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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

94番、参議雅経

2023年07月04日 08時21分07秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり>

(吉野の山の 秋風よ
ふけゆく夜の 静寂に
砧の音が
寒々ときこえる
旧都のこの地に
もの思えというがごとく・・・)






・『新古今集』巻五の秋の部に、
「とう衣のこころを」として出ている。

これには本歌があって、
『古今集』巻六の坂上是則の歌、

<み吉野の 山の白雪 つもるらし
ふるさと寒く なりまさるなり>

ただ本歌は冬の歌であるが、
雅経の歌は秋の淋しさを詠んでいる。

砧(きぬた)は秋の情感になる。

砧は衣板(きぬいた)、
木や石の台に衣をのせ、
木槌で打ってやわらかくしたり、
艶を出したりする。

その音は昔から、
人々に物思わせるものとして、
詩人の多感な心を動かしたのである。

『源氏物語』にも、
まだ若い頃の光源氏が夕顔の家へ泊まり、
この砧の音を聞くくだりがある。

大体、砧というのは庶民のする手わざで、
賤が伏屋から聞かれる物音である。

権門のお坊ちゃんである光源氏には、
耳なれぬ音なのだ。

さて、作者の雅経(まさつね)、
この人は藤原雅経というのが本名だが、
蹴鞠の名人で、「飛鳥井流」を開いたので、
飛鳥井雅経というほうがとおりが早い。
(1170~1221)

後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の、
三代に仕えた。

参議従三位に至っている。

和歌を俊成に学び、
『新古今集』の撰者になった。

鞠と歌と。
この二つの道で雅経は朝廷に仕えた。

後鳥羽院は、
雅経を蹴鞠の師匠とされた。

蹴鞠は中国から伝わった遊びであるが、
源流はもっと西方らしい。

十世紀のころから、
朝廷や貴族のあそびとして盛んになったが、
雅経の時代から勝負を争うゲームというより、
むしろ、典雅な儀礼となって、
いろいろ決まり事もできた。

『源氏物語』の「若菜」の上の巻に、
蹴鞠の描写がある。

らんまんの桜のもと、
若い貴公子たちは羽目をはずして興じる。

優雅な物腰の美青年たちであるが、
鞠に夢中になると、
冠の額ぎわもゆるみ、
指貫を引きあげ、
花吹雪をあびて鞠にいどむ。

この時、蹴鞠の名手として活躍する柏木は、
御簾のうちから、源氏の若い妻・女三の宮を、
かいま見て恋に落ちる。

柏木の悲恋がこの巻からはじまる。

蹴鞠といえば、我々世代は、
中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をして、
中大兄のお靴を鎌足が捧げている、
そういう絵が戦前の歴史の本に載っていた。

蹴鞠をきっかけに両者は接近し、
互いに手をたずさえて、
蘇我氏打倒のはかりごとを練る。

『日本書紀』を読むと、
「打毬(だきゅう)」となっている。

野趣たけだけしいこの時代は、
なおのこと荒っぽいスポーツだったかもしれない。






          


(次回へ)

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93番、鎌倉右大臣

2023年07月03日 08時43分20秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<世の中は 常にもがもな 渚こぐ
あまの小舟の 綱手かなしも>


(世の中は無常 つねに変わるというけれど
ああ どうか
いつも変わらずにあってほしい
渚こぐ海人の小舟が
今日は曳綱で曳かれてゆく
天空と海のあわいに
ぽつんと小さな人間の生の営み
しぶきに濡れ
張ってはたゆむ曳綱のさま
海人のかけ声
この世は美しい~~
愛すべきものでみちみちている
おお いつまでも変わらずにあれ
人の世の このいとしさ)






・これは意あまって、
舌足らずになっている歌で、
ちょっとわかりにくい。

鎌倉右大臣というのは周知のように、
鎌倉幕府の三代将軍、源実朝のことである。

実朝は、王朝末期の歌人の中では、
風変わりな歌を詠んだ。

それもそのはず、
生まれ育ってず~っと死ぬまで、
東国に暮らしていたのだから、
京都の空気を吸わない歌人なのである。

当時の文化は京にしかなかった。

実朝は京都歌壇にあこがれつつ、
体は鎌倉にしばられていた。

武家の棟梁の家に生まれながら、
侍に号令するよりは、
書斎で歌を作ったりしたい、
という文学好き青年であった。

しかし頼朝の子として生まれた宿命から、
のがれられない。

兄の頼家が暗殺されたあと、
まだ十二歳というのに、
三代将軍のポストに据えられる。

もちろん実権は、
母方の縁戚、北条一族が握っていて、
実朝はロボットである。

それやこれやで、
実朝の心はいよいよ、
好きな文学の道に走るのであった。

その頃撰進された『新古今集』は、
京を遠く離れた文学少年の、
またなき座右の書となった。

定家に師事したのは十八歳のとき。
尤も、鎌倉と京都である。

思うさま師弟の交流が出来るわけではなく、
半分は実朝の独学であった。

定家に作歌法の書を送ってもらったり、
『万葉集』を教わったり、
「本歌取り」の手法を習ったりして、
実朝はさかんに歌を作りはじめる。

歌の詠み方に忠実に従い、
最初は古来からの歌枕に、
それらしい縁語を並べた模倣作ばかりであった。

けれど実朝には、
天性、詩人の素質があった。

少年から青年にうつる間、
いろんな語句をおぼえ、
用語をふやしていった彼は、
自分好みの歌風をしだいに確立しはじめた。

なまじいに、
京都の歌人仲間に加わって、
手垢のついた旧来の観念に毒されなかったのが、
よかった。

青年実朝の澄んだ目と、
みずみずしい心は、
わが住む地方にあらためて向けられた。

今まで、
京へ、京へ、とあこがれ続けた彼の心に、
座標軸がさだまって、
周囲の風物を清新に享受できるようになった。

鎌倉やその周辺は、
京の歌人がかつて歌に詠むことのない、
土地であった。

実朝は、
しらべの美しい歌をよむようになる。

<もののふの 矢並つくろふ 籠手(こて)の上に
霰たばしる 那須の篠原>

<箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や
沖の小島に 波の寄る見ゆ>

<大海の 磯もとどろに 寄する波
われてくだけて 裂けて散るかも>

海の姿は、
青年将軍の歌にふさわしく、
優美でスケールがおおきい。

ところでこの歌であるが、
「綱手」というのは、
舟を曳く曳綱のことである。

「かなしも」は「愛しも」であろう。

海を見る青年詩人の心に、
何とはない憂鬱と、
限りない愛着が湧きおこる。

承久元年(1219)一月、
鶴岡八幡宮に拝礼におもむいた実朝は、
甥の公暁に暗殺された。
年二十八歳。

六十歳近い定家は、
才能ある愛弟子の横死を、
どんなに惜しんだことであろう。

しかし実朝の死は、
鎌倉幕府打倒を夢見る後鳥羽院には、
願ってもない好機到来であった。

院は二年後、
乱を起こしてかえって敗れる。

これが「承久の変」で、
後鳥羽院は隠岐へ流される。

定家はその数年のち、
後堀河天皇の勅命で勅撰集を撰んだとき、
実朝のこの歌を入れた。

そしてまた百人一首にもこの歌を加え、
実朝に寄せる愛惜と、
後鳥羽院への真実を表明した。

実朝は公家文化にも心酔した人であったから、
身は鎌倉にありながら、
そして武家の棟梁でありながら、
君にふた心持ちません、
と誓ったのは、
後鳥羽院に対してであった。

<山はさけ 海はあせなむ 世なりとも
君にふた心 わがあらめやも>






          


(次回へ)

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92番、二条院讃岐

2023年07月02日 08時21分31秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし>


(わたしの袖は
たとえればあの沖の石のよう
ひき潮にもあらわれぬ深海の石
ぬれにぬれ
人は知らないけれど
涙で乾く間もないの
みのらぬ恋を悲しんで)






・この歌は題詠に応じたもの。

『千載集』巻十二の恋に、
「石に寄する恋といへる心を」
として出ている。

雨や月、鳥や花はわかるけれど、
石に寄せる恋、
とは風変わりで突飛である。

王朝末期の歌も、
アイディアが出尽くしてしまった、
というところ。

しかし讃岐の歌は、
それを逆手にとって、
意表をつく面白さで歌いあげる。

袖が乾く間もない、
というのは常套語であるが、
それと沖の石の取り合わせが斬新である。

いかにも王朝才女の歌である。

讃岐はこの歌によって、
「沖の石の讃岐」とよばれるほど、
有名になった。

二条院讃岐というのは、
二条天皇に仕えた讃岐という女房である。

本名も生没年もわからない。

武人、源三位頼政の娘である。

父、頼政は源氏の一門であるが、
平氏全盛の世の中で、
中々進退に苦労した。

もともとは武人といっても都の育ち、
皇族や公卿に仕えて政界の空気も吸い、
精神風土の半分は長袖者流になっていた。

官位が進まないことを苦にしていたが、
幸い歌に長けていたので、
それで以て政界トップの心を動かし、
少しずつ昇進して四位まで昇ったが、
それから上へは容易にのぼれない。

頼政は歌を作って同情を引いた。

<登るべき 頼りなければ 木のもとに
椎を拾ひて 世を渡るかな>

椎と四位をかけている。
七十五歳でやっと従三位となった。

そういう頼政が、
平家の横暴を憤って、
以仁王を奉じて起とうとしたのは、
どういういきさつだったか、
結局、ことは成らず、
敗れて宇治の平等院で自刃した。

彼の辞世は、

<うもれ木の 花咲くことも なかりしに
みのなるはてぞ 悲しかりける>

公卿と武家、
歌人と武人、
二つの世界で生きざるを得なかった頼政は、
その矛盾に敗れたのだろうか。

その娘の讃岐は、
頼政の歌才を受け継いだのか、
十二世紀末~十三世紀はじめの、
有名な歌人になった。

保元・平治の乱を、彼女は見て育った。

お気の毒な崇徳院の憤死も聞いた。

世におごる平氏一門の栄華も見た。

老いた父が男の夢をかけて起ち、
敗れたのも見た。

洛中大火、大飢饉、大地震、
讃岐は都のどこかで見続けていた。

父や兄の夢を自分に托されたかのように、
讃岐は美しい歌を詠み続けて生きた。

<山たかみ 峯のあらしに 散る花の
月にあまぎる あけがたの空>

<鳴く蝉の 声もすずしき 夕暮に
秋にかけたる 杜のしたつゆ>

<世にふるは 苦しきものを 真木の屋に
安くも過ぐる 初しぐれかな>

このころはすぐれた女流歌人が輩出している。

動乱時代は女をたくましく、
躍動させるのであろうか。






          


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91番、後京極摂政前太政大臣

2023年07月01日 08時02分18秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<きりぎりす なくや霜夜の さむしろに
衣かたしき 独りかも寝む>


(こおろぎが鳴いている
霜夜の このしんしんと身にしむ寒さ
寒いむしろに私はわが片袖をひとつ敷いて
ひとり寝をするのか・・・)






・きりぎりすというのは、
こおろぎのこと。

さむしろは小さな莚(むしろ)、
または狭い莚に、寒いをかけている。

いかにも寒そうだし、
莚に着ているものを敷いて、
震え震え、一人で寝る、というのだから、
現代の我々は何となく、
貧乏ったらしい作者を想像する。

しかし作者は、
そういう素材でもって、
寒さの美を定着したのである。

この歌がいかにも寒そうな感じを与えれば、
そしてしらべが流麗であれば、
作者のねらいは成功したといえる。

現実の作者の境遇を、
私小説風にうたったものではない。

この長々しい名前を持つ作者、
どんなにうっとうしいオジンであろうか、
と思われるが、
実はさっそうたる才人の貴公子である。

藤原良経(よしつね)、
名門の御曹司(関白九条兼実の子)で、
年若くして太政大臣になった。

歌を俊成に学んで、
漢詩文や書もよくするという文化人であった。

だから後鳥羽天皇の信任もあつく、
『新古今集』の撰者の一人であった。

この歌は、『新古今集』第五・秋の下に、
「百首歌奉りける時 摂政太政大臣」
としてのせられている。

ところで「きりぎりす」の歌には、
厄介な要素がある。

伝統的な古歌の投影があるのだ。

これを読む人は常識として、
その古歌を知っていないといけない。

昔の歌詠み、
ならびに一般教養人としては、
初歩的な常識だったようである。

良経のこの歌は『古今集』の、

<さむしろに 衣かたしき 今宵もや
われを待つらむ 宇治の橋姫>

あるいは『万葉集』の、

<吾が恋ふる 妹は逢はずで 玉の浦に
衣かたしき ひとりかも寝む>

などから「本歌取り」されているという。

古い時代の名歌の一部を、
どこかにとりこんで歌を作るやり方が、
王朝末期、行われた。

それを本歌取りというが、
そのころの人は、
教養として古来の名歌は、
たいてい知っているので、
良経が「きりぎりす・・・」の歌を作ったとき、

(ああ、あの歌を本歌としているな)

とすぐ悟ることができるのである。

そうすると、
良経の歌の背後に古歌の光彩が射し、
歌は微妙に色合いを変えて趣深く面白くなる。

そこにユニークな美が生まれ、
新しい感性が触発される。

なかでも定家はこの技巧のうまい人でもあった。

「きりぎりす」は秋の歌になっているが、
本歌は恋の歌である。

されば、本歌を思いだしたとたん、
歌の風趣が艶な色合いを帯びて顕つ。

寒さを愚痴っているだけではない。
恋人に逢えぬ嘆きの訴えがある。

その千変万化する色の変わり目をたのしむ、
というのが本歌取りの技巧であるが、
現代の我々からみると、
中々手がこんでわずらわしい。

ところでこの良経という人、
位、人臣をきわめていたけれど、
最後は不幸であった。

建永元年(1206)三月のある夜、
寝所で何者かに天井から槍で刺し殺された。

『新古今集』にかかる恨みともいうが、
良経は、
俊成や定家ら御子左家のパトロンであったから、
その急逝を定家は悲傷し、
落胆した。






          


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90番、殷富門院大輔

2023年06月30日 07時12分35秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色はかはらず>


(見せたいわ あのひとに
あたしのこの袖を・・・
みちのくの雄島の磯で働く
漁師さんの袖だって
そりゃあ 波のしぶきに
ぬれるにぬれるわ
だけど袖の色は 変わりゃしない
そこへくると あたしの袖は
涙にぬれるばかりか
血の涙で 袖の色も変ったわ)






・古来の歌の伝統では、
恋や哀傷に心を破られると、
血の涙が出るということになっている。

この歌は袖の色を強調するため、
「見せばやな」と、
強く言い出しているところが面白い。

雄島は宮城県松島の一島、というが、
歌枕としてよく使われている。

彼女が旅して見たわけではない。

作者の生没年は不詳であるが、
正治二年(1200)ごろ、
七十歳で亡くなった、
といわれる。

殷富門院(いんぶもんいん)に仕えた女房である。

勅撰集に五十九首とられているが、
この人は恋の歌を作らせると、
激越で感覚がするどい。

人知れぬ悲恋を経験した女性だったのかも。

彼女の仕えた殷富門院は、
後白河天皇の皇女・亮子内親王のことで、
かの式子内親王の姉君である。

伊勢の斎宮となり、
のちに安徳・後鳥羽両帝の准母として、
院号を宣下され、
殷富門院と称せられるようになった。

この院号は、
皇族女性の誰にでも与えられるものではない。

天皇の生母とかそれに準ずる准母、
三后、内親王などに、
朝廷から与えられるもので、
「院」となると待遇が違う。

すべて上皇に準じ、院司が設けられる。
お手当ても昇級して経済的にも安定する。

称号には宮城の門号が用いられる。

ついでにいうと、この宮城の門、の
十二門の名に私は興味がある。

平安京の大内裏の門は、
古い昔、都が飛鳥にあったころの、
宮城の門につけられていた名前を、
そのひびきに通わせている。

都は平城京、平安京へと変わり、
宮城も変わったが、
門の名前はそのまま伝えられた。

門の額字には空海らが麗筆をふるった。

殷富門というのは、
大内裏の西の門である藻壁門(そうへきもん)の、
北である。






          


(次回へ)

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