
<このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに>
(このたびの旅は
あわただしく発ちましたから
幣の用意もできませなんだ
手向山の神よ
このみごとな美しい紅葉の錦を
私の捧げる幣として
み心のままにお受け下さい)
・菅家というのは菅原道真の尊称である。
『古今集』巻九・羇旅に、
「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましたる時に、
たむけ山にてよみける」
として出ている。
道真は「天神さん」として、
日本人に古来親しまれ、
学問の神サンとして尊崇されている人であるが、
この歌をよんだ時は五十四歳、
権大納言の右大将である。
まさに上り坂の真っ最中である。
右大臣となって、
左大臣の藤原時平と台閣の首班を争うのはその翌年、
であるから、この頃は道真の生涯でも絶頂時代。
先祖代々学者の家に生まれ、
学者として最高地位の文章博士となり、
父祖伝来の私塾「菅家廊下」を主宰し、
たくさんの学者を育てた。
また詩人でもあり、漢詩はもちろん、和歌もよくした。
詩人学者として終わっていれば、
道真は幸福な生涯であったろう。
思いもかけぬ政界へ足をふみ入れることになって、
道真の運命は大きく変わる。
時の天皇は宇多帝、
まだお若く、勢力ある老臣・藤原基経がけむたくてならない。
基経が死ぬと、
藤原一族を押さえる意図もあって、
天皇は道真を大抜擢され、
どんどん引き立てられる。
基経の子の時平も列していたが、
まだ若かった。
彼ら藤原一族たちは、
道真が宇多帝のブレインとして活躍するのに腹を立て、
(家柄もない儒者あがりが・・・)と、
排斥の機会をねらっていた。
折も折、宇多帝は寛平九年(897)、
まだ十七歳の皇太子に譲位される。
三十一のお若さだった。
この宇多さんという天皇は、
根っからの遊び好きで、
窮屈な皇位がいやになったらしい。
道真がいれば大丈夫、とばかり、
醍醐天皇になった皇子に、
<道真のいうことをよく聞くんだよ>
と言いきかせて位をおりてしまわれる。
このあと六十五で亡くなられるまでの、
放埓な遊蕩ぶりをみると、
のちの十三世紀の後鳥羽上皇といい勝負である。
しかし反面、
文学好きの宇多さんは、
宮中で詩酒の宴をよくひらかれた。
文学的気運が大いにおこって、
『古今集』前夜の時代、といわれる。
さて、この歌は昌泰元年(898)十月二十日、
宇多上皇が吉野の宮滝へ出かけられたとき、
お供した道真がよんだもの。
たむけ山は固有名詞と考えなくてもよかろう。
神の鎮まります坂や峠のことである。
旅の安全を祈る峠は、
昔は神聖な場所であった。
幣というのは、
神主さんがお祓いのときに手に持つ白い紙だが、
この時代のは、色の絹を小さく切ったもの。
旅へ行くときはそれを幣袋に入れて、
峠で撒き、神に旅の安全を祈る。
紅葉を幣に、という思いつきが、
きらびやかによまれている。
さて宇多上皇はその後間もなしに落飾される。
法皇となれば、
もう政治に介入できない。
時平はここぞと行動を開始する。
お若い醍醐帝を抱きこんで、
<道真は皇弟を擁立して、
謀反をたくらんでおりますぞ>
と吹きこむ。
ただちに道真は、
太宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷される。
息子らも土佐や駿河に流され、
妻と娘は都に、
一家はちりぢりになる。
宇多法皇はそれを救うにはあまりに無力だった。
筑紫の配所で、
道真は念仏と詩作の日々を送った。
無実の罪を晴らすすべなく、
配所で淋しく死ぬ。五十九歳。
なきがらは筑紫に葬られ、
都へ帰ることはなかった。
道真の怨霊が時平一族を若死にさせ、
雷を宮中に落としたという話は有名である。
怨霊を鎮めるため、
京の北野に道真を祀ることになった。
これが天神さんの由来。



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