
・震災孤児たちは何人にのぼるのだろう。
人間の子供たちは身寄りに引き取られ、
施設に引き取られてゆく。
が、犬や猫たちは飼い主たちとめぐり合いを果たせぬまま、
風に吹き立てられる木の葉にも似て町をさまよう。
神戸の町ではそのころ、
美しい猫や犬が毛並みの色艶を失い、汚れて、
ビニール袋のゴミをあさっているさまが語られていた。
動物嫌いの人は保健所へ連れていけばいいと主張するが、
動物好きな人々は決まって、涙をためて話すのだった。
「沈思する猫の眉間にある悲傷」 (佐藤 雪)
その頃「総理府も動いた」(『阪神大震災』読売新聞社刊)
「世界の目がある。虐待の非難を避ける措置を」
そう指示されても県の動物衛生係りとしては、
動きようがない。
県としては犬を捕獲すれば、
狂犬病予防法で二日以内に処分しなければいけない、
建前となっている。
しかし震災で傷つき、
飼い主を失って町をさまよう犬を捕まえて、
殺すことはできない。
「後方支援に徹した」という。
そのせいでか、ペット避難所が一部の人々に、
「人の救出もままならないのに」
と非難されつつも、活動できたのであろう。
大阪の団体「あいのカエル」は、
西宮戎神社境内に、三百五十匹の犬、猫、兎など。
「共同ネットワーク」は、
東灘の本山交通公園に救護テントを。
六百五十匹を里親へ。
能勢の動物シェルター「ARK」
(アニマル・リフュージュ・カンサイ)では、
犬百一匹、猫七十一匹を保護した。
ペット救援本部に届いた救援金は、
一億八千万円に達したそうである。
イギリスからも二千万円届いた。
平素、日本人の動物愛護姿勢に批判的なイギリスだが、
今回ばかりはちがった。
イギリスのマスコミは、
「震災の中、日本は懸命に動物を救った」
と報じたそうである。
こんどの大震災は痛恨にみちた教訓をのこした。
とにかく天災のスケールが大きかった。
<度が過ぎていた>
かねての想定が片端からはずれた。
高速道路は落ち橋は壊れ、
消火栓から水は出ず、交通はマヒしてしまった。
そこまでは震度五を想定していたから、
見通しをあやまったということもできる。
しかし住宅様式が変って、
人々はマンションというコンクリート塊に、
住むようになった。
これが壊滅したとき、
つるはしやとびぐちでは片づけられないということ、
わかっていたかしら?
人命救助には、
大規模土木工事に使うような、
大型機材の調達が必要とされる時代になった。
こういういたましい発見や、
教訓を上手に活かさなければ。
私が講演で訴えたように、
<大地震を経験するたびに、人々は温かくなっていった。
震災を知る、たびに人間はやさしくなっていった>
というふうであってほしい。
大震災のあと、みんな謙虚だった。
被災しなかった人はどうかして役に立ちたいと思い、
お金や寒中のこととて着る物を小包にしてせっせと送った。
救援物資は全国から(海外からも)続々送られた。
それらの小包をボランティアたちが仕分けするのに、
どんなに労力と時間がかかったことだろう。
惨状が新聞やテレビで報道されるにつれ、
人々の善意もふくれあがっていった。
第二国道で<救援物資>という幕を張って走っていたトラックに、
少女たちはかけよってきて、
<私たちは〇〇中学の二年生です。
神戸へはいま入れないと聞くので、
すみませんが、どこでもいいから、
避難所の人にあげて下さい>
と紙袋を渡した。
運転手さんは承知して、
積荷とッショに救援ボランティアに届けた。
紙袋の中には缶入りジュース十本と、
ノート五冊が入っていたそうである。
<たしかに届けたぜ。あの少女(こ)らにいいたい>
と運転手さんはいっている。



(次回へ)