日本将棋連盟会長の米長邦雄が18日午前7時18分、前立腺がんのため東京・新宿区の病院で死去した。
享年69。
米長といえば中原誠。
中原誠といえば林葉直子。
林葉直子といえば、お騒がせ女流将棋元クイーン。
連想ゲームだ。
米長は、50歳直前に名人位になった遅咲きの棋士だった。
ライバルは中原誠永世名人。
林葉は、あこがれて15歳で米長門下生になった。
だが、その林葉は、よりによって米長のライバル中原と道ならぬ不倫で世間を騒がすことになる。
林葉は厳格な父(故人=福岡県警・警察犬指導)に育てられた。
ファザーコンプレックスの塊だった。
中原に父性を感じた林葉と中原は暴走した。
やがて、それが原因で棋士界を揺るがす。
天才女流棋士と呼ばれた林葉は、それが響いて引退。
中原も脳溢血で倒れた。
今の羽生善治3冠以上に一時代を築いた大棋士の姿は、見る影もなくなった。
米長と天才女流棋士と大物棋士。
女性関係でも、米長は「生涯現役」で名をはせた。
自他ともに認める性豪伝説を持つ。
その米長がライバル中原に、こともあろうか、愛弟子を寝取られてしまった。
前立腺がんも、全摘出すると生殖機能に支障が出るので米長は手術をためらった。
そのために、死を招いた、と笑うに笑えぬ噂が流れるほどだ。
だが、米長は将棋界の発展に、機略と強引さで原動力になった。
ホリエモン堀江貴文が絶頂のころ、米長はネットで将棋を活用できないか?
ノウハウを教えてほしい、と接触。
名人戦も単独主催だと棋界にとって利益が少ない。
そう考えて、朝日と毎日両新聞社で共催させる辣腕ぶりを発揮した。
棋界以外をも騒がせた将棋界の風雲児が逝った。
★米長語録 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」。3人の兄は東京大学。自らは中大経済学部。しかし、棋界ではトップに君臨、名言を生んだ。
◆米長邦雄(よねなが・くにお) 1943年6月10日ー2012年12月18日)享年69歳。山梨県生まれ。63年、故佐瀬勇次名誉九段門下で四段。7度の名人戦挑戦で93年、中原誠名人を破り、49歳11ケ月で史上最年長名人になり「中高年の星」と言われた。03年に引退。通算成績は1103勝800敗。獲得タイトル数19期(名人1、十段2、王位1、棋王5、棋聖7、王将3)は歴代5位。73年、棋聖で初タイトル。85年、通算5期で永世棋聖の称号を獲得。棋風は、劣勢になると自陣の駒を複雑に配し逆転を狙うことから「泥沼流」とも言われた。85年には中原誠十六世名人との十段戦(竜王戦の前身)に勝ち、史上3人目の4冠(十段、棋聖、王将、棋王)を達成。2003年に日本将棋連盟専務理事。05年に会長就任。強豪アマのプロ編入試験を実施、瀬川晶司四段(現五段)を誕生させた。2012年1月には、コンピューター将棋ソフトと公式対局して敗れ話題となった。08年に前立腺がん発覚。
しかし、前立腺癌とか咽頭がんとか因果応報を感じる。