花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

守口市から高麗橋へ(京街道)

2013年12月04日 | 徘徊情報・浪花
 師匠の案内による京街道シリーズ、本日は最終回であります。出発は京阪電車の守口市駅です。駅を出て、京街道に出ると多くの人が向こうからやって来ます。師匠によると、今日は京阪電鉄の催しで高麗橋から守口に歩くという行事をやっているようです。朝のうちに高麗橋を出た人たちが早くも守口に着いているということです。我々は今から出発です。まず最初は難宗寺、守口の東御坊です。



 ここには見事な銀杏の木があり、ちょうど葉が色づいていました。



 寺を出たところに、道標がかためて置かれているところがあります。まあ、亡くなるよりはマシというところですね。



 続いて西御坊の盛泉寺、明治天皇が行幸された際に内侍所が置かれた寺です。往時は神器を奉安しながら旅をされたのですね。淀では確かめるのを忘れましたが、枚方宿・守口宿ともども東西本願寺が根付いていて宿場町ながら寺内町的な要素も見受けられます。




守口御坊と彫られた燈籠

 こちらにも銀杏の木がありました。難宗寺の銀杏はオスで、こちらはメスだそうです。



 守口宿本陣跡は同時に問屋跡?今は駐輪場となっていて何も残っていません。



 残念なのは大塩平八郎が講義をしたという白井家の書院、居宅共々取りこわされて今はマクドナルドになってしまいました。今は邸跡を示す記念碑が説明板とあるのみです。



 考えてみれば、子孫の白井家にとっては大塩平八郎は忌まわしいばかりで、少しもよい思い出ではないかも知れません。乱に連座した隠居(多分隠居していたと思われる)の孝右衛門は牢死後に鳶田墓地で磔、甥の儀次郎は死罪(但し執行前に牢死)、息子の彦右衛門は遠島です。それでも白井家は残ったというのがたいしたもので、分家が入って本家を継いだりしたのでしょうか。

 京街道は基本は淀川の堤防です。ここいらではその跡(文禄堤)が最もしっかりと残っています。「うだつ」のある家も多い。



 野崎への分岐を示す道標。かつてこの道を野崎に向かいましたが、200メートルも行くと全く分からなくなっています。





 守口市駅の西出口を出たところで、京街道がはっきりと堤の上で一段高くなっていることがよく解る橋があります。現在の一号線から守口市駅の方に道を造ったときに堤防を一部崩し、その跡に橋を架けたものと思われます。





 野江の処刑場にあった題目碑を見て、坂を下ると向こうの方に土居の商店街が見えています。焼酎の量り売りの店は健在です。



 商店街の中にある守居神社に参拝します。本来は土居神社であったものが守口の産土神も合祀したために両者の名から守居神社と名付けられたお宮さんです。



 神社では大木の切り株を利用したお社にえべっさんが鎮座されていました。



 境内にある塞神社は、本来は街道の神を祀るのかなと思っていましたが、御祭神からして、この地本来の産土神を祀るようです。



 少し京街道を離れて高瀬神社。式内社です。この時点では知らなかったのですが、色々と調べると実に興味深い神社です。



 平安時代の前期に於いて最大の怨霊であった早良親王(崇道天皇)は、藤原の種嗣暗殺事件に連座し、淡路島に流される途中、抗議の絶食をし、この高瀬神社付近で亡くなられたということです。そういうことは全く掲示がありませんでした。

 いま神社でめぼしいものと言えば、大阪砲兵工廠で勤め上げた人が退職記念に建てた碑ぐらいです。師匠も言っておられましたが、小生もてっきり忠魂碑の類であると思い込んでいました。表も裏もしっかりと読まないとあきませんね。



 神社の外には高瀬川の川跡のモニュメント。この付近で、大和川と淀川が合流していたとのこと、となると高瀬川は淀川そのものであったということでしょうか。なかなか興味深いことですが、ここは京街道に復帰します。



 復帰の途中、滝井駅の東南100メートルほどの所にある本瀧寺には「滝井」の語源となった井戸があるそうです。その近くでは段蔵も見ることが出来ました。




段蔵

 千林の商店街を抜けて、京街道に復帰します。商店街を抜けたところにあるアイスモナカの店は残念ながら閉まっていました。今年の秋に閉鎖となった城東の貨物線横の人道橋、前と後ろに子供を乗せてお母ちゃんの自転車が疾駆した幾分かはこの商店街を目指してのことでありました。





 寝屋川から分岐した城北運河を越えた辺りから京街道は七曲がりと呼ばれるところに入ります。


城北運河

 これは大阪を防衛する為にね道をわざと屈曲させ、大軍が通りにくいようにする工夫だそうです。また、当時は見えたのでしょうね。大坂城から人の動きも見たそうです。今は、たくさんのビルが建ち、ここから大坂城を見ることもできません。





 関目神社は関目(見張り所)の由来を示す碑があります。本日は七五三の行事で露天が出ていて、その陰になっていましたが、露店のおばちゃんが機嫌良くテントをめくってくれました。
 ここでは七五三の車の整理をしていた方が、境内の片隅を借りて休んでいる我々にわざわざ社務所から由緒書きを持ってきて「配り」と10部ばかり手渡して下さいました。ありがとうございました。


関目神社


関目発祥の碑


露店

 榎並小の門前に榎並城址と榎並猿楽発祥の碑、1649年に三好長慶の軍との江口の戦いで敗れた三好政長が息子の政勝の守るこの城に向かう途中で討ち死にし、政勝もまたこの城を放棄してはるか丹波の宇津に逃れたという話を始め、いろいろと話題のある城です。書き始めたら際限のないことになるので、今日は深入りをしません。が、三好長慶が細川晴元を最終的に見限り、晴元のライバルであった高国の養子氏綱を擁するようになったのは政長が原因でした。ということで、もうややこしい?



 すぐ近くに野江水神社。このお社を建立したのも三好政長だそうです。水の神様そのものを祀っています。この神社、格好の通り抜け場所にもなっているようで、境内をウロウロしている間にも多くの人が通り抜けていきます。




新しい狛犬


日露戦争戦勝記念


かわった鳥居


玉垣修築記念

 榎並というのは余程に広い地域を指したようで、少し移動してきたとは言え、だいぶと京橋に近づいたところに榎並地蔵がありました。夏の陣後、豊臣氏の残党を根絶やしにした野江の処刑場はもはや詳しいことを知るすべは無さそうです。まあ、敢えて知る必要もないか。と言いながらも処刑場のあっただいたいの位置は分かりました。今は完全に別のものになっているので、ここでは載せません。



 いよいよ京橋の商店街に入ります。ここからしばらくは「京橋は京橋に非ず」が合い言葉。丸一屋を横目に見て進みます。


商店街内京街道碑


いつもの道標(京街道と古堤街道)

 京阪電車の京橋駅から南西にしばらく行くと野田橋の碑。橋としての京橋はまだ向こうです。こうなってくると八百八橋計画の番号を打ちたくなりますが、また後日訪れることにしましょう。



 京橋のたもとに川魚市場跡の碑。駅からはだいぶ離れています。ちょうど橋の下をアクアライナーが通っていきました。







 城内に少しはいると大阪砲兵工廠の化学研究所の建物がそのまま残っています。長いこと陸上自衛隊の大阪地方連絡部として使用されていましたが、いまは閉まっています。このまま行くと建物の劣化はどんどん進むでしょうから、もったいない話です。





 追手門学院(陸軍軍人・軍属の子が通う偕行社小学校が発展したもの)の周囲に豊臣期の石垣が出土、復元されているところが2ヶ所あります。ぐるーと校地を回ります。途中には陸軍用地を示す碑も残っています。ここには第4師団も置かれていました。




乾櫓




反対側

 八軒家までやって来ました。昆布屋さんの親切は継続中です。店が休みの日でも解説書は表に出してくれています。開いていたら昆布はここで買う。



 中ノ島の桜紅葉が大変きれいです。師匠も言っておられましたが、これはなかなか気付きませんでした。春にも秋にも人を楽しませてくれます。



 京街道を少し離れ、熊野古道に入ります。すこし行くと釣鐘屋敷。日の入りには自動的に鳴るようになっているのですが、未だ少し早いようです。
 江戸時代、3代将軍家光が来坂したときに、今日の固定資産税にあたる地子銀を永代免除としてもらったのを記念して、釣鐘を造って朝な夕なに鳴らすことによってその恩を忘れぬようにしたものとのことです。増税しか考えない今の政治家は家光に遠く及びませんね。



 釣鐘屋敷からほど近いところに座摩神社の御旅所。今は御旅ですが、本来はこの辺りが社地であったとのこと。生玉さんともども秀吉の大坂城築城時に移転させられました。今現在は非常に狭い境内となっていますが、摂津一宮はこの座摩さんと住吉さんの二社あります。この近くにあり、以前にムチャクチャ感動した「大阪肛門病院」の看板は撤去され、「大阪肛門科診療所」に変わっています。ちょっと感動が薄らぎますね。



 郵便局の前の前島密像を見て、銀座跡の前を通るといよいよ終点の高麗橋になります。高麗橋では、記念写真は撮ったのですが、橋の写真は取り忘れました。道路元標も然り。画竜点睛を欠くちゅうやつだんな。まあ何はともあれ大団円です。





 北浜から地下鉄で恵美須町に行きます。本日は新世界の串カツでうちあげであります。




関西更科蕎麦発祥地

 有名店ではありませんが、味は○でした。多人数でしたが、最初の一杯はタダ。串カツの後はしばらく新世界、天王寺を散歩しました。




坂田三吉やで

 噂には聞いていましたが、阿倍野ハルカス、やっぱり高いですね。土地柄だし、できたらどこかこのビルの一角で遊郭を開いてもらいたいですね。エレベーターで何階かに着いた途端、ずらーと顔見世が列んでいて、引き手婆さんの「兄ちゃん!」の連呼…、おっと!これは妄想。



 








6 コメント

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終わったんですね (鎌倉街道)
2013-12-04 18:59:35
皆さんお元気に終着橋に到着しました。 天候に恵まれない日もありましたが雨もまた良し、太陽が沢山で日に焼けたりしましたが、淀川の流れや三川合流の滅多に見ることのできないところを歩け、良い思い出作りでした。 お疲れ様でした。 お世話になりました。

大阪の街が遠目にはとてもきれいで、紅葉も楽しめるところだということを認識しました。 残念ながらまだ今回の歩きに関しては、友人たちに話す機会に恵まれてません。 自宅に缶詰め状態で、出掛ける先は医者だけですので。
天王寺の高層ビル、昼間に見てみたいと考えてます。 どちらが感動するかな? 中に入ることができるのですよね?

串カツは、守口市のが断然おいしかったです。 また食べたいと思います。
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お疲れ様でした。 (gunkanatago)
2013-12-04 20:31:31
 鎌倉街道様、コメントをありがとうございます。また、京街道、通しての御参加、ありがとうございました。体の方はぼちぼちと回復されていますでしょうか?
 守口市の串カツは全体的に小振りでしたね。新世界のここの店のはちょっと油くさかったかも知れませんが、それでも昔に比べると具の方がコロモよりも小さいです(笑)。以前は殆どコロモを食べている感じの店もありました。
 阿倍野ハルカス、開業しているはずです。今、しばらくは人だらけかも知れません。
 次回は明智籔ですが、新年から琵琶湖疎水分線シリーズで京都になります。また、よろしくお願いします。
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ジャンジャン横丁が終点。ハッピーエンドですね。 (浮舟)
2013-12-04 22:45:16
 最後の旅程、晴れてなによりでしたね。川東ちょうちん店、感動しました。いまだにこんな専門店があるんですね。誰が買いにくるのでしょうか。神社、寺院、歌舞伎など伝統芸能関係でしょうか。風前の灯のような家内工業を想像しますが、それだけに腕のいい職人がいそうですね。
 最後は夜の通天閣界隈、いいですねー。「更科」は、ざるそばをよく食べました。お店の雰囲気がいいんです。しゃれた坪庭があって、「何しましょ」「おまちどうさま」「まいどおおきに」とやわらかい言葉の応対、間のとりかたが抜群で、なにわの老舗食堂を感じました。
「王将」「三桂」の将棋会所、いつまでも残してほしいです。立ち飲みの「平野屋」「のんきや」さらに「佐兵衛寿司」「ホルモン道場」「縄のれん田中屋」ジグザグにはいってしまうおそろしい横丁です。グルメ雑誌に出て行列のできている店には決して行きませんが・・

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更科など (gunkanatago)
2013-12-05 14:47:57
 浮舟様、コメントをありがとうございます。提灯屋、一時の冬の時代を乗り越え、近ごろは地域の祭の復興ムードもあって、結構栄えているみたいです。このように古い店構え、西国街道芥川宿にもあったのですが、そちらのほうは近代的な建物になってしまいました。
 新世界は小生も長いこと行きませんでしたので、昔どこで牛すじ定食(結局土手焼きがおかず)などを食べていたのか、さっぱりわからなくなりました。
 浮舟様は、さすがですね。あっという間に店の名がたくさん出てくる。小生は未だ酒飲みとしては、立ち飲みの域に至っていません。
 更科、席が大きいし、詰め詰めが多い大阪にあっては、あのムダに広い空間がいいですね。けれども客のいかにも大阪らしい会話はしっかりと聞き取れます。
 学生のころ、リタイヤしたら、毎日千円持って新世界に来ようと思っていました(爆)。
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感想の一部と郷愁など (mfujino)
2013-12-05 15:20:48
gunkanatagoさん、当日もいろいろとお世話になり、ありがとうございました。京街道をなんとか完歩、じゃないか、歩けました。昔の私ならただ一目散に何キロあるいたとか言って自慢していたことでしょう。その街道沿いの歴史を味わいながらの徘徊は楽しゅうございました。
今回街道を感じたのは文禄堤と七曲がりですね。堤を行く街道を今も残る小さな坂や高低差を感じられたのはよかった。七曲がりも歩けばこその体験でした。
明治天皇行幸の石碑は、幻の大阪遷都計画の名残なんですね。
今回も段蔵を目にしましたね。
太閤さん時代の石垣はいつ見てもいいなあ。
今昔地図をにやにや眺めながら復習しました。
新世界の串カツ屋はこれで人生3回目かな?更級は懐かしい、健在な姿を嬉しく見ながら歩きました。焼き肉なら鶴橋、串カツなら新世界、というところでしょうか。ジャンジャン横町の「ずぼらや」の看板写真を見ると大阪と京都の違いを感じてしまいます。大阪の冬はフグで、身近な味でしたが、京都ではその雰囲気はありませんね。黒門市場街はどうなってるんやろ...ああ、ヒレ酒が呑みたい~~。

阿倍野ハルカスねえ、私は30年は阿倍野に住みましたが今やこの界隈の変化が劇的です。この界隈は上町台地、大津波が来ても安心、地盤も固い、また空襲に遭ってないので古さも残っていましたが、さてさてどの様に変化しているかしら。ちょっと郷愁さえ感じてしまいます。
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大きく変わってしまいました。 (gunkanatago)
2013-12-05 16:57:31
 mfujino様、コメントをありがとうございます。また、京街道シリーズ、全部一緒に歩いていただき感謝です。文禄堤、守口市のは見事に残っていますね。七曲がりのところは、以前に一人で歩いたときにここだと思っていたところが全部外れていて、前のは街道を歩けていないということがよく分かりました。
 黒門市場は日本橋が電器の町では無くなってしまったこともあって、ここ数年は行っていませんが、今でもそれなりに栄えているように思います。一度偵察してきます。
 阿倍野は、本当に大きく変わってしまいましたね。チンチン電車の周辺だけが以前の雰囲気を残しているように思います。縄張りとしておられたmfojino様と異なり、小生の阿倍野体験は貧弱なものです。その貧弱な思い出の一つにアケゴコロを出す居酒屋がありました。店員は全員白衣を着ていました。今は例の明治屋が入った商業ビルになっている辺りだったと思います。それから円い鉄板がおかれたお好み焼き屋、これも消えてしまったようです。
 小生ですら、少し残念に思うのですから、mfujino様にとっては、大きな変化はさびしいことでもありますね。
 大阪に遷都していたら、いまごろ大江戸はどうなっていたでしょうね。
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