
・夫は、ああいうものには乗らん、とゴテはじめた。
彼はそうじてチマチマ、コマゴマしたものがきらいである。
奄美の田舎生まれで、広い海を泳ぎまわり、
椰子とガジュマルの海岸で大の字になって昼寝する、
というような育ち方をした人間が、
都会の下町の家に住み、
チマチマ、コマゴマした仕事をしている。
この男は、
漁師になって鰹の一本釣りであるとか、
鯨を銛で仕とめるとか、
そういう職業を選べばよかったのだ。
近代の悲劇は、人々が下らぬ知識に毒されて、
人間の原初的な仕事、土を耕したり、魚を捕ったり、
という最も古い職業を大切にしなくなったことである。
それはともかく、夫は、
ああいう温泉風呂は邪道であるといい、
行きたければ一人で行ってこい、といった。
ここには大ジャングル温泉というのもある。
そこへ入るというので、
私も、そっちの女用に入るべく行ってみた。
ついでに宇宙風呂のことを聞いたら、
もうおしまいで、夜は動かない、
真っ暗で何も見えない、明日の朝また運転再開する、
ということだった。
広い浴場に、いくつも仕切りがあって、
一つずつ意匠のちがうものが、ジャングル風呂である。
ツタカズラやバナナの木が植わっていて、
その向こうにガラス戸越しの海が見えた。
私はミルク風呂へ入った。
植木鉢の熱帯樹のかげに、
プラスチックのワニや、ゴリラがうずくまっており、
一人で牛乳風呂に入っていると、
クレオパトラになったような気分。
風呂はどういう仕掛けなのか、
みかん風呂にはみかんの匂いがし、
牛乳風呂は牛乳の匂いがしていた。
「ゴテゴテと要らざる飾りがいっぱいあった。
あれは邪道や。風呂は湯だけあればよい」
と夫はいったが、わりに機嫌はいい。
女中さんが膳を運んできて、
どこから来たか、などと聞く。
食事は海ばたらしく、
木の大きな船に、豪勢に刺身が並んでいた。
荒磯料理といわれるものである。
たい、はまち、うに、あわび、
といった海の幸がどっさり盛られ、
青々とした海藻で飾られ、絵にかいたようである。
机の上いっぱい並んで、
夫は満悦して食べ、飲み始めたが、
しまいに多すぎると文句をいった。
ごちそうの品かずは少ないと文句をいい、
多いと文句をいう。うるさい。
「何をいうか、勿体ないから、いうのです。
たった二人に、こんなたくさん出すというのは、
天を恐れざるものだ。
食糧危機なんか、どこ吹く風。勿体ない。
もう、それは食べへんのか」
「もう、いい」
「何という魚の食べ方をする。
そういうことをすると神サンのバチが当る。
貸してみい、魚はこういう風に食う」
夫がちょいちょいと箸を動かすと、
焼き魚の身はふしぎなほど離れてほぐれ、
やがて、絵にかいたような魚の骨だけが皿に残る。
そうして、鮎であると、夫はきれいにまん中の胴だけ、
骨もワタも食べ、皿にはあたまとシッポだけ離して置いて、
「幻の魚」と満足そうにいうのがクセである。
いかにきれいに胴だけ食べたか自慢するごとく、
在りし日の胴の長さの分だけ離し、
あたまとシッポを置き、見とれる。
どういうつもりか、あんころ餅まで供される。
私は好物であるが、いかに何でももう入らない。夫は、
「勿体ないから、冷蔵庫へしまえ」という。
この頃は小さな冷蔵庫が備えつけになっているのが多い。
「どうせ食べないもん」といったら、
「明日になれば食う気がおきるかもしれん。
勿体ない、しまっとけ。一々口答えするな!」
「ハイ」私はしまった。
こういう雰囲気の日常生活の中で、
私が女流作家の自我を発揮できるかどうか、
考えたらわかるであろう。
あんころ餅は冷蔵庫にしまったが、
あとまだたくさんごちそうは残った。
ちり鍋などは冷蔵庫へしまっても仕方ない。
夫はしきりに勿体ない、勿体ない、という。
夫は金銭については勿体ながらないが、
こと食べ物に関しては、飢餓世代の一人なので、
たいそう勿体ながるわけである。
「勿体ない」精神のせいか翌朝起きてみると、
「乗ってみよう」と言い出した。
「せっかく来たのに、
宇宙風呂に乗らずに帰るのは勿体ない」
宇宙船風呂は早朝から利用する人があるとみえて、
紺碧の空と海の間にただよって、
のんきそうに揺れていた。
今朝も快晴で、
初夏の空はかんかんと叩けば音がしそうなほど晴れている。
雲一つない。
女湯のジャングル大温泉の階段を下りていくと、
箱は目の前にあった。
「乗船券二百円」とある。
一往復三分間、風呂へ入ったなりで滑空してくれる。
一台しかないので、混浴はできない。
女の人が私をふくめて三人かたまったので、
先に女が乗ることになった。
ゴンドラの内部は、両側がガラス窓だったが、
濛々たる湯気で曇っていた。
片方五個ずつ、両方で十個のポリ浴槽があり、
正方形の深い湯舟である。
一つの浴槽に一人入ると十人まで入れるわけである。
まん中に簀子を敷いた細い通路がある。
そうして、人が一人ずつ漬かると、
ちょうど銅壺にお燗徳利を一本ずつ漬けた感じになり、
ゆらゆらと、空と海のあいだへ滑り出すという仕組み。
湯はかなり熱く清潔で、
宇宙船の内部もきれいである。
満々とたたえられた湯は、
箱がゆれるたびにたぷたぷとあふれ、
湯気が濃くなり、窓は曇る。
窓は換気のため少し開けてある。
私は深い浴槽に入ろうとして足がとどかなくて、
困った。



(次回へ)