むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「3」 ⑥

2024年09月10日 08時40分44秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・ともあれ、
弁のおもとも兵部の君も、
私には大切な知り合いだった

上つ方の噂を、
もたらしてくれるから

そして私は上流社会の人々の、
噂が大好きだった

夫の則光は、
私が噂の受け売りをすると、

「知ってるよ」

というのだった

「知ってるのなら、
どうして話してくれないの
あたし、そんな話好きよ」

「おれにはあんまり関係ない
聞いていると面白いが、
すぐ忘れてしまう」

「あんたたちは、
いつだって友達と、
役所の上役の愚痴を、
言ってるじゃないの」

「仲間が顔を合わせると、
そうなるさ
それにしてもお前はよっぽど、
上つ方の暮らしに、
あこがれているんだね
上流階級なんて、
必ずしも幸せに暮らしていられる、
わけではないんだぜ
金があってひまがある方は、
あちこちに女を作る
どこも丸くおさめようとするのは、
大変なことだ」

それはそうかもしれない

人に羨ましがられる、
権力者の妻なんてと、
「蜻蛉日記」の作者、兼家夫人は、
夫が寄りつきもしなくなって、
参ってしまっている

兼家公の長男、道隆公の夫人、
宮仕えをしているうちに、
見染められて今は、
大臣の北の方になられた人も、
いる

道隆公は、
浮気な方だったけれど、
この北の方だけはあたまが、
あがらなくてあがめていらっしゃる

大姫君(長女)の定子姫が、
帝に入内されることになれば、
高内侍(こうのないし)と、
よばれた女房あがりの夫人は、
女御の母君、
もし息子がお出来になれば、
東宮の祖母君とよばれるかも、
しれないのだ

弁のおもとの話によれば、
定子姫のご入内は、
帝のご元服と同時、
と決められているという

定子姫は、
私の本「春はあけぼの草子」も、
お手まわりに入れて、
宮中へお持ちになるのかしら

私の本が禁裡へ入るのであろうか
あの話のうちにしか、
想像できない後宮の世界へ

そこは人間の住むところであるが、
ただの人間世界ではない

豪奢な夢と、
この世ならぬまやかしと、
幻影の世界、
すべてが悪で、
すべてが善で、
混とんとして、
さめやらぬ悪夢の世界なのだ

気高い血と、
どす黒い奸智のまじりあう、
ところ

純愛と作り笑いが、
練り合わされ、
甘美な媚薬が調合されるところ

「いっぺんでいいから、
そんなありさまを、
見てみたいわ」

私はいった

「どうしてそんな・・・
女御や后といったって、
見た目ほど幸福では、
いらっしゃらない
今の帝はお年若でいらっしゃるが、
やがては、
四人も五人も女御が参られて、
反目したりやきもちを焼いたり、
想像するだけで大変だ」

則光は酒を飲んでいる

この男はうまく酔いに乗ると、
上機嫌で面白いが、
一つ間違うとうるさくなる酒である

私はいま切り出すのは、
まずいな、という気もあった

つい二、三日前、
弁のおもとから驚くべき便りが、
もたらされた

「宮仕えする気はないか」

というのだ

「定子姫のもとに仕えて、
宮中へ」

という

嘘のような話であった

道隆公のお邸では、
大姫君のご婚儀の用意の、
一つとして女房を、
あつめていらっしゃるという

才色兼備の女房を、
たくさんお求めになっておられ、
その中にあなたも候補にのぼった、
とあった

私はただちに、

「今すぐは無理」

と返事した

でも、則光さえ、
則光が承知してくれたら、
やがて半月か、半年か、
一年のちには・・・

「おい、何がこの上、
要るというんだ、お前は」

則光の機嫌は、
かんばしくない方へ、
傾いていきそうだ






          


(了)

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