GOTTSU’s Diary

I dream things that never were and say,why not.

⑳1993年第11戦ハンガリーGP

2006年04月30日 23時51分05秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・プロスト 優勝=D・ヒル)

忘れもしない、D・ヒル初優勝のレースです。ポールがプロスト、2位がヒル。ななななんと、ポールのプロストさんはフォーメーションラップにスタートできず・・。チョロっと動いただけで止まっちゃった。。なんとか再スタートできたものの、当然最後尾からのスタート。ただでさえ抜き所の少ないハンガロリンク、最後尾からのスタートともなれば優勝はほぼ絶望・・・。
でまあ、実質ポールから飛び出したヒルは逃げる逃げる。2位以下は引き離され、セナ・シューマッハともに追いつけない。シューマッハは追い上げてる途中にスピンしたり不安定で、後々トラブってリタイア。セナも同様にスロットル系のトラブルでリタイア。
この間プロストはじわりじわりと4位まで追い上げてきていた。んでタイヤ交換にピットインしたら、何やらメカニックがリアウイングをいじってる。。ん?リアウイングがぐらぐら・・・??

「エンジン切れって言ってますリアウイングがおかしいみたいです!!」(by川井ちゃん)んでまーリアウイングを外しにかかってるわけですよ、メカニック達が必死の突貫工事(by古館)で。
「リアウイングを外すのにも時間がかかっていますが、スペアのウイングを用意できていなかったので新しいリアウイングを用意するのにも時間がかかっています。」(by川井ちゃん)

更に何か様子がおかしい。

「後ろに下げてる・・。!!ヒルが入ってくるから!!」(by三宅アナ)
つーわけで、プロフェッサーはヒルがピットアウトするまで待たされることに・・。ヒルは何事もなくピットアウト。そして、プロストもようやく交換が終わってピットアウト。トップのヒルからは7周遅れ・・。

終盤遮二無二追い上げてきたのはベルガー、ブランドルとワーウィックを強引にかわして3位に。そして鉄人パトレーゼが地味に2位をキープする着実な走り。
ファイナルラップ。イギリス、ドイツとあと一歩の所で優勝を逃してきたヒルにとっては人生で最も長い1ラップだったろう。亡き父グラハムから教わったことはただ1つ、「絶対に諦めるな」。チェッカーフラッグを受けるまでは集中しろ、息子デーモンはそう言い聞かせていたことだろう。そして無事にゴール。

表彰台は平均年齢が34歳というオジサン組に(笑)
ハンガロリンクに強いヒル、彼のレースキャリアはまだまだ始まったばかりであった。

⑲1993年第9戦イギリスGP

2006年04月30日 22時41分10秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・プロスト 優勝=A・プロスト)

予選からウイリアムズのヒルとプロストの一騎打ちとなったレース。前回のフランスGPではプロストがセッティングに手間取っている間にヒルがポールを奪取。レースではプロストに敗れたものの、ヒルの成長にはプロストも焦り始めた。予選ではヒルが終了ギリギリにプロストのタイムをコンマ4秒逆転。誰もがヒルのポールを確信したが、ほぼ終了と同時にプロストがコントロールラインを通過し、コンマ1秒逆転。。恐ろしや、プロスト。。見事にお返し。

レースでは相変わらずプロストがスタートで出遅れ、ヒル、セナ、プロストの順。プロストはまずはセナの攻略に乗り出す。その間ヒルは逃走。。この数周にわたるセナ・プロストバトルは非常に見ごたえのあるものだった。互いにどこで攻めてくるかを熟知している間柄であるからこそできるバトル。左右に振るプロスト、巧みに抑えるセナ。最後はハンガーストレートでパワーの差でプロストの勝ち。
お次はヒル対プロスト。じりじり差をつめるプロスト、その差は約10秒に。そして2位のプロストが先にタイヤ交換。ヒルはその間に逃げる、そして次の周にヒルもタイヤ交換へ。
ピットアウトすると、2位プロストとの差は約3秒。恐るべしプロスト、見えないところで飛ばし差は半分以下に。
尚もチェイスは続くが、これに水を差す事態が。。ローラ・フェラーリのルカ・バドエル君がグリーンゾーンでストップ。

「セーフティーカーが入りますね。」by川井ちゃん

「マジかよ・・・」byヒル(多分) 「ラッキー」byプロスト(多分)

セーフティーカーってのはまあ、ペースメーカーっす。つまり、5秒あった差はチャラ。
んで、セーフティーカーがいなくなった途端にヒルは逃げる逃げる。その周にヒルはレースのファステストラップを記録。
ところが次の周、ヒルのエンジンがブロー。。
正に「悲しみの白いため息」by古館

これがレースっちゃあレースだが、イギリスGPですからね。観客もみんなため息。プロストは残りの周回をきっちりと走りきって、通算50勝を達成。インタビューでもプロストは気まずそうでした。でも、これがレース。

⑱1993年第3戦ヨーロッパGP

2006年04月30日 21時57分05秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・プロスト 優勝=A・セナ)

4月にイギリスのドニントンパークで行われたレース。雨が降っちゃった後の何とも難しいコンディション、典型的なブリティッシュウエザーの下スタート。セナは出遅れて5位にまで落ちたが、ぐんぐん巻き返してなんとオープニングラップをトップで通過。このセナの走りを高く評価する人が多いですね。
雨となればセナの独壇場、そのまま逃げる。
路面が乾きつつあった17周目、まずヒルが1回目のピットインでスリックタイヤに交換。セナが18周、プロストが19周目にピットインし、両者スリックに交換。ドライになりつつあると思われたが、一転して雨が強まる。そして22周目、プロストが2回目のピットインで再びレインタイヤに交換。この時点での順位はセナ、アレジ、バリチェロ、プロスト。そして29周目にセナもレインに交換。。。
で、34周の時点でセナ、プロスト、ヒルの順。プロストはこの時3回目のタイヤ交換を終え、スリックタイヤで走行。セナは34周でピットインしたが、タイヤ交換に手間取り20秒をロス。。スリックでプロストの後ろへ。
そうかと思ったら、プロストが4回目のタイヤ交換でまたまたレインへ。順位はセナ、プロスト、ヒル。。
かと思ったらま~たプロストがタイヤ交換へ。コロコロ変わるコンディションにプロフェッサー完全に振り回されてる。そしてこの時エンジンストールを起こし、30秒をロス。。。
53周終了時点での順位は、セナ、ヒル、プロスト。プロストはクラッチとギアボックスにトラブルを抱え、ペースが上がらず。。。最後は2位のヒルに1分以上の差をつけてゴール。プロストは結局7回もタイヤ交換。。

ころころと変わるコンディションにうまく対応したセナの実力が映えたレースでした。

⑰1992年最終戦オーストラリアGP

2006年04月30日 20時39分28秒 | あの日のGP
(ポールポジション=N・マンセル 優勝=G・ベルガー)

これは思い出深いレースです。知ってる人は結構通ですよいや、日本人なら知っとけよっていう方もいますけどね。この年のオーストラリアGPは夕方の時間帯に生中継されてましてね、ビデオに録画しつつリアルタイムで観てました。

さて、何故思いで深いかというとですね、ホンダ最後の優勝となったレースなんです。
レースはマンセル、セナ、パトレーゼ、ベルガーの順でスタートし、周回を重ねていく。マンセルは引退を表明し、最後のレース(この時点では)となるため勝ちにいく。セナもホンダの最後のレースに花を添えるべく追う。両者の差は徐々に詰まっていったのだが、
・・・18周目の最終コーナー手前でセナがマンセルに追突。両者コースアウト、そしてリタイア。マンセルのブレーキングが早かったという見方もあれば、セナが接近しすぎたという見方も。ともかく両者リタイア。元々仲の悪かった二人だが、最後まで対峙して終わってしまった。セナは握手を求めて近寄ったが、マンセルはそれを避けたのが象徴的。。

で、トップにたって楽勝モードかと思われたパトレーゼだったが、中盤にエンジントラブルでリタイア。ここでトップに立ったのがマクラーレン・ホンダのベルガー。3年間の在籍でここまでわずかに2勝、何としても勝って締めくくりたい。(翌年からフェラーリへ移籍)
「頑張れ!!ホンダのために頑張れ!!」そう思っていた記憶が今も鮮明。ベルガーは最後ペースを落としベネトン軍団に追いつかれるが、しっかりとトップをキープしてゴール。ホンダの最後を勝利で飾った。ピットに帰ってきて、ホンダのスタッフの前で思いっきりアクセルをふかし、最後のホンダミュージックをかましてくれたのが感動的だった。

あれからホンダは復帰したが、まだ優勝できていない。新たな伝説は誰の手によって始まるのだろうか。

⑯1992年モナコGP

2006年01月31日 23時21分20秒 | あの日のGP
(ポールポジション=N・マンセル、優勝=A・セナ)

え~伝説のグランプリです。
が、スタートしてからは大して大きな動きもなく、マンセル、セナ、パトレーゼの順位で淡々と周回を重ねる。。

が、残り8周でドラマが起こる。トップのマンセルが足回りに異常を感じ、ピットイン。セナと順位が入れ替わる。残り8周、マンセルの壮絶な追い上げが始まる。
残り4周で差がなくなり、マンセルはセナのスリップストリームにぴったりとくっつく。

そして残り3周は歴史に残る大バトルとなった。マンセルが左右に振るがセナがピシャリと閉める。
抜けないんだな~これが。。
フジTVの三宅アナの名言、「しかしここはモナコ、抜けない、絶対に抜けない!!」
もうこのレースはどうにかして観てくださいよ、それが一番おもしろいから。今なら総集編もあるだろうし。
私GOTTSUからレンタルしたいって方はどーぞご連絡を(笑)

⑮1991年第15戦日本GP

2006年01月12日 22時07分37秒 | あの日のGP
(ポールポジション=G・ベルガー、優勝=G・ベルガー)

これもいわくつきのGP。日本GPは3年連続でいわくつきになってもうた。
だってさ~、ホントならセナが勝ってたんだもん。。
チャンピオン争いがセナとマンセルに絞られた。とは言え、セナの圧倒的有利な状況。マンセルは2戦全勝が必須だが、セナはどっちかで表彰台に上がればいい状況。ポールはベルガー、マクラーレン2台は鈴鹿史上初の1分34秒台へ突入。。
レースはグリッド通り、ベルガー、セナ、マンセル、パトレーゼの順でスタート。ベルガーは遮二無二とばす!!セナはスローペースで後ろのマンセルをブロック。このままゴールすればセナもマクラーレンもタイトル獲得。
業を煮やしたマンセルは徐々にセナにアプローチをかけ始める。そして迎えた10周目、ブレーキの効きが悪くなっていたマンセルは、1コーナーを曲がり切れずコースアウト→スピン→リタイア
この瞬間、タイトルは決定。
で、レースが動きはじめる。セナは徐々にペースを上げる。ベルガーはとばし過ぎの影響でタイヤがもたなくなっており、セナに抜かれる。で、どんどんどんどんセナが逃げてって、ファイナルラップ。さすがに手を振ったりとクルージングしてんだけど、どんどんセナがペースを落としてる。ベルガーはどんどん接近。シケインにほぼ同時に入る。最終コーナー、セナはアウトに寄ってベルガーに道を譲る。=優勝はベルガー。
なんか元から譲る気だったらしいよ、セナが。あのセナが。
この時も物議を呼んだわ。美談とも言われたし茶番とも言われたし。
とにもかくにも、近年のチームオーダー禁止やらの前例っぽくなってるのは確か。

そしてこのレース、我らが中嶋悟の最後の日本GPとなった。結果はサスペンショントラブルから、S字でコースアウトし、リタイア。手を振りながらピットに帰ってくる姿、泣きそうになりながらインタビューしてる川井ちゃん、それに清清しく答える姿が印象的でした。

⑭1991年第13戦ポルトガルGP

2005年10月19日 14時22分30秒 | あの日のGP
(ポールポジション=R・パトレーゼ 優勝=R・パトレーゼ)
マンセルファンにとっては伝説の「やっちゃった~GP」ですね。
そろそろ後がなくなってきたマンセルにとしては何がなんでも勝ちたいところ。
が、ポールをチームメートのパトレーゼにとられ、自分はマクラーレン2台に抜かれて4番手スタート。始めっから暗雲たちこめてましたね、ハイ
で、スタートからパトレーゼが逃げる。マンセルは2位まで上がって、運命のタイヤ交換へと向かう。ここまでは荒法師マンセルのペース。
無事ピットイン!今度は2年前みたいに行き過ぎなかった!!
3本は終わり、クルーが手を上げた。右リアも終わり手が上がり、マンセルは再スタート!!ん??右リアのクルーが手をぶんぶん振り回してますが、何でしょ・・・?

あ、・・・
・・・・・
右リアタイヤ外れた
コロコローっとジョーダンのピットまでタイヤは転がってった。
マンセルステアリングを両手でぶん殴り怒る!!
クルーはタイヤ交換セットを担いで現場に向かい、とりあえずタイヤをくっつけ、押しがけで再スタートさせコースに戻す。

誰もが「やっちゃった~」と思っていたことでしょう。ルール上、チームのピット外で作業したら失格~!!

失格!?黒旗出すの!?・・・・2年前の事件が脳裏をよぎった・・・・。
ところがどっこい、黒旗出したらおとなしくピットに帰ってきちゃった。
ま、安心っちゃあ安心。
で、レースどころじゃなくなってたレースはパトレーゼが逃げ切り、マクラーレンのリードをやや食い止めた形となった。なお、このレースでミナルディのP・マルティ二が3位アレジと10秒差の4位に入り、ミナルディにとっての最高位を記録した。

⑬1991年第5戦カナダGP

2005年10月19日 14時03分52秒 | あの日のGP
(ポールポジション=R・パトレーゼ 優勝=N・ピケ)
いわくつきのGPです。このサーキットではウイリアムズが終始マクラーレンをリードし、フロントローをパトレーゼとマンセルが独占。
スタートでリードしたマンセルが終始レースをリードした。一方のパトレーゼはトラブルだったかピットでのミスだったかでやや後退・・。

ドラマはファイナルラップのヘアピンを通過したところに待っていた。
ヘアピンを立ち上がったトップのマンセルだったが、・・・・加速しない!!!
で、そのままストップ。原因不明。
優勝したのは伏兵、ベネトンのピケ。実は、これがピレリタイヤ最後の優勝。
いや~、レースってのはチェッカー受けるまでわかんないもんっすね。


あ、ちなみにマンセルのストップの原因は電気系統のスイッチをマンセルが切っちゃった!?説が濃厚となってます(笑)
ホントかどうか知らんけど、マンちゃんらしいわ。。

⑫1991年第2戦ブラジルGP

2005年10月17日 14時29分58秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・セナ 優勝=A・セナ)
久々のGP編。ようやく90年代に突入(笑)このレースはセナの伝説のレース。まあ結果は勝っちゃったんだけどさ、それまでがすごかったのよ。
1位セナ、2位パトレーゼの順位となってラップを重ねる。が、後ろのパトレーゼのマシンはギアボックスにトラブルが出て、前のセナを追えない苦しい展開。この年ウイリアムズはセミオートマチックトランスミッションを開発したばっかだったから、まだまだトラブル続出だった。

う~ん、セナの楽勝じゃん。。と思ったでしょ???

実は、前を走るセナの方がヤバかったんですよ、これが。
当時のマクラーレンはまだマニュアルシフト。まあトラブったらキツイのはどっちも変わらんけどね。
この日のセナのマシンにもギアボックストラブルが発生し、4、3、5、2速とどんどん使えなくなっていった。
はい、残ってるのは1と6ですね。・・・走ったんですよ、6速だけで。加速もへったくれもあったもんじゃない。後ろがトラブってるパトレーゼじゃなかったら抜かれてたかもしれないよ。それでも逃げ切ったんよ、6速だけで。
ゴールした直後、無線からはセナの泣く声が聞こえてきた。そして彼はクルマから降りれないほど憔悴しきっていた。
セナがセナである所以となったレースです。

⑪1990年第15戦日本GP

2005年03月16日 18時20分58秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・セナ 優勝=N・ピケ)
歴史的なレースとなったGP。まず3年連続で日本GPがチャンピオン決定の場となる。そして同時に3年連続でセナとプロストの争い。予選ではセナが夢の1分36秒台を叩き出してポールを獲得、プロストが2番手でマンセル3番手、ベルガー4番手。役者は揃った。ちなみに日本勢、ラルース・ランボルギーニの鈴木亜久里が予選10位、ティレル・コスワースの中嶋悟が14位。決勝前にティレルのもう一台、「新鋭」ジャン・アレジがレース欠場となったので、亜久里が9位・中嶋が13位に繰り上がる。そして迎えたスタート、緊張の一瞬。鈴鹿の観衆・テレビの前のF1ファンの注目が固唾を呑んで見守る・・。シグナルが赤から青へ!!スタートで先行したのはゴミの少ないアウト側からスタートしたプロスト!セナは2位。プロストは1コーナーまでにミラーを5回も確認し、少し左に振ってから右カーブの1コーナーへアプローチしていく。しかしこの時セナもイン側を狙っていた。・・・!!!1コーナーの入口で2台は接触、コースアウト。スタンドとテレビの前からは悲鳴が、正に悪夢。この瞬間にセナのチャンピオンが決定する。後にセナはこれがわざとであったことを暗に認めている。プロストも前年の事故をわざとだと暗に認めている。いわゆる「仕返し」ってやつ。
大人気ないというかなんというか・・。周りは凍りつきながらもレースは進む。スタートでマンセルを抜いたベルガーが1周目をトップで通過。がしかし、・・・2コーナーで痛恨のスピン!!はい、セナ・プロストが撒き散らした砂に乗ってスピンするというなんとも情けない結果に。。。これでホンダが全滅。芋づる式に順位は上がり、トップはフェラーリのマンセル。この時点で亜久里は7位、中嶋9位。マンセルがペースを上げ、2位ピケとの差が徐々に広がる。。沈黙してしまったレースに再び火をつけたのが日本勢の活躍。まずは亜久里が2コーナでワーウィックをパス!そして中嶋もホームストレート、アウトからワーウィックをパス!!これには故ケン・ティレル(ティレルチームオーナー)も大喜び。しかしこの頃、再びアクシデントが!!トップのマンセルがピットアウトした際にドライブシャフトを破損しリタイア!!ステアリングを叩いて悔しがる光景、凹み様がマンちゃんらしい。で、1位はベネトンのピケに。亜久里は尚もペースを上げ、ファステストラップを記録しながら前を行くパトレーゼ、ブーツェンを追う。このラップタイムの速さとタイヤ交換の速さが功を奏し、亜久里は残り20周から3位に!!4位パトレーゼとの差は10秒弱。そして中嶋も6位を磐石のものとする。このままいってくれ!と誰もが願うんだが、そうはいかないのがレース。終盤、ピットレポーター川井ちゃんからの情報=「亜久里選手、ガソリンが厳しいそうです・・。」この言葉の意味=ガス欠になったらおしまい。今と違って給油できないから。さらに不安材料が一つ。亜久里が搭載するランボルギーニエンジン、他に3台このエンジンを搭載してるのだが・・・亜久里の以外この3日で必ず1回はブローしてる。で、亜久里のはまだ1回もブローしてない・・・。(エンジニア曰く、一番いいエンジン・・。)もうおわかりですね、ガス欠になるかもしれないしエンジンがブローするかもしれないんです!!!当然ペースを落とす亜久里。ピットからも「FUEL」(=燃料)のサインが。が、4位のパトレーゼとの差はなかなか詰まらない。後でわかったのだが、パトレーゼもガス欠の危険があったそうだ。残り15周、10周、5周とレースが進む。ここで亜久里へピットからのサイン「EASY」が。つまり、ガス欠の心配はないということ!!あとは神様仏様エンジン様!!いよいよ現実味を帯びてきた日本人初の表彰台。ついに1位のピケがゴール!2位は同じくベネトンの苦労人ロベルト・モレノ。エースのナニーニがヘリコプター事故で再起不能になり、その代役として抜擢されたピケの後輩。そして3位が我らが亜久里!!波乱のレースを生き残り、見事3位でチェッカーを受ける!!中嶋も無事6位でゴールし、ポイント獲得!!
というのがこのレースの結果でした。よく「亜久里の表彰台は運のおかげ」とか言ってる輩がいますが、全然そんなことはないのです。レースは何があろうとレースです!!

⑩1990年第10戦ハンガリーGP

2005年03月16日 18時15分02秒 | あの日のGP
(ポールポジション=T・ブーツェン  優勝=T・ブーツェン) 
よく「退屈だ」とか言われているハンガリーGPの舞台、ハンガロリンクですが、俺は結構好きなサーキット。この年のGPは近年稀に見る混戦でした。ポールはウイリアムズのブーツェン、2位はチームメートのパトレーゼとウイリアムズ勢が好調。3位ベルガー、4位セナ。5位マンセル、プロストは7位。レースがスタートすると、ウイリアムズ2台がうまく抜け出しそのまま1-2体制に。ってことになるとこのコースではどうゆう現象になるか、知ってる人は知ってますね?そう、抜けねーんだわ。特にこの日みたいにブーツェンが逃げてパトレーゼが抑えてる状況では。飛ばすブーツェン、抑えるパトレーゼ。2台、いや、ブーツェンと後続との差はぐんぐん広がる。しかもみんなタイヤ交換したのにず~っとこの体制。中盤から終盤にかけて後続が落ち着いてきた。順位を整理すると、ブーツェン、パトレーゼ、ナニー二、マンセル、セナ、ベルガー。・・(だったかな?)まず後続でセナがマンセルをパス、そしてナニー二がついにパトレーゼの前に出る。パトレーゼはセナにも抜かれる。無理もない、タイヤが限界にきていた。普通より遅いペースで走るのって結構タイヤにキツイらしい。ってことで、パトレーゼはピットインし、しかもピットアウトしたらスピンしちゃったんで4位フィニッシュ。さて、これでブーツェン、ナニーニ、セナ、マンセル、ベルガーの順。まずセナがシケインで強引にナニーニのインを突く!!ってぶつかったし!!哀れ、ナニーニはダメージが大きくリタイア。セナは幸い無傷。同じシケインでベルガーがマンセルのインを突く!!・・・ってまたぶつかったし!!こっちの2台は痛み分けってことで2台ともリタイア。てなわけで、残ったのはブーツェンとセナの2台のみ。
セナはブーツェンにぴったり付くが、・・・抜けないんだよね~、ハンガロリンクは。互いに左右にマシンを振っての攻防が続くが、ついにファイナルラップに突入。ここでもセナは激しく攻めるが、ブーツェンも譲らず。結局そのままゴール。ウイリアムズはこの年2勝目。ブーツェンにとっても自身3勝目、そして最後の勝利を飾った。(死んでないよ、その後勝てなかったの)

⑨1990年第7戦フランスGP

2005年03月16日 18時11分29秒 | あの日のGP
(ポールポジション=N・マンセル  優勝=A・プロスト)
これまたプロストさんの強さが光ったレースでした。それよりもがんばったのは、レイトンハウスのイワン・カペリ。レイトンハウス・ジャッドは、今でこそ空力の奇才と言われるエイドリアン・ニューウェイがデザイナーだったが、その空力的に繊細すぎるマシンの性格と非力なジャッドV8エンジンのお陰で、前戦のメキシコGPでは2台そろって予選落ち。しかしここフランス・ポールリカールでは相性が良かったのか、カペリが予選7位で相方グージェルミンが10位。上位陣はマンセル、ベルガー、セナ、プロストの順。レースがスタートすると、プロストがスタートでヘマり6位に後退。トップの3台はそのままの順位でスタートしたが、数周後にセナが1コーナーでベルガーをパス。10周程してセナはマンセルもパスしトップに立つ。ペースの上がらないマンセルはベルガーの追撃を受けるが、ベルガーのタイヤが早くも悲鳴を上げたため、ベルガーピットイン。この日のマクラーレンピットはご難続きとなる。ナットが締まらず20秒もロスし、まずベルガーが後退する。後にピットインしたセナも左リアが締まらずに22秒もロス。そつなくピットインをこなしたマンセルが2位。この時プロストはまだパトレーゼの後ろ。トップを走るのはレイトンハウスのイワン・カペリ。レイトンハウスのピットは全く動きを見せていない。・・・ここでプロストが気づく。「そうか、レイトンハウスはタイヤを換えないんだ!!」気づいちゃったプロストさんはすかさずピットインし、追撃体制を整える。ニュータイヤに履き換えたプロストはピットストップでパトレーゼを抜き4位に浮上。この時トップはカペリ、2位は相方のグージェルミン。プロストはマンセルを抜き3位に浮上する。
タイヤ無交換で我慢の走りを続けるレイトンハウスに対し、プロストはニュータイヤ、勢いが違う。プロストはついに2位グージェルミンを捕らえ、ホームストレートでスリップストリームに入り1コーナーでパス。不運なグージェルミンはこの後エンジンが壊れてレースを終える。81周レースの70周を終えた時点で1位カペリ、2位プロスト、3位マンセル、4位セナの順。ところが75周目あたりにマンセルがギアボックスのトラブルでリタイア。そして残り4周、ついにプロストがカペリに追いつく。1.6キロのバックストレート、ミストラルを抜けたシーニュカーブで仕掛ける!!しかしここはカペリが踏ん張った。そして次の周、今度はミストラルでぴったりスリップに入られた。迎えたシーニュ!・・ついに残り3周でプロストがトップに立ち、そのままゴール。地元ポールリカールでの最後のGPを見事勝利で飾りました。3位はセナ。表彰台の3人は対照的。暗いセナ、明るいプロスト、そして涙のカペリ。後にフェラーリはカペリを獲得するが、きっかけはこのGPと言われている。陽気なイタリアンが見せた熱い涙が印象的だった。

⑧1990年第6戦メキシコGP

2005年03月16日 18時08分12秒 | あの日のGP
(ポールポジション=G・ベルガー  優勝=A・プロスト)
私が尊敬するアラン・プロストのベストレースの1つ。ポールはベルガー、2位パトレーゼ、3位セナ。で、プロストは13位。スタートで先行したのはパトレーゼ。しかし1.6キロのホームストレートに戻ってきてコントロールラインを通過するときにはセナがトップに変わっていた。1コーナーでベルガーもパトレーゼをパスし、早くもマクラーレンの1-2となる。10周目を終えての順位は1位セナ、2位ベルガー、3位ピケ、4位ブーツェン、5位パトレーゼ、6位マンセル。しかしベルガーはタイヤの磨耗が早く、ピットイン。13周目にはベルガーが下がった分順位が繰り上がり、プロストが6位に浮上。この時トップを走るセナとの差は21秒。そして20周目、マンセルがパトレーゼをパスし、プロストもパトレーゼに肉迫する。マンセルは更に24周目にブーツェンをパス、次の周にプロストもパトレーゼをパス。ウイリアムズ2台がこれほどまで簡単にフェラーリに抜かれたのには理由がある。それはサスペンションのセットアップとタイヤ選択を誤ったためだ。このコースは路面のグリップが低いため、タイヤとサスペンションを調節して補う必要がある。方法は2つ。一つはソフトタイヤを選択する。この場合、タイヤの磨耗が早いとタイヤ交換をする必要が発生するというリスクを背負うことになる。もう一つは、硬めのタイヤを選択し、サスペンションを硬くすることによってメカニカルグリップを得るという方法である。この場合にも、タイヤが硬めのため十分グリップせず、サスが硬いためタイヤが長く持たないというリスクが発生する。輸送費節約のため硬めのサスしかもってきておらず、(硬い方がグリップを得られるがタイヤの消耗が早くなる。)
硬いタイヤを装着したのだが、結局グリップは不足しタイヤの磨耗が早まる結果となってしまった。フェラーリ2台はその逆で、ソフトタイヤにソフトなサスを装着していた。37周目、42周目にマンセルとプロストはそれぞれピケをパスし、1位セナ、2位マンセル、3位プロストのオーダーとなる。この時セナとプロストとの差は24秒、残りは30周を切った。ここにきてセナのタイヤも磨耗の影響でラップタイムが上がらない、ということはフェラーリ2台との差が縮まるということ。残り20周の時点でセナとマンセルとの差は10秒に。残り15周の1コーナー、周回遅れに詰まったマンセルをプロストが2台いっぺんにパス!!プロストは自分の予選タイムを上回るペースでセナを猛追。プロストのタイヤにはまだ余裕があったが、セナの方はもう限界に近かった。そして61周目の1コーナー、ついにプロストがセナをパスしてトップに!!次の周にマンセルもセナをパス!これにはチェザーレ・フィオリオ監督もうれし泣き。対するセナはついに右リアタイヤがバーストし、リタイヤ。ラストはマンセルとベルガーの一騎打ち。スピンしたマンセルをベルガーが強引にパスするが、タイヤで勝るマンセルに再びパスされた。プロストは屈辱の13番手スタートのレースに勝利した。皇帝とか言われているミハエル・シューマッハは同じ条件でやったら果たして勝てるのだろうか?多分無理だね。

⑦1990年開幕戦アメリカGP

2005年03月16日 18時04分50秒 | あの日のGP
(ポールポジション=G・ベルガー  優勝=A・セナ)
正しくこのシーズンの混戦模様を象徴するかのようなGP。まずは予選っすよ、トップチームが予想外の不振。ベルガーはポールを奪取したものの、セナ5位、プロスト7位、マンセル17位。代わりに健闘したのがピレリタイヤユーザー。ティレルの新鋭(当時)ジャン・アレジが4位、スクーデリアイタリアのアンドレア・デ・チェザリスが3位、ミナルディのピエルルイジ・マルティニが2位。スタートはベルガーが制したが、1コーナーで4番手スタートのアレジにパスされる。新人アレジは徐々にベルガーを引き離しにかかり、両者のタイム差は広がり始める。焦ったベルガーはアクセルとブレーキの間を踏んでスピン、タイヤバリアに突っ込む。これが元で後々リタイヤ。代わって2位に浮上したセナが徐々にアレジを追い詰めていく。そして34周目、1コーナーでセナがアレジをパス!しかし次のコーナーでアレジが抜き返す!!セナもまた仕掛けアレジがブロック!!結局次の周にセナがアレジをパスし、アレジを完全にブロック。そのままセナが逃げ切り開幕戦を制す、そしてアレジが2位。新たなヒーローの登場を予感させるレースとなりました。

⑥1989年最終戦オーストラリアGP

2005年03月16日 17時58分26秒 | あの日のGP
(ポールポジション=A・セナ  優勝=T・ブーツェン)
レースの前から波紋を呼んだこのレース。あの鈴鹿の後、マクラーレンはFIAに提訴し、セナとプロストはお互いを批判するばかり。もはやマクラーレンは解体寸前なわけ。そんな中迎えたレースは、とんでもない土砂降り!!雨の大っ嫌いなプロストはレース中止を訴え、3人のドライバー以外はこれに応じる。もちろんセナは残ってた、レースが無くなれば、たとえ鈴鹿での裁定がひっくり返っても彼のチャンピオンはなくなるから。結局強引にレースはスタートする、みんな慌ててマシンに乗り込んだからフォーメーションラップの順番はてんでんバラバラ。スタートではプロストが先行!!セナとタイヤがヒットするほどの激しい1コーナー争いだ。結果的にはプロストが引いてセナがトップで1周目を終える。んが、プロストはピットへ帰ってきちゃった・・・。誰の目にもプロストがレース放棄を決めたのは明らか。死ぬような危険を冒すわけにはいかないというのが彼の持論。結局あちこちでスピン&クラッシュが発生し、レースは赤旗再スタートとなる。しかし、プロストは出走拒否。爪を噛むワールドチャンピオンは頑として譲らなかった。再スタート後もセナはリード、途中で3回転半の大スピンをやらかすが何とか生き残る。曰く、「コーナーよりもスピードの出るストレートの方が危険だった。」皮肉にも、彼は自分でそれを証明してみせた。周回遅れのピケをパスしようと左に出た、そこにブランドルがいた。・・・・!!!この瞬間、セナのワールドチャンピオンはなくなった。
3輪走行のマクラーレン・ホンダはピットで無残な姿をさらした。彼の本当の闘いはこれから始まるのだ・・・。レースは生き残っていたブーツェンがリード。しぶとく生き残っていた我らが中嶋悟は、終盤4位に浮上!!そして遂にはレースのファステストラップを記録!!日本人でファステストラップを記録したことがあるのは中嶋ただ一人。偉大な記録だ。結局中嶋はミスファイアが出て4位止まり。ブーツェンが逃げ切りナニーニが2位、3位パトレーゼの順位で89年は幕を閉じた。
俺はこのシーズンをきっかけにF1にハマリ込んでいく。