。中国の忠節譚には主君のために我が子を料理して差し出す話などもあり、それに比べたらイヤらしさはましですが、それでも人情に逆らう話で、管仲あたりに言わせたら「仲光重く用いるべからず」ということになるのではないでしょうか(ちょっと唐突ですが)。
そうしたら竜馬に乗ってオロチと戦うというのは信頼できるのかというと、まあ、あったことにしておきたいという気持ちがはたらきます。主の子の命を救うことは、例えそれが他の犠牲を生むことになっても、それこそが最高の忠義と考えられた時代もあったようで、事情は異なりますが歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」でも菅原道真の家来の武部源蔵が、道真の子菅秀才の身代わりに松王丸の子小太郎の首を差し出すシーンがあります(勿論この段階では松王丸の子とはわからないのですが)。徳川家康が謡曲「仲光」を見るにつけ、織田信長の命令で殺させた我が子信康を思い出し、信康に切腹の命を伝えた家来に「あれを見よ。」とか恨み言を言った話が伝わっていますが、これも「まことにや?」と申すところ。
多田神社東門は武家屋敷の門のようである
さて、この仲光、その子孫は多田御家人筆頭の塩川氏の遠祖ということですから、都の軍事貴族と地方の国人層との紐帯の証として、このような忠節談が生まれてきたのかも知れません。そうしたら川西市畝野にある小童寺(源賢が幸寿丸の為に建立したとの伝あり)と、そこにある美丈丸・仲光・幸寿丸の墓はどう説明するのだということになりますが、同様の墓は満願寺にもあります。また、宝塚の普明寺にも仲光と幸寿丸の墓があります。さらに西宮にも墓があります。先ず伝承によると幸寿丸が首を刎ねられたのは15歳ということですから、もはや元服をしていてもおかしくない歳で、とても「小童」とは言えない。また、立場も死んだ時期もバラバラの3人が墓を並べていることも不自然です。まあ、仲光の忠義を後代の人は顕彰してきたのでしょう。しかしながら、鎌倉時代初期には多田行綱と基綱父子(源家嫡流)を見限って塩川氏を始めとする多田御家人は幕府直属となります。基綱なんかは承久の乱に連座して斬首されていますが、このときには一人の仲光も現れなかったのですね。それでも尚、この話が延々と伝えられたということは、この時期には既に満仲や頼光、義家というあたりは半神的な英雄になっていたのでしょうね。
話は変わりますが、この小童寺には渡辺綱の墓もあります。宝塚市の中の川西市の飛び地にある満願寺には坂田金時の墓、こういう立派な武者たちがこの界隈を闊歩していたと考えるとなかなか楽しいですね。
小童寺西門
小童寺本堂
小童寺にある十三仏板碑
そういえば、京都の芹生には武部源蔵寺子屋跡なるものがありますが、これは明治期に作られたものです。そこからいくと3人の墓なども所謂「お宮の松」の類であるかも知れません。小童寺は、満仲以後の歴代の摂津源氏のなかで、幼児期に我が子を亡くした人が建立したものと考えるのが自然でしょう。やはり源満仲は大鎧を着て戦う話が好ましい。
「清和源氏のふるさと川西市」とある
畝野寶來稲荷神社前の庚申塚
かといって、別段にこれらの伝承を伝える寺院や関係する人たちと揉めてやろうというのではありません。好みの点で小生には合わないということで、少々理屈をこねているだけです。多田院の神徳は身にしみて承知しています。かつて小生は、この社に京都南郊の神社の巫女を連れて行ったことがあります(神風連なもので)。その参拝する姿はやはり堂に入ったものでありました。その巫女さん、多田院には生まれて初めて来たのですが、その三日後に「どういうご縁か判らないが多田院で舞を奉納することになった。」と知らせが入りました。「ああ、源家の武将が彼の巫女さんを気にいって下さったのだなあ(詠嘆)。」ということで、「良い巫女さんを紹介したでしょう。小生のことも何卒よろしく。」とまで考えて、これでは女衒ではないかと大いに恥じた次第でありました。舞の当日、小生は行くことが出来ませんでしたが、源家の錚々たる武将の前では、巫女さんもさぞかし緊張したことでありましょう。(東多田に釣瓶火の伝承があります。そのうちに調べてご報告します。)
多田神社賽銭箱の紋は笹竜胆と三葉葵
写真は多田院の拝殿です。
登場人物の中で源頼光の部下の渡辺綱は、昔から大江山の酒呑童子や一条戻り橋の鬼退治で名前に馴染みがあります。あの頃(戦前ですが)そんな話を信じて、戻り橋はなかなかスリルのある場所でした。
それにしても、徘徊堂さんは謡曲にも造詣が深く感服です。素面でも真剣に集中されることがあると知り、益々感嘆頻りです。それにしても(また)、男性なのになぜ美女丸などと命名されたのでしょうか。実態は女性だったとか・・・。現在でも、はるな愛の本名は大西賢治ですし(この場合は逆ですが)。
話が外れて申し訳ありません。有名武将や偉人の墓が何箇所にもあるなど、僅か1000年前でさえ渾沌としているのですから、それだからこそ却って面白いのかも知れませんが。
渡辺綱(箕田源次)は頼光家人となったことで、北摂には多くのものを残してくれましたが、今でもこの地域には渡辺さんがかたまって住んでおられる所があります。摂津渡辺党は健在なりというところです。こういう豪傑に素朴に憧れることはいいことだとアナクロニズムの徒は思っています。
芹生の神社もこじつけでしょう。我が亡兄の同級生の内田さんだったかしらがこの考証を書かれていますが、細部はどうでもよし。ちょっと足を踏み入れたら、ここにはこんな話が、なんて説明できるようになればいいなあと思っています。
それと今まで学校では時代の勝者、為政者の立場での歴史しか教えて貰えませんでしたと言っても過言でないでしょう。あちこち徘徊されていろいろな面から歴史を見させて頂くのを楽しみにしています。
近松門左衛門は詳しいことは分かりませんが、お書きになっているように細かい意味はともかくとして音読すれば本当に「ええなあ」と思います。シェークスピアは全く解りませんが、大学の時に原文を誰かに見せられてyouがtheeか何かになっていて、自分は現代英語でも全くアホなのに、英語の古文なんか絶対に読めないなあと思ったことがありました。
今回の源満仲のお話も興味津津で読ませて戴きました。「火の無いところには煙は立たぬ」の諺のごとく、伝承には幾つかの事実があるからこそ、興味がわき研究発掘していく楽しみがあるのではないでしょうか。中学の孫が、お祖母ちゃんの時代より自分らは60年以上も長い歴史を覚えるの大変ですよ、と言う。
こちらのブログの感化?で最近少しずつ歴史とまでは行きませんが、人物像などをひもとく楽しみが出来ました。ありがとううございました。
ささ舟様とお孫さんの勉強する歴史、そんなに変わりませんよ。戦後の歴史は殆ど教えませんから。それに、今の「ゆとり教育教科書」はペラペラです。ただ、今中学生のお孫さんが高校生になられたときには、ゆとり教育教科書ではなくなるので、少し難しくなるだろうと思います。世界史は必修ですかか例のローマ皇帝の名前や、五胡十六国などには苦労されると思います。歴史は物語として楽しむのが一番健全だと思いますから、ローマ皇帝のえげつなさなどをうわさ話風に先生が話してくれたらいいのですが。