
・私は、私の好きな、私の愛する人々のことを、
折にふれていつも考えていて、
元気で、うまいこといってほしい、
(それは人生でも仕事でも)
そうしていつまでも私と仲よしでいてほしい、
と思っているが、
長生きするにつれてだんだん、
そういう人たちが増え「運命」に対して、
守備範囲が広くなってきて、
近年、少し、手薄になった個所もあったかもしれない。
しかし、まさか、
あの山間の小さな村までやられるとは、
思ってもみなかった。
いちばん、無防御の部分をつかれた感じである。
私は、新聞とテレビのニュースで知って、
う~ん、と唸ってしまった。
この勝負、私と「運命」氏との勝負は、
まさしく私の完敗である。
(そういう手があったか)
と、私はまたもや唸ってしまった。
考えてみると、生まれて四十なん年、
私は「運命」氏とのたたかいにくたびれ果て、
いつもいつも、そういってきたような気がする。
私がトシとって、
老獪になってきたのに比例して、
「運命」氏も、同じように老巧になってきた。
だから、両者の差は、少しもちぢまらない。
昭和五十一年の九月十三日、
居座り続けた台風十七号のもたらした長雨で、
村の背後の山が崩れ、一村四十戸、
山津波に吞まれてしまった。
兵庫県の地図を見ると、
私のいう、「運命」氏の悪意がよくわかる。
姫路から鳥取へゆく国道二十九号線を、
曲里(まがり)という所で捨てて、
三方川に沿って北上してゆく。
文字通り、山また山の谷川道である。
広い兵庫県の地図の西、
茶色に塗られた山地である。
文字は小さくほそく、
あるかなきかになって、
虫メガネで見なければならない。
たんねんに、村や字の名をたどってゆくと、
やっと「福知」という字が捉えられる。
ほんとに、
針の先の一点で突いたような小村である。
そういう極微な一点に、
日本でもきわめて珍しい、
「基岩崩壊」がおこり、
史上まれな大規模な山くずれになるというのは、
どういうことだろう。
「広い日本の、
おまけにどこにも無人の山や谷はたくさんあるやないの、
そこで起ったらええのに、
なんで福知の村で、起らんならんか、
それが、私には腹立つ」
と私は叫ぶが、夫は、
何いうとんねん、という顔で取り合わず、
「そら、しゃあない」
と一言で片づけた。
でも私は、それ故に「運命」の悪意を感じる。
たまたま私の友人のいる村に起った悲劇、
というのではなく、
私の友人がいるから、「運命」が悪だくみをした、
という気がして、ならない。
「あ。
やっぱりちょっと、いかれとるのんちゃうかなあ。
ノイローゼやで」
と夫は相手にしない。
しかし、そのうち、
テレビのニュースに何べんも報道され、
私の友人からも、電話がかかりだして、
私はその応対やら、
福知の人々の安否をたしかめるのに追われた。
十三日の早朝だ。
福知の山よりの民家が一軒、
山崩れに会い、一家六人が生き埋めになった、
というニュースが入った。
私の知らない人たちだったが、
助けにいっている消防団や青年団の中には、
秋月さんや局長、センセも入っているにちがいなかった。
夕方になって、
福知の村に大きい山津波が襲った、
というニュースを耳にした。
連絡は途絶して、
様子はかいもくわからない。
私の家へは、
友人や私の家族、
別荘の小屋へ行ったことのある人々が、
次々電話をかけてきた。
秋月さんやその家族の安否もわからない。
秋月さんは、南の方の山崎という町にも、
ガソリンスタンドを経営しているので、
そこへ電話してみたが、
かからなかった。
テレビのニュースでは、
自衛隊が入っている、ということである。
私は仕事もあったのだが、
何も手につかなくて、新聞を待っている。
十四日の朝刊に、
大きな記事が載っている。
いちばんくわしく、
また迫力あるのは、
目の前で山崩れを見た、
神戸新聞の記者が書いた記事である。
早朝の一家六人の生き埋めを救助するために、
村の男たちは総出であたり、
女たちは炊き出しに狩り出されていた。
六人のうち、三人まで救出し、
怪我はしているが元気だったので、
病院へ運ぶ手配をしていた。
救出されたのは主婦と二人の子供である。
老夫婦と主人はまだ埋まったままで、
生きているのか死んでいるのかもわからない。
区長が、救助作業員の昼の炊き出しを指図するため、
小学校へもどってきた。
ふと山を見ると、
「抜山(ぬけやま)」と名づけられた、
村の背後の山が、崩れかかっている。
「山が抜けるぞ!逃げろ!」
と携帯マイクで絶叫した。
町の助役が救助作業を見舞いに来ていたが、
これも急いで小学校の放送室に飛び込み、
「山が抜ける、みなさん、早く逃げて下さい!」
住民は三方へ逃げた。
県道を南へ、北へ逃げる者、
揖保川にかかる西深橋を渡る者、
記者は「クモの子を散らすように」逃げた、
といっている。
人々は家へとって返し、
寝たきりの老人、赤ん坊、子供を担ぎ、
背負って逃げるのが精いっぱいだったそうである。
住民二百人、
ほかから手伝いにきていた消防団二百人、
奇蹟的に逃げ終わった直後、
抜山は真っ二つに割れ、
土砂は、
「火山が噴き上げた溶岩のようにドロドロ流れた」
という。
「樹齢五十年以上の杉やヒノキの大木も、
マッチ棒のように山すそに折れ、重なった。
映画『日本沈没』を地でいくような悪夢の三十分だった」
と記者は報道している。
まだ現場には山崩れが断続的に起り、
近づくこともできないそうである。



(次回へ)