花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

都加母止塚へ

2012年06月18日 | 徘徊情報・摂津国
 ついこの間に、いきなり見つけた都加母止塚、厳密には「塚の名を記した石標」で塚そのものは現存しません。「これは何ぢゃー?」ということで、随分と師匠のお手を煩わせました。この塚と「足跡塚」なるものが18世紀末に刊行された「摂津名所図会」に載っているということで、その解題も求めて東奔西走されました。が、残念ながら名所図会の記述は「東天川村(高槻市八幡町付近)に都加母止塚と足跡塚があるよー。」と言うのみで、何らの説明もありません。その過程で山口誓子が我々の大先達であったことなどがわかったりもしました。足跡塚に関しては伝説の巨人「だいだらぼっち」に絡むものかも知れぬという示唆を受けていますが、未だ詳しくは伺っていません。
 まあ、ともかくは「現場100回」ということで、西京極に於ける飲み会までの少しの時間、塚付近をウロウロとしました。

 本日の徘徊は春日町の名の由来となった春日神社(トップの写真)から、春日町の隣が八幡町です。春日神社の境内に何か残るものはないかと精査しましたが、特に何もなさそうです。

 その後は、早くも「都加母止塚」の石標に。これ自体は「塚」ではなく塚の名を示すものなのですが、本日はきちんと花が手向けられています。

     

     





 さあ、ここで張り込みをして、何でも知ってそうなご老人が来られるのを待とうとしばらくの間頑張りましたが、逆に車の洗車をしていた若い兄ちゃんが洗車を打ち切って家の中に入ってしまい、その後は人影がありません。
 やむなしと辺りをウロウロ、ウロウロとして「足跡塚」を探しましたが、成果無しです。そうこうしているうちに電車に乗らねばならない時間が来ましたので、本日も高槻城祉の方に歩き始めます。


枚方街道道標


城跡にある文化資料館



 変な言い方ですがそのイメージ形成に逆に後代の天草四郎の影響を受けたと考えられる高山右近像はこの付近に二体あります。教会の方は特にヒドイですね。もう聖人?城跡の方はスターウォーズ等に出てきそう。


城跡


教会

 この城跡には終戦まで工兵第4聯隊が駐屯していました。何かいろいろとあるでしょう。写真はありませんが、池では亀とアヒルが仲良く日向ぼっこをしていました。





 そのまま電車で西京極に。大丸公園に沿った道の湾曲は何なのでしょうね。阪急電車が西京極止まりであつたころの名残かななどと考えますが、どうでしょう。



 このあたりも随分と都市化が進みましたが、少し奥に入るとまだまだ昔の建物も残っています。



 以前はこの近くにめずらしい「もんじゃ焼き」を食わせる店があったのですが、何時の間にやら純粋なお好み焼き屋に変わっていました。さてさて、都加母止塚や大丸公園の湾曲をサカナにちょいと一杯であります。


8 コメント

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梅雨の間の徘徊もまたオツなもの。 (道草)
2012-06-18 17:07:15
「都加母止塚」は〝塚の元たる塚〟つまり、何かの塚の親分がここにあったとか・・・。謎は深まるばかりですが、花を供える人はもしかしてその謂れを知っているのでは。その人に出会えれば、少しは明らかになった部分もあったのかも知れませんネ。

天草四郎は美少年として有名ですが(当時の基準ですから、今なら問題外かも)高山右近も中々ではないですか。双方の石像はまるで別人同士みたいですけど。

阪急が四条大宮まで通じたのはいつでしたか。たしか、当時は「新京阪」と呼んでいました。京都人の通称でしょうけど。もんじゃ焼は、関東の名物ではないのですか?
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もんじゃ焼き (gunkanatago)
2012-06-18 17:54:08
 道草様、コメントをありがとうございます。もんじゃ焼きは関東の駄菓子屋から発生したみたいですね。小さなコテで、ギューと鉄板に押しつけて食べる、いかにもという感じです。桂には、もう一軒もんじゃ焼きの店があります。「植物図鑑」に連れて行ってもらいました。
 教会の右近像は、明らかに天草四郎(ホントのところは分かりませんが)伝説の影響を受けたものだと思います。城跡のは個性的ですが、宇宙人みたいですね。天草四郎=美少年説は義経や浅野内匠頭を二枚目が演じるのと同じで、ブサイクだと同情されないところから来ているのではと思います。
 そう、阪急を「京阪」と呼ぶお年寄り、高槻市界隈でも随分と少なくなってしまいました(爆)。
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淀川河畔の昔 (mfujino)
2012-06-19 20:31:06
gunkanatagoさま、「都加母止塚」、つかもと塚、塚本塚、でなくて何で都加母止塚なんやろうかという素人、無学の輩の疑問です。その標記のそこに横たわるのは何なんでしょう?
もう一つ、高槻やら茨木など、天王山から南の淀川に沿う遅滞の歴史はどうだったんかしらという興味が沸いてきました。わが想像ですが、平安京の時代までは都市といかないでも大きなまちは無かったのでしょうね。平城京への木材供給の為淀川上流の木が大量に伐採されて淀川下流が荒れたという知識はあるのですが、古代にはもっと人が住んで大きな古墳やら遺跡がいっぱいではなかったのか、私がそれを知らないだけなのか、いろいろ考えてしまいました。いろいろ教えて下さい。
美山の島城跡へ行ってきましたよ。登り口を見過ごしてまたまた、え~いこの尾根を登ったら行けると道無き斜面をよじ登ってしまいました(*_*)
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山に行きたい! (gunkanatago)
2012-06-20 14:12:27
 mufujino様、コメントをありがとうございます。改めて指摘されて「???」というところですが、何故万葉仮名なのでしょうね。こういう表記を好むのは江戸時代の国学者ですね。「こういうのは、こう書くものだ。どうだぁ、ありがたいだろ?」という感じで揮毫したのでは?と思います。平田派の国学などは村の社の神職やちょっと大きな店の主などはみんな学んでいたようです。
 高槻や茨木の平安以前、大きな古墳と山陽道の駅と郡衙と、そして寺社がポツポツとあって、その周辺に人々の住まいがあってというところでしょうね。
 島城跡、登ろう登ろうと思いながら果たせていません。山登りと仕事が一致しているmfujino様がとーっても羨ましいです。登り口を見過ごしたて…(爆)、あのうどん屋の人に連れて行ってもらったところですよね。もしかして小生よりも…。
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西京極 (ささ舟)
2012-06-20 15:21:16
お久ぶりです♪
私、「都加母止塚」読めませんでした。恥かしい!
どうして西京極でお集まりでしたの?
西京極界隈は学生時代2年間ふらふらしました。しかし大丸公園、知らなかったです?
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ということは… (gunkanatago)
2012-06-20 16:32:23
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。こちらこそ御沙汰をしております。一度、そちら方面にドライブしますね。
 西京極での集まりは、単に知人の住居があり、その知人が当日は仕事だったので、暇人が西京極に行けばよいということでした。
 大丸公園、ささ舟様の学生時代(ついこの間-爆-)には無かった可能性があります。多分阪急電車の車庫の一部だと思います。母校、看護師コースを創設して栄えていますよ。
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山城廻り (mfujino)
2012-06-21 01:56:40
gunkanatagoさん、島城へは仕事では無いですよ~。滋賀の山城をあちこち訪ねておられる人と登りました。頭巾山の時と同じく、標識通り谷に入った後、本来右に行くべきだったのですが、直進してしまいました(*_*)
何時もの通り、この方向なら尾根を上がれば間違いないと突き進みましたら、城跡の少し東へたどり着きました。下りは快適な道を辿りました(^_^)頭巾山を思い出しました(^_・)
その後篠山へ移動して八上城の階段登りでございました。階段登り30分強というのは疲れるもんです。篠山盆地を見下ろして、いろいろ想像するのも楽しいものでございます(^_^)
仕事といえば、丹波の山城巡りの講座を高橋さんを巻き込んでやってみようかなという構想を描いています。
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島城への道、了解です。 (gunkanatago)
2012-06-21 15:59:24
 mfujino様、「本来右に行くべきだったのですが、直進してしまいました」のところ、ご教示ありがとうございます。小生もここでご教示いただかなかったら絶対に「直進する」自信があります(爆)。
 それからまた何とエネルギッシュな、八上城とは恐れ入ります。篠山には、一会庵といううまい蕎麦屋もありますね。確か城下の北の方でした。確か酒の名が「波之丹州」か何かで1合1800円はメチャメチャ高いですが、師匠が未だに「あれはウマイ!」というところを見ると、やはり素晴らしいのでは。小生は運転手で飲めませんでした。
 昔、それを食べに行ったときは、その後で三田の母子(もうし)蕎麦を食べました。
 高橋先生を巻き込む企画、是非是非、なかなか講座には参加できませんが、「おや、偶然!」という例の形でお話をうかがいたいと思います(爆)。
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