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山崎幹夫の各種センサー

ここは現在イベント告知だけにしています。

映画をつくることは快楽である

2011年01月15日 23時57分42秒 | 映画表現の辺境へ
映画をつくることは快楽だ。それも、けっこう長く持続する。
どんなカス映画になってしまったとしても、その中には1ショットぐらいはうまく撮れたと思えるカットがある。それを上映するたびに快感にひたることができるのよ。ここがエッチの快楽とはちがうとこ。
エッチの快楽だと、射精しちゃうと終わりでしょ。エッチに持ち込むまでが盛り上がっていて、もう射精するはるか前にうんざり感に浸食されていたりするもんだし。もっと言えば、2、3回エッチしてしまうと、もうあとはどう円満に別れようかということばかり考えたりして。
その点、映画は最初に書いたようなわけで、何度でも快楽が持続するぞ。

よく、映画を批判する言い方で「オナニーだ」というものがある。まあ、自己満足しやがっているだけで、観客を置き去りにしている作品は多い。とくにプロデューサーというフィルターの入らない自主製作映画では、すこぶる多い。それは間違いない。
でもなぁ、つくった本人さえ満足できないような作品が、どうして他人も満足させられるの?と思う。まずは、それがうぬぼれであって結構、つくった本人が「俺スゲー」と思えるようなものをつくることを目指していいでしょ。

添付画像を何にしようと「8ミリ映画画像フォルダ」を開いてみたら、自作品『ゴーストタウンの朝』のこの画像がぱっと目についた。
これは単純に石丸さんの顔のまわりを電球をぐるぐるまわして(まわしたのは助監督してもらった、エマーソン北村くん)、それを5重撮影しただけのことなんだけれど、いいショットになりました。上映するたびに「どうよ」という気分になります。

ヒロイン列伝番外編その2/筐理恵

2011年01月12日 22時35分50秒 | 映画表現の辺境へ
ケチらずもう一人も紹介しちゃいましょう。
『Like a Heavenly Edge』もうひとりのヒロイン、筐理恵さん。
撮影現場では「りえちゃん」と呼んでいたので姓(芸名?)が「筐」だとはクレジットボード見るまでわからなかった。どう読むんだっけ。ゲーセンのゲーム機などに使う筐体(きょうたい)の字ですよね。あと、花登筐(はなとこばこ)という作家もいたけど。
この人もこの名で検索しても何も出てきません。みんな、どうしているやら。

映像のエロ表現その10/魅せる声

2011年01月07日 23時09分13秒 | 映画表現の辺境へ
声もまた重要な要素だ。忘れがちだけど。
つい先日(2011年1月1日)に日本での放送(全13回)が終わった『ネクスト・アメリカン・トップモデル・シーズン6』で優勝したモデルさんは、番組の最初から最後まで南部なまりを指摘され、それが「欠点」であると審査員に言われ続けていた。
でも、それがそのコの魅力じゃないか、と私はずっと感じていた。
たとえば、現在メキシコ在住(う、うらやましい)の個人映像作家、長屋美保。彼女の魅力は声にあるとずっと思っている。なまりがあるわけじゃないから気づきにくいけれど、ちょっとぶっきらぼうな喋り方が魅力的だ。美人じゃないのに常にモテていた人なのは、そのしゃべり方にも秘密があるとにらんでいました。
なまり、声の音質、滑舌における特質。
子どもの保育業界をやっているとたまに出会う、少女なのにガラガラ声というコも妙な魅力がありますよね。ラ・カメラのはじまりの方のプログラム(1993年4月)で上映した栗原千絵子『海降らし』の少女も、とんでもないガラガラ声だったっけ。ハスキーなんてもんじゃない、まさにガラガラ声としか言いようがない。でも、そこが魅力。
添付画像は長屋美保『天使待ち』より、作者じしんのアップ。

さてこの「映像のエロ表現」も連載10回になって、きりがないのでここらで休止して、いいかげんに作家ごとの紹介に戻りたいと思います。
その前にいくつかほかのカテゴリの紹介しときたい画像がたまっているので、そちらを片づけてからになるか。

映像のエロ表現その9/人形(背徳)

2011年01月06日 23時21分14秒 | 映画表現の辺境へ
人形はエロいんだけれど、それを映画のなかでうまく表現している例は、となると「はて?」となってしまう。ホラーではいくつもあるのですが。
アニメだと例えば『ローゼンメイデン』とか思い浮かぶのだけれど、アニメはちがうな、やはり。
そんなこと言ったら映像だってちがう。写真もやはりちがう。人形はそのものが、そこにいないとな。いのちのない物体なのに、なぜこんなにも強い存在感をはなつのか。
それはやはり、人形づくりという表現行為が、あらゆる表現行為のなかで、もっとも背徳的な行為だからだろう。
あ、そうそう、背徳。しまだゆきやす君主宰の「背徳映画祭」なんてのもあります。エロの背中側には、ひたっとこの「背徳」が寄り添っています。
でもね。
背徳をひっぺがすと成立しないエロでは、ひ弱だと思うのですよ。だからこれまでエロ成立の要素として背徳は掲げなかったわけで。
それはともかく……。
人形は動かないから、コマ撮りで動かしてみる。そうすると、アニメーション映画の文脈のなかに取り込まれてします。
では、人間とからませてドラマをつくってみる。そうすると、人間と人形とのあからさまな差異を埋めることができなくなってしまう。
おっと、そんなふうに書いてみて思い出したぞ、あれだ、プロレスのDDTのヨシヒコ(プロレスカテゴリの記事参照ください)。ダッチワイフであるヨシヒコをプロレスラーとして扱うことで、きわめて上質の作品(試合)をつくりだしていたっけ。そこにはエロ表現はなかったけれど、何か重要なヒントはあるような気がする。

添付画像は未公開の自作品『Like a Heavenly Edge』より。2006年に取り壊されたらしい、大阪の「軍艦アパート」の屋上のへり(エッジ)に、伽井丹彌(かいあけみ)さんの人形を座らせてみた1ショット。

映像のエロ表現その8/もの喰う女

2011年01月05日 23時44分21秒 | 映画表現の辺境へ
無心においしいものを食べる若い女。
すべてのアダルトビデオを見ることは誰にもできないことだけれど、たとえば援助交際ハメ撮りビデオなんかの冒頭で、ファミレスとかコンビニで買えるようなものを、素の表情で食べている女の顔のショットを撮れないものだろうか、と思う。
たとえそのあと、作業的な退屈なエッチシーンが続いたとしても、最初の方でそんな「もの喰う女」の無心な表情をとらえていたとしたら、たいぶちがうんじゃないか、と。
武田泰淳の掌編と言ってもいいほど短い小説で『物喰う女』というのがあります。
のちに妻となり、小説、エッセイでも業績のある武田百合子がモデルだと言われているんですけど、貧乏な女がデートのときに、うまそうにものを喰う姿が活写されています。
谷崎、川端、吉行などなど、とかくエロ表現は小説が突出してます。やはり妄想表現は文字がぴったりなのかも。
そんなズバリのエロ表現の傑作群からはちょいどはずれる位置にあるけれど、この『物喰う女』はいいとこ突いてる。
エロな気持ちがぐっとソソられていくときのポイントを突いていると思うのですよ。
だって「はい、どうぞ」といきなり大股広げられてもエロさはソソられないでしょ。そうじゃなくて、隣接領域から攻められたときに、びよんと盛り上がるわけでして。
そこがエロ表現とホラー表現の、根本的に異なるところでしょう。エロは隣接領域へと逃げようとする。逃げまくってしまうと、その表現を商売として成り立たせることが困難になってくる。アメリカのエロ表現と、日本のエロ表現が、現在、とても離れているのは、そんなところに要因のひとつがあるのでしょう。

映像のエロ表現その7/廃墟

2011年01月03日 23時40分35秒 | 映画表現の辺境へ
廃墟もまたエロいものだ。
けれども、コスプレと似ていて、たくさん存在する写真集、DVDを見ても、いや、見ていないが、たぶんそこに「廃墟のもつエロさ」はないと思う。写真集、DVDにすることで、やはり「作業」になってしまっているからだろう。
ん?
ということは、関根博之さんの廃墟8ミリ映画が見せてくれている「廃墟のエロさ」ってのは、言い換えてみると、デキのいいハメ撮りみたいなものなのか。うわっ。
添付画像はWiiのゲームで『FRAGILE(フラジール) ~さよなら月の廃墟~』というやつの画面。私はプレイしていないけれど、これは「廃墟探索RPG」だとのこと。評価が低いので、やはり私やみなさまが危惧するようなことになってしまっているのでしょう。
廃墟探索の醍醐味はやはりナマにあるわけだけれども、それをどうにかして映像で表現することはできないだろうか。私もこれまでさんざん廃墟を撮影の舞台に選んできたけれど、ひとつも成功していない。
2つ、方法はあると思う。
ひとつは関根さんのように、廃墟に何日も泊まり込んだり、最初からムービーカメラを回さず、写真を撮りながら廃墟を味わいつくし、その上でキモの部分をうまく凝縮していく方法。正攻法だけれど、関根さん以外で実践しているのを見たことがない。
もうひとつは、たとえばニコ生中継のようにして廃墟に入り込み、インタラクティブなやりとりのもとに探索をしていくこと。
役者さんならば、撮られたり見られたりすることに対して応えてくれるだろうけれど、廃墟は野生動物みたいなものですから、どんなに時間を費やしても、簡単にそのスカートの中身を撮らせてはくれない。

映像のエロ表現その6/エロと散歩

2011年01月02日 23時46分03秒 | 映画表現の辺境へ
エロと散歩は似ているような気がするな。
どちらも、最短距離でいってはいけないもの、というココロ。
散歩を「路地を徘徊する快楽」とか言い換えてもいい。回り道をする。「お、こんなところにこんな路地が」と発見する。「あ、ここに抜けるのか」とかいうマッピングの快楽。その途中で気づいたり、目撃してしまういろいろなこと。「この先はもう住居侵入になるかも。でもちょっとごめん」とかいうドキドキ(プチ背徳)。
まーこんな感じでしょうか。とにかく、効率的であることとは無縁でしょう。それどころか、回り道するところがキモなんですよね。
エロもまったく同じ。じらしたり、引き延ばしたりすることで快楽が増すわけでしょ。回り道することだったり、モジモジして煮え切らないことだったりが快楽パラメーターを持ち上げてくれます。
そこらへんなんですよね、ほとんどのアダルトビデオがつまらない理由が。
一言で言えば作業感に満ちている。スタッフも男優、女優もギャラをもらって「作業」しているわけです。それゆえにどうしようもなく漏れ出てくる「作業感」が、おおいにエロを阻害している。

ところで添付画像は本文とは関連ないのですが、大仏さまの手の部分の展示物を、時計回り90度傾けてみました。なんかエロい手つきですよね。

映像のエロ表現その5/自主製作映画

2010年12月26日 23時24分07秒 | 映画表現の辺境へ
自主製作映画はエロい。いやちがう。自主製作映画だからってエロいシーンがあるのはほんのわずかしかない。けれども、たとえちょろっとおっぱいが見えているだけのようなシーンでも、それは商業映画の何倍もエロい。
だから自主製作映画の作者はそのことに自覚的であってほしい。何が言いたいのかと言うと、もっとエロい映画つくってよ。気取ってばかりいないでさぁ。
まあ、それは失言ということにしてもらって、ではなんで自主製作映画での裸とかからみとかがエロいのだろう?
たぶんそれは、出演者も、撮影者(カメラの後ろにいる人間たち)もウブだからだろう。
性的なことにウブではないとしても、性的なことを表現することにウブなのだ。そこがいい。観客のエロ妄想を刺激する。
だからアダルトビデオの世界でも「素人ハメ撮り」という文言がウリになるわけだろう。
添付画像は『虚港』より。どなたかの自主製作映画の1ショットをキャプチャーして添付しようと思って、じつは「おお、あれだあれだあれがいい」と思った作品があるのだけれど、残念ながら作者(兼被写体)と面識がないのであきらめました。なので自前で。
さて、ウブであることとは別に、もうひとつ言えることがある。
これは予定調和的ではない、ということだ。
アダルトビデオはエロ表現をしなくてはならない。しかし自主製作映画には、そんな決まりごとはない。結果的にエロくなってしまったということは、予定調和ではない。タナボタのようなものだろう。タナボタって、最高にうれしいじゃないですか。

(追記…この記事は気がついたら「公序良俗違反」とのことで公開停止措置が取られていました。添付画像がダメとの判断が下されたようです。しかし記事の中で書いているように、これは映画作品『虚港』の一場面にすぎません。まあしかし、画像は削除することにします)

映像のエロ表現その4/女子プロレス

2010年12月25日 23時40分43秒 | 映画表現の辺境へ
女子プロレスはじつはさほどエロくはないけれど、女子プロレスのおもしろさを構成している要素のひとつにエロがあることはまちがいない。
では、その「エロ」とはどんなものなのか。
男子プロレスの主要テーマである「肉体や精神の強さと、強さへと向っていくことの表現」とはかなり異なって、女子プロレスの主要な表現テーマは「感情の爆発的高揚」だ。
アスリートとしてへなちょこでは成り立たないのではあるけれど、それに加えて、感情の高まりを観客に伝達する表現力が求められる。
つまり女子プロレスでスターになるためには「女優力」が必要とされるのだ。これは映画や演劇の女優さんだけでなく、アダルトビデオの女優さんにも求められる才能だろう。
とくに「感情の高揚の表現」が最重要ポイントとなる点において、女子プロレスラーとアダルトビデオ女優さんは共通する技能が要求される職種であると言ってもいい。
で、ですね。ここからが重要なのですが、もちろん「エロ表現」ではない女子プロレスは、古くは中卒で入ってきて、練習生を経てプロテストに合格してデビューするわけでして、つまり15歳デビューはざらにいたわけですよね。
それが最近では、以前から書いているように、小学生女子プロレスラー、中学生女子プロレスラーなんてのも存在するようになりました。
添付画像は納見佳容というプロレスラーです。まー、わりとアイドルっぽい美形な存在でしたが、もう引退してます。
ウィキペディアを見ると1995年10月デビューだとか。
ということは、私がはじめて納見佳容を目撃したのは1995年の8月ということになります。
場所はたしか埼玉県桶川市のどこかの野外会場でした。野外会場で、もうすぐデビューする新人レスラーを紹介してたのね。
で、そういうのは何回も見ていまして、たいていそういう場合はジャージ姿でリングに上がって、初々しく緊張の面持ちで観客に礼して終わり。だけど、このときはジャージ姿ではなかった。なんと、なんと、スクール水着だったのでした。お、おお、おおお。
なんだか細いコだねえ。大丈夫かな。すぐケガして引退するパターンかな。なんてながめておりました。
いや、ホント、あのケツのあたりが……。まるで細身の少年のようだな。
で、真夏で野外で、リングには照明が集中してますから、やたらと虫が飛び交っているわけですよ。けっこうデカい蛾とか、甲虫類などもブンブンと。
そんな虫たちの乱舞と、スクール水着と、そのスクール水着もだぶついてしまうようなお尻とが……。
強く印象に残っております。
もちろんそんな光景のBGMには角掛留造の「あと千円で座れるよー」というダミ声と、いまは亡き松永会長のつくる焼きそばのソースの匂い……。